「寝ちゃいました?」
そして今日、五月一日。
学校帰りだという私服を纏った“rulia”は、仕事帰りだというワンピースに薄手のジャケットを羽織った“さくら”――桜庭に初めて出会った。
桜庭はこちらから話しかけないと気まずそうにしていた。だから高い声でいろいろと話しかけた。
「思ったより背が高いんですね」「意外と可愛い服を着るんですね」「靴の趣味はイメージ通りかも」
色々話しながら駅ビルを一緒に歩いた。服を見てアクセサリを見て本屋でおすすめの作家を教え合い、夕食のための店を探している最中に、
「夕ご飯、テイクアウトじゃだめですか? 桜庭さんのお家、興味津々なんですが!」
「いきなりすぎない?」
「あはは、やっぱり? じゃあもう言っちゃおうかな。……ごめんなさい、嘘ついちゃった。いつか私、電話で話したんですけど。両親と仲が良くて犬を飼ってて――あれね、ぜーんぶ嘘。本当は両親は共働きで帰るのは夜遅く、ていうか、帰ってこない日も珍しくないかな。お母さんが動物アレルギーだから、ペットは私の自室でこっそり隠れ住んでる瓶の中のマリモだけ……」
いきなり白状されて桜庭は心底戸惑った顔をしていた。“rulia”はダメ押しに、少し目尻に涙をためて上目に彼女を見上げる。
「そうだよ、寂しいからあなたに近づいた。お願い、お姉さん。今晩だけでいいから哀れなクソガキをあやしてよ」
エレベーターもない築四十年の古いアパートへ案内された。
「ひゃー年期入ってる!」言葉だけで驚いては見せたが、こんなものだろうというのが正直な感想だ。
古い階段を上がり、先に家の中に通され、後ろ手に桜庭がチェーンロックで玄関を施錠する。
住宅街というわけではなく、コンビニも遠い。周囲にはまばらな街灯しかなかった。立地が悪いのできっと家賃はお手頃だろう。
「あんま騒がしくしないでね……って言いたいとこなんだけど、この階の住人は私だけ。上の階にはあったことも無い人達だけ」
そう語る桜庭の部屋は、素っ気ない、物のない部屋だった。ミニマリストというわけではなく、ただ単に新しく物を買い足さないようだった。
古びた机に角の傷ついた椅子、必用最低限の機能が付いた鏡台。クローゼットを兼ねた引き出し付きのベッド。
男の影はなく、ペットもなし――。
SNSですでに得た情報だが、桜庭は家族とはもう何年も会っていないらしい。職業は商業ビルの警備員。あまり人間関係も上手くいっていないらしかったが、もともと慣れあいが必要な職場ではないため、大した問題にはならないようだった。
「あたしビール飲むけどあんたは……」
「さっきお茶買いましたー。ねえねえ、ビールお酌してみても良い? 昔お父さんに褒められた、数少ない思い出なんだ」
「いちいち重たいんだよ言うことが。別に、いいけどさ……」
桜庭は照れくさそうにグラスとビール缶を用意してテーブルに置き、テレビにサブスクリプションの画面をつけた。「あ、これ来てんじゃん」言いながら目をそらすようにして古い映画を再生する。
どうやら他者を家に上げ、酒をお酌されることには慣れていないものの、それを興味津々に見つめることは恥ずかしいらしい。
わざとらしく桜庭がこちらを見ないので、グラスの中に粉薬を入れやすくて都合が良かった。
「あっ、この映画途中まで知ってるやつだ。確かヒロインが黒幕ってとこまで観たなぁ」
「逆になんでそこまで観て最後まで観ないんだよ……」
買ってきたチェーン店のテイクアウト品を食べながら、一緒に映画を見て適当な雑談をした。
映画が後半に差し掛かるころになると、桜庭がうとうととまどろみ始めた。背後のベッドに持たれて眠る桜庭を見て、
「御手洗い借りますよー」
そう残して席を立つ。桜庭の目につく分かりやすい場所に、自分のスマホケースを置くことを忘れずに。
ユニットバスのトイレにある小窓を開け、そこから見える光景を確認した。ぽつぽつと古いアパートや住居、ビルがあるだけだ。下に人は通らない。ずっと遠くに公園らしきものが見えた。
窓を閉じて次は風呂場を確認し、脱衣所に何枚も置かれたままのハンドタオルから一枚をくすねてポケットに入れた。
居間に戻れば、桜庭はとうとうベッドにもたれて深く寝入っているようだった。
その手には手帳型のスマホケースが開かれて握られている。「白木るりあ」という名前の入った、専門学校の学生証だ。
「もー、カンニング? 気にならないとか言っときながらぁ……」
そう言いながら、テーブルから派手にペットボトルを落としてみたが、桜庭が起きる様子はなかった。
閉じられた瞼に指を軽く置いて、深い睡眠を確認する。
「寝ちゃいました?」
耳元でハッキリと尋ねたが答えはない。
起きる気配がないので部屋を物色することにした。