「あなたが誰を好きであっても、私は応援していますからね」
それは五月の下旬、放課後のことだった。
その日の喜屋武は部活の練習に身が入らず、先輩からは「最近暑いからね」と心苦しいフォローを入れられ、仕方なく顔を洗いに一度武道場を出た。
春と梅雨の間の眩しい日差しに目を細めて、水道で顔を洗っていたとき、
「大丈夫ですか? ひどい顔……」
背後から声をかけられびっくりして振り返った。アルミ製の大きなじょうろを両手に持った安斎が、心配そうにこちらを見ていた。
安斎は今年初めて同じクラスになる女子だ。目立ちはしないがよく見れば可愛らしい顔立ちの、大人しい子という印象だった。喜屋武が彼女と話すのはこれが初めてだ。
「ああ、えっと。うん大丈夫。――ごめん、私邪魔だね。すぐどくから……」
「いえっ、邪魔をしてるのはわたしです。あっちの水道が今ちょっと使えなくて、やむを得ずこっちを使わせてもらおうかなって……」
そう言って苦笑いと共に安斎が視線を流した。喜屋武もその先を目で追うと、中庭の花壇の近くにある水道で派手な男子グループが集まって騒いでいた。どの生徒も制服を着崩して、髪をワックスで固めた素行の悪そうな者ばかりだ。
思わずうんざりとした声が出る。
「ああ、ほんっと男ってどうしようもないよね。汚くて下品で、うるさくてさ。……なんで女の子たちがあんなのにキャーキャーいってはしゃぐのか理解に苦しむよ」
「……喜屋武さんは、男性がお嫌いですか?」
「そりゃもう……えっ……ああ、あああ! いや、そんなことっ……」
男が嫌いか、という質問への答えは、この多様性の現代社会において非常にデリケートに判別される。答え方によっては喜屋武の抱える秘密がバレかねない。
いや、今のでもしかしたらバレたかもしれない。
喜屋武が顔を赤らめて困っていると、安斎が少しいたずらっぽく笑った。喜屋武の中の安斎のイメージに、「大人しそうな子」に加えて「チャーミング」が加わった。
「こういうことを言うと下世話になるのかもしれませんが、別にわたしは偏見なんてありませんよ。もちろん他言することもないですから、どうかお気になさらず」
「へ、へへへ偏見だなんて、やだなぁ安斎さん。多分それ誤解だよ」
「あらまあ、そうですか。それはちょっと……残念、だな」
「え?」
水道に近づくのかと思いきや、安斎は踏み出した足で喜屋武の方にずい、と顔を近づけてきた。つい今しがたチャーミングな印象を覚えたばかりの女子に、まつ毛までハッキリ見える位置まで近づかれては、誰だってドキドキしない道理はないだろう。
小さな唇から、落ち着きのあるその声で彼女は囁く。
「あなたのような綺麗で素直で凛とした方なら、きっと性別なんて関係なく、誰でもドキッとしちゃいますよ」
喜屋武はいよいよひどい赤面を晒していることを自覚した。
つぶらな丸い瞳を見つめていると、何だか玖珠への気持ちが揺らいでしまいそうで恐ろしかった。
――ああ、玖珠さんごめんなさい。
胸の中で謎の謝罪をする。
つい目をそらして、筆舌に尽くしがたい罪悪感に駆られながらぼそぼそと言い訳のように呟いた。
「そ、それは……みんながそうだとは、限らないよ。安斎さんみたいに言ってくれる人は多分、少数派だし。どうせ男に言い寄られたらみんなそっちに行くんだから……」
逸らした視線をちらっと戻す。まるで温かく見守るように、穏やかな微笑がこちらを向いていた。何だかすべてを見透かされた気分で恥ずかしくてたまらなかった。
墓穴を掘ることは分かっていたのに、喜屋武は言い訳を続けずにはいられなかった。
「もも、もちろん私も偏見はないから、もし男性と女性どっちにも迫られた場合、クラスの女の子だったら……って話だけどね! 仮定、そう、あくまで仮定の話」
「そうですね。ええ、もしもの話です」
話しながらじょうろにたっぷりの水を貯め終えて、安斎は水道の縁に腰かけた。
そしてまだたむろして騒いでいる中庭の男子グループを見つめながら、穏やかな口調を崩さずに続ける。
「だけど……そうですね、本当にもしもの話。もしもあなたの前に立ちはだかるライバルが男性であるとしたら、あなたは女性ですから、女性のみが、男性に対してのみ使える武器は、そう少なくはないでしょうね」
「……安斎さん……?」
言葉の意味をはかりかねて安斎を見ると、少しだけ寂し気に微笑まれた。
「あなたが誰を好きであっても、私は応援していますからね」
そう言い残して、重たそうなじょうろを両手に去っていく背中が寂しそうに見える。
――安斎さん、もしかして、私のこと……。
喜屋武は先ほど玖珠に対して感じたのとは、また別の罪悪感に苛まれた。