「女尊男卑のクソフェミ女」
ゴールデンウイーク明けの五月の上旬に、喜屋武は自分を奮い立たせて河合に声をかけることを決心した。彼が放課後に委員会に出席する日を狙って、教室で彼が戻ってくるのを待った。
自分から異性に話しかけることなど、もう何年ぶりになるだろう。手に嫌な汗をかき、拳を握ろうとすると滑る。
教室から誰もいなくなり、二十分ほど経ってから河合が一人で教室に帰って来た。
ちらりとこちらを一瞥し、河合は目をそらして自分の席へ戻る。喜屋武は意を決して椅子から立ち上がり、声をかけた。
「あの河合君っ、少し話を聞いてもらってもいいかな。……その、あの、うううちの部の、後輩の、ことで……」
男は嫌いだ。
会話なんてまともに通じるとは思えない。
性別が違えば動物としてのカテゴリが違う。
言いたいことをきちんと伝えられるか、意思の疎通ができるかどうか不安で仕方がなかった。
河合が立ったままこちらを見た。喜屋武は彼の顔を直視できず、少しだけその顔から視線をずらした。前ボタンの開けられたシャツと、中に着込んだ赤いTシャツから伸びる首に、二つ並んだ黒子が目についた。
――うちの後輩を無意味にからかわないでほしい。
その一言をすんなり言えずにまごつく喜屋武を見て、河合は軽く舌打ちして吐き捨てた。
「……そういうのイライラすんだよな。自意識過剰っつーの、男だから全部悪い、みたいな女尊男卑のクソフェミ女。話聞いてもらいてえんならさ、目を見てハッキリ話すのが礼儀じゃねえの?」
喜屋武のこれまでの人生で、ここまで明け透けに酷い言葉で人の図星をつく者は一人もいなかった。
無意味に人を傷つけるような言葉と態度に神経を逆なでされ、喜屋武は耳まで熱くなるのを感じた。
「そういうっ――お前のそういう態度のせいで私の部の後輩が、練習に身が入らなくて迷惑してるんだよ! 河合君が女子にモテるからって調子に乗ってるのはどうでも良い。だからって誰彼構わず女の子を振り回して傷つけて良いってわけじゃないだろ! 告白を断るんならもっと傷つかない言葉を選べよ。気を持たれたくないなら、思わせぶりな態度で無責任に近づくなよ!」
怒りに任せて勢い良くまくし立て、喜屋武は肩をいからせたまま河合を睨みつけた。
まるで馬鹿にするように静かな目でこちらを見ていたと思ったら、少し間をおいて、河合は無表情を崩してにやけた笑い方をした。
「さすが過激派おフェミ様だよな。偉そうに意見するときだけは、滑舌良く演説できんの」
間違いない、こいつはわざと人の神経を逆なでしようとしているのだ。
唾棄すべきその卑劣さに喜屋武が怒鳴ろうと口を開いた瞬間、そいつが爆弾を投下した。
「なあ喜屋武お前さ、玖珠のことずっと見てるよな」
「は、玖珠さっ、はあッ!?」
「一年の時からずっとそうだったよな。なに、好きなの? 玖珠璃瑠葉」
「なっ、ななな何を、好きなものか――いや、好き。好きだよ友だちとしてならっ」
「友だち? つるんでるとこ見たことねえよお前と玖珠。なあ喜屋武、お前玖珠とキスしたいだろ」
「キッ――」
「手を繋いでみたいとか思うんだろ」
「ふざっふざけるのもいい加減に――」
「俺も似たようなもんだよ」
「にっ……に……似てる? 河合君が? まさか河合君まで玖珠さんのこと」
「ばーかお前ほんとばーか。話したことなかったけど思った通りの石頭」
そこまで話して、河合が初めて嫌味のない笑い方をした。
「お前みたいに腰蓑つけて左右対称に脂肪が飛び出した人種は、好きになれねえの。俺」
さらっとそう吐き出した河合の言葉を反芻するのにしばらく時間を要し、喜屋武は頭を殴られたような衝撃を感じた。
そして見事に腑に落ちた。
河合が女子からモテるのに特定の一人との話題が噂にならなかったのには、こうした理由があったのだ。
彼は女子を――喜屋武と同じ性別の生き物を、性の対象としていないということらしい。
河合は何だかすっきりした様子でスラックスのポケットに両手を入れ、机に浅く腰かけて吐露する。
「女子って何考えてるかほんとわかんねえよ。何でも言ってくれっていうから頼み事したらデートしろって迫られるし、好きなドラマの話で一回盛り上がっただけで告白してくるしさ。――これ、俺が悪いの? ただ人として普通に仲良くしようとしただけで振り回したことになって、気を持たせちゃ悪りィからバッサリ切ったら傷つけたことになってよ。なあ喜屋武、お前これ、俺が悪いと思う?」
「それは……」
喜屋武には河合を否定できなかった。それが自分の身に覚えのある内容だったからだ。
少し仲良くしただけで、相手が異性だからという理由だけで付き合ってるだのなんだのと噂をされ、女子からは僻まれ、男子からは体つきのことばかりしか認識されなかった。
だから異性は苦手だったし、仲良く打ち解けられることなど一生ないと思っていた。
今ここで河合を否定するのは簡単だが、それは同時に自分をも否定することになる。
勝手に好意を持たれて、勝手に嫌われる。こちらは何もしていないというのに、だ。こんな理不尽を認めてたまるかと日ごろから強く思っていたからこそ、喜屋武は異性に近寄らなかったのだ。
不思議と緊張感がなくなっており、喜屋武はゆったりと声を出すことができた。
「……ごめん。勝手に決めつけて、河合君の背景も考えなかった。後輩には私からあなたに悪気はなかったと言っておくから」
「お前やっぱ馬鹿だよな」
「は?」
「これ俺の作り話だったらどうすんの? お前みたいな女が心底めんどくさくて適当にでっちあげただけの言い訳だって考えねえわけ?」
河合はまた、にやにやとからかうような笑い方でこちらを見ていた。
しかしもう、喜屋武はそんな顔をされても怒りを感じることはなかった。
「……それは、ちょっともう収集つかないから何とも言えないけどさ。だけど私がそういう人間だから、今のが嘘だとすると、ちょっと生々しすぎる気がする。だから私は今の河合君の話を信じるよ」
「あっそ。ご勝手にどうぞ」
素っ気なく机から降りて、河合は机にかけたままのショルダーバッグを肩にかける。彼が帰ってしまう前に喜屋武は慌てて訊ねる。
「待って! 一応聞くんだけど、河合君、このこと他言する?」
「何を?」
「だから私が、その、玖珠さんを……す、すすす…………好きだって……」
真顔で喜屋武を振り返り、耳まで真っ赤なその顔をしばらく見つめてから河合は吹き出した。
「なに自白しちゃってんのお前。せっかく答えずに済んでたんだから、このまま否定も肯定もせずに逃げきりゃ良かったのに」
「っ――!」
「マジの馬鹿だな」
その日、喜屋武は河合と秘密を共有する友人になった。喜屋武にとって初めてできた男の友達だった。