「だってボディががら空きなんですものぉ」
かつん、とヒールの靴を脱ぎ捨てる音。高く通る、わざとらしいほどハリのある声で石橋の母親が帰って来た。
母はいわゆる水商売と言われる仕事をしていた。ボディラインを強調する服も、いやに目立つアクセサリーも、香水も、世間一般で言われる“母親”のイメージからはかけ離れていた。
「今日の晩ご飯はねぇ~……あら、あらあらあららぁ~……」
それでも彼女を母親と認識して石橋が尊敬するのは、焦げ臭い部屋に帰ってきて黒こげのバケツを見て、足に矢傷を負った息子を見て――真っ先ににっこりと微笑む度胸を持っているからに他ならない。
「そうやって目に見える形で区切りをつけるのは良いことよぉ磐眞くん。ほぉら、バケツ触ってみてぇ」
近づくなり彼女はそう言って、石橋の手を掴んでバケツの縁に触らせた。
「あっつ」
「熱いわねぇ。それはあなたがこの思い出を燃やしてしまったからよぉ……」
触れた指が途端に赤く腫れ、水ぶくれになる。虐待にも受け取れるこの方法を、その女はまだ続けようとする。
「次に中の水にも触れてみましょう。やけどしたっていいわぁ、皮膚の傷は一週間もあれば大体良くなるんだからぁ。大切なのは体に覚えさせること。嫌なこととバイバイしたって体に覚えこませるの。焦げた匂い、熱したバケツに黒くてびちゃびちゃのアルバム、火を消したばかりの、お湯になっちゃった水の感触、すべて体に覚えさせるの。体の記憶は脳に残るから、心の覚え違いを予防できるの。――ほぉら、ママのまねしてごらんなさぁい?」
十五歳から一緒に暮らしているこの妙な女の言うとおりにする。
次にバケツから手を出したとき、お互い手が真っ赤に腫れてやけどになっていた。「おそろいよぉ」少女ぶった若い声で母が笑った。
この女こそが、人の秘密を踏み荒らす形での自己防衛を石橋に教えた張本人だった。
***
十五歳。
中学二年生でクラスメイトから受けたいじめをきっかけに、進級直前の春休みに石橋は転校した。
転校先は、彼が六歳の頃に離婚して離れていった母親の住む町だった。同じ県内だが転校前の場所からはかなり離れており、県内都市部よりも隣県への距離の方が近かった。
引っ越し先に自分を知る人間はおらず、石橋はそこでまっさらな人間関係を構築し直すチャンスを得た。
「残念だけど磐眞くん。今のままじゃあ、あなたどこへ逃げても被害者の繰り返しよぉ。だってボディががら空きなんですものぉ」
息子の受けたいじめの全貌と、それによって受けた彼の心の傷を一通り理解した後――母親が言ったのがそのセリフだった。
引っ越し先へ向かう快速電車の中で、全く想像してもいなかった反応に石橋は茫然として隣に座る女を見上げた。
悲劇の主人公に酔うつもりなど毛頭なかったが、母のこの言葉には流石の石橋も神経を逆なでされた。
「……なん、だよその言い方。まるで僕が悪いみたいにっ、悪いのはあいつら――」
「じゃあ磐眞くんは、泥棒という悪意を憎んで家やロッカーにカギをかけないの? ライオンさんはおっきな猫ちゃんだから平気だって、動物園で檻の中に入ろうとしちゃうの?」
明け透けにそう言ってのけた母に、石橋は何も言い返せなかった。
黙って見捨てられたような心細い目を向ける息子に手を伸ばし、薄く笑ってぼさぼさに伸びきった前髪を撫で、言葉を継ぐ。
「ほどほどに見た目に気をつかえば、少なくとも悪目立ちはしなくなるから、誰かに注目されづらくなるわぁ。そして周りに目を配れば、危ないものや人を避けやすくなるのよぉ。……ママが言っているのはね、磐眞くん。人生のトラブルの大半は、自分で準備をして警戒することで防げるってことなの。冬になったら厚着をするように、夏になったら日焼け止めを使うように、あなたには自分を守る方法をたくさん覚えてほしいのよぉ」
最初は突き放されたのかと思って、石橋は絶望した。
この女も教師のように、いじめにあうのは協調性のなさが原因だとなじってくるのかと思った。
クラスメイトの大半がそう言ったように、「なんかウザイ」から石橋がいじめられて当然だとのたまうのだと思った。
しかしそのどれとも違う論理を展開して、彼の母親は息子の前髪からそっと後ろ頭に手を滑らせ、ゆっくりと抱き寄せた。
「……そういうの、あの人――パパは苦手分野だものね。あなたが小さな頃から教えてあげられなかった、ママの責任だわ……」
眼前に迫る薄い生地の衣服に鼻をうずめ、石橋はどうしていいか分からず硬直した。
母親に抱きしめられるという経験の少なさに我ながら驚き、そしてこの堂々とした女が自分と同じように、息子を抱きしめたは良いものの、どうして良いか分からないといった風に身を固くしていることを感じ取った。
「じゃあ……今からでも教えてよ。お――母さんが、僕に……」
たどたどしい手つきで背中に手を回すと、待っていたと言わんばかりに母は石橋をぎゅっと抱きしめた。