「たった24時間、1440分ずらしてほしいだけ」
遠回しな引き止め方が失敗に終わったと悟り、石橋は早口になって畳みかける。
「そうだよ、察しがついてる。だから言うけどそれは今じゃなくてもいいだろ。僕は何も“やめろ”って言ってるわけじゃないんだ。“それ”をやりたくなる気持ちは痛いほど分かる。ただ、今できるんなら、明日にでも明後日にでもできるって話。一日くらい融通利かせられるよ、たった24時間、1440分ずらしてほしいだけ。だから今すぐに会って話をしよう。君の顔が見たい。“それ”はその後でもう一回試せばいいから」
『無理だよ。ごめん。なんかもうさ、今夜を乗り超えられるイメージがわかなくて……』
河があったとしても、おそらく入水は無理だろう。溺死のイメージに耐えられるような性格ではないはずだ。
電車への飛び込みは、遺族に酷い賠償金がかかる。彼女は最後まで自分の母親に復讐などできないだろうから、選ばない。
首吊り――は、確実性がない上に、後遺症が残った際のリスクが高い。
何より、ニュースによれば彼女のパトロンだった真柴が選んだ方法だ。選びたがるわけがない。
地図上で河の流れる、閑静な地域を探しながら、石橋は二駅隣の街を見つけた。
たった一つの観光スポットを除いて、周辺には古びた雑居ビルが多く立ち並んでいるようだ。中には廃ビルも多く、きっと人通りは少ない。
――なるほど、飛び降りか。
住所を自分のスマホに送信して、PCを叩くように閉じ、石橋は家を飛び出した。
玄関扉を出て施錠する音が聞こえないよう、スマホのマイク部分を指で押さえていると、イヤホンの向こうから無理に笑うような声が言った。
『勘違いしないでよ。別にこれってそんなネガティブなもんじゃない。尊厳死とか安楽死とかってあるでしょ? 自分で自由な人生を歩むための決断ってやつ。確かに生まれることを選ぶ権利はなくてもさ、死に方だけは、誰にでもコントロールすることが許されてるの』
そっと施錠した玄関を背に、小走りにアパートの階段を駆け下りながら石橋は答える。
「まともに君と知り合って数日だけど……僕の思う己斐西唯恋はエネルギーの塊だった。夢を持って、ストイックで計画的で、あらゆる障害は全力で排除しようとしてた。僕を半殺しにしようとしてまでね。だから今の君はものすごく疲れてるように思えるよ。――なあ、疲れた君の頭にそんな三流ライフハックを吹き込んだ奴は一体誰――」
『誰の受け売りでもないッ! これは誰の影響でも指図でもないッ、ウチが自分で考えたの! 何なのあんた、あんたまでそんなこと言うの? まるで人を流されやすくて中身空っぽの馬鹿みたいに言わないで。そんなに滑稽? 流行りに乗せられて、簡単に騙されるカモに見えるのっていうの? みんなしてウチの顔見て、人の影響受けたみたいに決めつけて……』
「…………自分をそんな風に思ってしまう出来事があったんだね。じゃあ今聞かせてよ。ゆっくり君自身の言葉で、電話で良いから僕に教えて」
『ああほら! またそうやって、操ろうとしてるんでしょ。簡単に意見を変えると思わないで……。それに、誰だって一度はこういうこと考えたことあるはずじゃん? ウチだけじゃない。あんただって、試そうとしたんでしょ。中学の時――トイレで、ドアノブでさ』
思わず立ち止まってしまった。
こんなとき会話を途切れさせてはいけないというのに、一瞬喉が詰まる。
耳ざとく己斐西がそれを察して、電話の向こうで自嘲気味な笑い方をする。
『ごめん、ネットでエゴサしてたら知っちゃったんだ。あんたが受けたいじめの内容、画像、あんたが試そうとした“逃げ方”。……ほらね。失礼で、下世話で、人のこと不愉快にするやつなんだよ。己斐西唯恋はさ。あんただって思うでしょ? こんなやつが人に喜ばれるためには、死ぬのが一番だって』
再びスマホのマイク部分を手で覆いながら、息を切らせて全力で走る。
今まさに乗り口を閉じようとしているバスに大きく手を振りながら追いかけた。
幸いにもバスが止まってくれたのを確認し、息切れを隠しつつ、何事もなかったように掠れ声で会話を再開する。
「……ああ、分かった。百歩譲って君の言う通りだとするよ。自殺はポジティブ、素敵な選択。だとしたらどうして己斐西さんは、そんな泣きそうな声でそれを話すの? 納得してほしいんならもっと高らかに堂々と演説しなきゃ」
飛び乗ったバスにほとんど人が乗っていないのを良いことに、最も後ろの席に隠れるように座り、マナーなど無視して通話状態のままチャットツールを立ち上げた。
『……それは……』
「もしかして今やろうとしてることとは関係なくて、自己嫌悪で泣きたくなってる? じゃあ僕が最近出会ったクズ人間ハイライトを聞いてくれ。――喜屋武照沙は過激派フェミニズムと嫉妬に狂って、あろうことか僕の足に矢をぶち込んできて危うく僕は死にかけた。玖珠璃瑠葉はデバガメ大好きの野次馬で、人の悲劇で米を何キロもイケる。ていうか己斐西さん知ってた? うちのクラスの河合雁也、あいつほんとはさ――」
奴を暴力で打ちのめしてその記憶から吹っ切れたつもりでいたはずが、声に出そうとすると胃液がせり上がってくる。
我ながら情けないことだと、石橋はスマホの液晶画面を睨みつけた。