003 全てが始まった日
初めて目にした夢の世界は、想像していたよりもずっと素敵だった。ホールに煌めくシャンデリアは、頭上でキラキラと輝き夜の世界を引き立たせる。
その下で踊る、花のような女性たちは笑顔でとても楽しそう。
今日、社交界デビューを果たしたリリー・フローレスは、足を踏み入れた夜会会場に圧倒されていた。母親や姉たちから話でしか聞いたことのなかった王都の夜会。
真っ白なデビュタントドレスに身を包んだリリーは、頬をほんのり赤く染め興奮に胸躍らせていた。
「リリー、呆けてないでしっかりしなさい。王族の方々に挨拶もするのだからね」
エスコート役の父に、組んでいた腕を優しく叩かれた。リリーは、夢のような世界から現実に引き戻される。
「わかっています。失敗しないうように祈っていて」
リリーは、子供のような無邪気な笑顔を咲かせる。末の娘のその笑顔に、父親は心配しつつも微笑を零す。会場内に入ると、デビュタントの娘に向けて祝福の声が落とされた。
「デビュタントおめでとう」
すれ違う人々に、笑顔でそう声をかけられる。リリーは、会釈をしながら会場の奥へと進んだ。ずっと楽しみにしていたこの瞬間が夢みたいで、心の中はフワフワと踊っている。
父親と一緒に会場内を歩き、自分が主役になったような錯覚を覚える。
緊張しながら王族への挨拶を終えたリリーは、知り合いへの挨拶回りに向かった父親と少しだけ離れた。少し休憩したいと飲物を手に、ホールの壁際に寄って煌びやかなホールの風景を見ていた。
十六歳になったリリーは、ずっとこの日を楽しみにしていた。自分が想像していたよりも素敵なこの風景に、見惚れて浮足立つ。壁際に寄ってホールを見渡していると、会場全体がよくわかる。
リリーと同じように今日デビュタントを迎えた娘たちが、ちらほらダンスに誘われて踊り出している。
その光景を見ながら、素敵だと羨望の眼差しでシャンパングラスを手に立っていた。自分も、王子様のような男性に見初められてダンスに誘われてみたい。
貴族の令嬢なら誰もが一度は憧れる夢。リリーも同じ様に夢見ている。きっと自分にも、素敵な運命の男性が現れるのだと。
この時のリリーは、かなりおっとりしていて王都の令嬢たちと違って世間知らずな夢見る女の子だった。本当の恋が、どういったものなのか知らない。リリーが知っているのは、物語のような輝く恋。だけど実際は、そんな輝く恋なんてできる子はそういるもんじゃない。
この場所にいる男性は、小説のように誠実で格好良い人ばかりではない。でも初心だったリリーは、質の悪い男性と自分が関り合いになるなんて考えもしなかった。
だってリリーは、そう言った世間の負の部分からは縁遠い生活を送っていたのだ。この時は、世界は優しくて暖かいものだと信じて疑っていなかった。
リリーは、少しだけこの夜会会場の雰囲気に慣れてきていた。父親からは、この場を離れないようにと言われていたが、気になる場所を見つけてしまう。
さっきから何人もの令嬢や令息が、ホールの外に繋がる扉を行き来している。あそこには何があるのかしら? と興味が沸いた。
好奇心を抑えられないリリーは、ほんの少しだけとその場所に足を向けた。父親に対する罪悪感を忍ばせながらも、リリーはお目当ての扉から外に出る。
外には、目にしたことがない幻想的な世界が広がっていた。そこは、綺麗にライトアップされた王宮庭園への入口だった。
とても細かい装飾を施されたランプが、柔らかいオレンジの明かりを灯していた。春に彩る花々が、綺麗に配置されて咲き誇る。
花に負けないくらいおめかしをした令嬢が、令息たちにエスコートされながらその風景を楽しんでいる。令嬢同士の楽しそういな話し声も聞こえる。
リリーもその風景に魅せられて、王宮庭園に足を踏み入れる。本当は、令嬢が一人でフラフラして良い所ではない。
普段のリリーだったらわかっていただろうが、その夜の彼女は夜会という非日常の雰囲気に完全に飲まれていた。
そうは言っても一人だったリリーは、人がいないところを見つけてはその方向に向かって歩いていた。流石に、誰かがいる所は入って行きにくい。
そんなことをしていたら、だいぶ奥の方まで歩いて来てしまった。丁度良いところに白いベンチを見つけて、リリーはそこに腰掛ける。
木々の緑に、ランプの光が当たっているのを見るととても落ち着く。一人でこの綺麗な景色を独り占めしているみたいで、心が弾んでいた。
すると、誰かの足音が聞こえ一人の男性が姿を現す。リリーは、驚きながらもその男性の顔を見る。男性の方も誰かがいると思ってなかったようで、驚いた表情をしていた。
リリーは、もう充分この場所を楽しんだので彼にこの場所は譲ろうと、ベンチから立ち上がった。
「失礼します」
そう言って立ち去ろうとしたら、リリーの腕を掴まれた。
「あっ、いや、すまない……。少しだけ話し相手になってくれないか?」
リリーが、驚いた顔をしたのでその男性はすぐに腕を離した。近くでその男性の顔を見たら、余りの格好良さに目を奪われてしまう。
リリーよりも年上で、金色の髪が月明かりに照らされて輝いている。
(こんな王子様みたいな男性って本当にいるんだ……)
だけど、なんだかとても疲れた顔をしている。リリーを驚かせてしまって申し訳ないと思っているのか、顔を俯けてしょげている。その姿を見ていたら、悪い人には思えなかった。
「では、少しだけ」
リリーは、先ほど立ち上がったベンチに座り直す。その男性も、リリーの横に座った。少し話をしようといったのは、彼だったのに一向に話始めない。
不思議に思ったが、さっきの表情からとても疲れているのかも知れないと思った。だからリリーは、何も言わずにただ隣で綺麗な庭を見ていた。
どれくらいそうしていたかわかがらないが、隣に座る男性がポツリと零した。
「君は、何も聞かないんだな……」
リリーは、彼に視線を移動させる。男性の顔は、何かを諦めているような疲れ切ったものだった。
「お疲れのようでしたので……。ここは、静かでいいですね」
リリーは、ライトアップされている庭園に視線を向けた。かなり奥まった所に来てしまったからか、入口のような賑やかさはない。
「ああ。そうだね。ホールの中は、人が一杯で疲れてしまうから……」
彼は、遠くを見るように呟く。心がこの場所にはないようだ。そしてリリーと男性は、ポツリポツリとたわいもない話を始めた。
時間にしたらどれくらいその場所にいたのか、はっきりとは覚えていない。我に戻って気づいたのは、リリーが先だった。
「あのっ私、そろそろ戻らないとお父様に叱られてしまうので……」
リリーは、立ち上がる。
「引き留めてしまって悪かったね……。最後に、名前を聞いても良いだろうか?」
男性は、ベンチに座ったままリリーを見上げて聞いた。
「リリー・フローレスです。今日、社交界デビューをしたばかりなんです」
リリーは、嬉しそうに笑って言った。
「そうか……では、今年の社交界にはあちこち顔を出すのだろうね?」
男性は、尚も質問を投げかける。
「はい。恐らく、そうなると思います。あの、私もお名前を聞いてもよろしいですか?」
リリーは、名乗り出なかった男性に疑問を持ちつつも好奇心に負けて訊ねる。
「ああ。私は、グレンだよ。もし、また会うことがあったらグレンと呼んで」
家名を名乗らないことに不信感はあったが、どうせもう会うこともないだろうと追及はしなかった。
「はい。では、失礼します」
リリーは、ペコリと頭を下げるとその場を後にした。夢のような綺麗な場所で、王子様のような綺麗な男性と話ができたことに満足だった。
もし、今度会うことができたらダンスに誘ってくれるかしら? そんな妄想を抱いてドキドキした。もう会うことはないだろうと、さっきは思ったばかりなのに。自分でも可笑しくて、ふふふと笑ってしまう。
この時のリリーはまだ、格好良い男性と出会ってちょっと舞い上がって喜ぶその程度の感情だった。