016 ダニエルの置き土産
リリーは、バーバラから封筒を受け取り中を確認する。中から、グヴィネズ国のマーティン伯爵家の家紋が押された通行証が出てきた。
「マーティン伯爵家の家紋? ダニエルさんは貴族なの?」
リリーは訳がわからない。なぜ、こんな通行証をバーバラに託したのか。ダニエルという男性は、一体何者だったのか……。
「ダニエルさんは、お嬢様のことを心配しておりました。少しの間だけでしたが、この家の妙な違和感を感じていたようでした……。もうお会いする人ではないだろうと、私が話してしまいました……。そして、ここを出て行く前にこれを下さいました」
バーバラは、神妙な面持ちでそう話す。リリーは、自分の立場を知られていた事実に恥ずかしさを覚える。
こんな誰にも知られていけないような境遇にいる自分を、ダニエルはどう思ったのだろう……。今まで、人からどう思われようが気にはしなかったはずなのに……。
「強い女性ですね」と言ってくれたダニエルの顔を思い出すと、居たたまれない感情が沸きあがる。
「軽蔑したでしょうね……」
リリーは、とても小さな声でポツリと言った。
「いいえ。ダニエルさんは、『只、純粋に愛しただけなんだろうね』とおっしゃっておりました。軽蔑したようなお顔ではなかったです」
バーバラは、優しい瞳でリリーにそう言った。今、リリーに対して慰められる唯一の言葉に思ったから。リリーは、驚いた顔をする。
「そう……。ダニエルさんがそんなことを……。思った通り、良い人だったのね」
リリーは、ふっと力を抜いて笑みを浮かべた。豪快に笑うダニエルらしい言葉だと思ったから。
「だからもし、何かの際にはこれを使って下さいと。ここを出るようなことがあれば、しばらく他国で羽を休めてみるのもいいはずですと。助けてもらったお礼を何もできなかったので、遠慮せずに頼って下さいと言っていました。お嬢様! どうかこれを使ってダニエルさんを頼って下さい」
今度はバーバラが、リリーに懇願する番だった。短い間だったけれど、一緒に暮らしていればわかる。ダニエルは、とても紳士で真面目な男性だった。
バーバラが、話を聞いてもらったときも余計なことは言わずに黙って話を聞いてくれた。きっとリリーの力になってくれると思ったのだ。
「だけど……。数日前に出ていったばかりなのに……。それに、ダニエルさんはこのマーティン伯爵家とは一体どういう関係なのかしら?」
リリーは、躊躇してしまう。正直、とても有難い話だ。実家とは絶縁状態だし、ここを出て行ったら絶対にグレンは追ってくる。グレンが探すような場所には身を寄せられない。
だからこそ、他国に行ってしまえるならそれが一番良いことのように思えたのだ。
「わかりません。でも、仕事をしている家だと言っていました。もしかしたら只の使用人かもしれないし、とにかく行ってみたらわかります」
バーバラは、必死だった。リリーのことがとても心配だったから。ここで暮らすようになってから、何でもできるようにはなっている。だけど、一人で行動しなければいけないような事態は初めてのことだったから。
「わかったわ。私も、どうせ行く当てがないのだもの。ダニエルさんを信じて行ってみるわ」
リリーは、躊躇いを捨ててバーバラの言う通りにすることを決める。自分の我儘でバーバラをアレンと行かせるのだ。バーバラの不安もできるだけ取り除いてあげたかった。
「良かった。私もそれなら安心です。では、すぐに準備をいたしましょう」
バーバラが、部屋を出て身支度を始める。リリーは、一階に降りてもう一度グレンと話をしなければと拳を握る。
バーバラをアレンと共に一緒に行かせる許可を得るのだ。
リビングに行くと、グレンとアレンが仲良く二人でソファーに座っておしゃべりをしていた。アレンは、父親と久しぶりに会えて嬉しそうな表情に戻っている。
リリーは、その表情が見られて良かったとホッとする。
「グレン、ちょっとお願いがあるの」
リリーは、二人が話している最中に割って入る。二人は、会話を止めてリリーを見た。
「リリー何だい?」
グレンは、普段通りの態度に戻っているリリーに安心していた。
「アレンの乳母として、バーバラも一緒に連れて行って欲しいの。そうしたら私もとても安心だもの」
リリーは、天使のように微笑んでみせた。グレンがNOと言えないように。
「えっ? バーバラを? でもそれは……」
グレンは、思ってもいない申し出に困っているようだった。
「私は、一人で大丈夫。ただ、私に関係がある人だと知られるのは不味いから、グレンが新たに雇った乳母だということにして欲しいの。それぐらいは、できると思うの」
リリーは、笑顔を崩すことなくグレンに言葉を重ねる。リリーは、今までグレンに何かを頼むということがなかった。それだけに、グレンも簡単には希望を跳ね除けられない。
「アレンは、愛するグレン様と私の宝物だもの。できるだけ寂しい思いはさせたくないの」
リリーは、グレンの手を取って懇願した。笑顔を奥に切なさを滲ませて。グレンを見つめる。その横では、アレンがじっと父親のことを黙って見つめていた。
「わっ、わかった。バーバラも一緒に連れて行くよ。でも本当にリリーは一人で大丈夫なのかい? 僕は心配だよ」
グレンは、今までにないリリーの押しの強さに押し切られる。それにグレンは、こんなにあっさりとアレンを手放すことを許してくれるなんて、思っていなかったので拍子抜けしていた。
もっと拒否されて、取り乱すと思っていたのだ。それに比べたら、リリーの要望は尤もだと思うし、ヒステリックに罵られるよりもずっとマシだと思った。
「大丈夫よ。もう私も、大人の女性だもの。グレン様に出会った頃の子供ではないのよ」
リリーは、少しの皮肉を忍ばせて笑う。リリーの内面に流れる心情を知っている人が見たら、さぞ恐ろしい笑顔だったことだろう。
でも、そんなことを知らないグレンは、呑気にも自分はここまで愛されているのだと全く違うことを考え安心しきっていた。




