015 リリーの決断
リリーの頭の中は、不思議と冷静だった。アレンとの別れが、回避できないのなら一番良い方法を考えなければとそればかりだった。
グレンの「愛している」という言葉が、もう言葉通りのものではなくなっていた。自分の中で、何かがプツンと切れたのだ。夢から覚める時がきたのだと悟った瞬間だった。
リリーは、ゆっくりと階段を上った。二階に着くと、使われていない客室からボソボソと声がする。きっと、この扉の先にバーバラとアレンがいて二人で楽しくおしゃべりでもしているのだろう。
リリーは、大きく息を吸って吐いた。自分の中での覚悟はもうできている。アレンとバーバラに、落ち着いて話をするのだ。
コンコンと扉を叩いてドアを開けた。扉からリリーが顔を出すと、二人が会話を止めて彼女を見る。リリーは、そんな二人に笑顔を溢した。アレンが、笑顔で自分に近寄ってきた。
「おかあさまー。もうお話終わったの?」
アレンは、リリーの膝にしがみ付いて訊ねた。
「お父様とのお話は終わったの。今度は、アレンとバーバラにお母様からお話をするね」
リリーは、アレンににっこり笑顔で微笑む。バーバラの方を見ると、とても心配そうな表情でリリーを見ていた。リリーは、大丈夫だと言うようにバーバラにも微笑む。
「お話ってなーにー?」
アレンは、興味津々だった。これから言わなくてはいけないことは、この子にとって酷なことになる。だけれど、この子の為を思えば仕方がない。
自分とずっと一緒にここで生活することが、この子の為にならないとずっと思っていた。貴族として生きて欲しいなら、いつか自分が手を離さなければいけないだろうと漠然とした想いは抱えていた。
まさかこんなに早く、突然その時が来るとは考えてもいなかったけれど……。
「アレン……。アレンは、これからお父様とここではないお家に行くことになりました。そこには、お母様は行けないの。お父様と新しいお家にいる女性の言うことをよく聞いて、これからは生活するのよ」
リリーは、しゃがんでアレンの手を取って話をした。アレンの瞳は、じっと自分の視線と交差していた。言い終えた頃には、不安げに心細そうな顔をしていた。
「何で、お母様は行かないの? 僕、そんなの嫌だ」
アレンは、駄々っ子のようにブンブン首を振っている。リリーは、アレンをギュっと抱きしめる。
「アレン。お母様もアレンと離れるのは辛いの。でも、約束するから。必ずアレンに会いに行くって。だからそれまで、元気でいて」
これが、自分に言える精一杯だった。この約束は、アレンの為だけでなく自分の為でもあった。自分の宝物のアレンと、離れて生きていける自信なんて本当はない。
だけど、この約束があればこれから先も生きていける気がしたのだ。
「いつ来るの? すぐに来る?」
アレンが、尚もリリーに聞いてくる。子供は、純粋で時に残酷なことを聞く。リリーは、何て答えていいのか言葉が出てこない。
「必ず……必ず会いに行く。だからいい子にしていてね」
リリーは、アレンをきつく抱きしめる。この子は、リリーの唯一。何もいらないから、この子だけはずっと一緒にいたかった――。
リリーは、ゆっくりとアレンから手を離して今度はバーバラを見た。バーバラは、自分の口に手を当てて瞳には透明の雫が滲んでいる。
「……お……じょう……さま」
バーバラが、声を押し殺して泣いている。リリーにとってバーバラは、いつも心の支えだった。両親から頼まれたからといって、こんな所までついて来てくれて本当に感謝していた。
バーバラがいなかったら、子供なんて怖くて産めなかった。彼女がいたから、ここまでやってこられたのだ。
だけど、バーバラにも言わなければいけない。自分の我儘ばかりを押し付けてしまって本当に申し訳ない。だけど、これはバーバラにしか頼めない。
「アレン……。今度は、バーバラとお話をするから、お父様のところで待っていてくれる? 新しいお家がどんなところか聞いてごらん」
リリーは、バーバラと話をする前に一度アレンを部屋から出した。二人だけでどうしても話しておきたかったのだ。
「――――わかった……」
アレンは、不服そうな顔をしていたけれど言うことを聞いて部屋を出て行った。リリーは、バーバラと向き合う。
「バーバラ、お願いがあるの」
リリーは、バーバラの目を見てはっきりと言った。バーバラは、目を赤くして鼻をすすった。
「お嬢様……。こんなのって、あんまりです!」
バーバラは、嫌悪感を露わにして怒っている。
「バーバラ、お願い聞いて! 大切なことなの!」
リリーは、言葉がきつくなってしまう。この願いだけはどうしても聞いてもらわないといけないと、焦りが出ていた。
「お嬢様……。一体、なんですか?」
バーバラは、リリーのキツイ物言いに驚いた顔をする。
「バーバラ、お願い。あの子に付いて、ピーターソン家に行って! じゃないと私が安心できない! あの子にもしものことがあったら、私は生きていけない!」
リリーは、ずっと抑えていた感情を爆発させる。できればずっとあの子のそばで、アレンの成長を見守っていきたかった。立派な貴族の子息に成長していく様を見ていたかった。
だけど、それが叶わないのならせめて、代わりにバーバラに付いて行って欲しいのだ。生まれた時からずっと一緒にいるバーバラが一緒なら、グレンよりも安心できる。
今となっては、一週間に一度した顔を合わせなかった父親なんかよりも、ずっとずっとバーバラの方が頼りになる。
「そんな……。お嬢様を残していける訳ありません! 私は、お嬢様の侍女なんです!」
バーバラも、譲れないと声を張る。
「お願いバーバラ。我儘ばかりでごめんさない。だけど、貴方しか頼れないの。バーバラがアレンに付いていたら、いつかきっと連絡係になってもらえる。あの子の成長した様を聞かせてもらいたいの」
リリーは、バーバラの両腕を取って懇願する。もう、グレンのことは信用できない。「愛している」という言葉を免罪符に、リリーから全てのものを奪っていくから……。
「でも……。お嬢様を一人にできません……」
バーバラの瞳が揺れている。自分でも何が正解なのかもうわからなくなっている。
「バーバラ聞いて。ここからは、二人だけの秘密だから――」
リリーは、バーバラの耳元で「私はここを出て行く」とはっきりと告げた。聞いたバーバラは、瞳を大きく見開き驚愕の表情をしている。
「お嬢様……。どうして……」
突然の告白に、バーバラの思考も追付いていない。
「目が覚めてしまったの……。私はもうこれ以上、何も失いたくない」
リリーは、自分の拳を握りしめて焦燥感と戦っていた。これ以上ここにいたら、同じことを繰り返す。そんなことに耐えられる気がしなかった。
リリーの宣言に、バーバラが色々な何かを飲み込んだ。バーバラにだって言いたいことは沢山あった。だけどバーバラにとっても、これを逃したらリリーがここから逃れるタイミングを失ってしまいそうで怖かった。だからバーバラも覚悟を決める。
「わかりました。私が何に変えてもアレン様をお守りします。だから、お嬢様は強く生きると約束して下さい」
バーバラは、涙を拭ってリリーと正面から向き合う。リリーの瞳は、力強く今までとは違った強さを感じた。
「約束する。アレンとの約束を守らないといけないから。必ずどこか落ち着ける先を見つける。私に余裕ができたら、必ずバーバラに連絡を取る。バーバラと仲の良いアンナの名前で手紙を書くわ」
リリーは、考えていたことを伝える。バーバラと連絡を取る手段を決めておかなければ、その時が来たら困る。
「では、私からもお話があります」
バーバラはそう言うと、エプロンの胸元から一通の封筒を出してきた。
「お嬢様これを。ダニエルさんに預かったものです。隣国に渡ることができる通行証です」
バーバラは、リリーにその封筒を手渡す。
「どうして? これを?」
今度は、リリーが驚く番だった。




