求婚から始めましょう
大人としての幕開けに期待が高まり、なかなか寝付けなかった。
17歳の誕生日。貴族の子女は、国王陛下に感謝を述べ、忠誠を誓う。寝不足のまま身支度に追われたエルゼは、玄関ホールに立っていた。この日は、餞として王城から馬車が出るのが慣例だ。伯爵家として恥じない姿でと、両親が贈ってくれたドレスは伝統に則ったシルエットながら、袖にレースが施され、後ろの小さなリボンがアクセントになっている。
見えてきた馬車は、二頭立ての箱馬車で、艶やかな赤銅色。騎乗していた護衛騎士の一人にエスコートされ、車内へ足を踏み入れる。扉が閉まると、エルゼは思わず声をあげる。
「これが……お城の馬車」
壁と床は真っ白で、白銀の小花模様が一面に咲いている。ドアノブと手摺は金。白銅色のカーテンは、金糸のタッセルで留められている。絵本の世界だ。自宅の応接室に置かれたソファーより柔らかな座面に深く座り直し、背もたれに身を預けてみる。道中、窓から景色を眺めることも忘れてしまった。
謁見の間は、国王陛下のみならず、妃殿下と第二王子が並んで座っていた。陛下だけだと聞いていたので、予想外のことに怖気付いたけれど、何とか滞りなく退室する。廊下では、先程の護衛騎士と話す一人の男性がいた。襟に付けたブローチのチェーンが身分を象徴している。宰相、もしくはそれに準ずる職が身につけるデザイン。年齢からして、宰相補佐であるライナルトに違いないとエルゼは考える。ライナルトは、公爵家の次男。五代前の当主は、当時の王弟にあたる。王家の血を引く者だ。
「この度はおめでとうございます」
エルゼに気付き、ライナルトは柔かな笑みを浮かべる。
「この後の案内は、私がいたします」
手を差し出され、そっと重ねる。謁見以外のしきたりに心当たりがないものの、そういうものなのだろうと、エルゼは来た道を辿り、同じ馬車へ乗る。ライナルトは馬に乗り並走する。振動のあまりない平坦な道を走り、暫くすると緩やかに馬車が止まる。ドアが開かれ、ライナルトの手を借り降りると、目の前に大きな屋敷が見えた。
「おかえりなさいませ」
使用人総出といった様子で、折り目正しい出迎えを受ける。通された部屋は、大きな窓から採光がたっぷりと取り入れられていた。
「こちらでは、何が行われるのですか」
「お見合いです。私とあなたの」
向かい合って座ったライナルトは、誠実さを顔に浮かべる。きちんと手入れされた髪に、男性と思えない陶器のような肌。柔らかな口調は、警戒を解いてくれるけれど、信じられないことを告げられてしまった。
「ここは私の家です。実は、いい加減に身を固めろと周囲にせっつかれておりまして」
「それで、お見合い。ですか」
「はい。私はあなたを待っていました」
エルゼは目をパチクリさせる。初対面なのに、待っていたとは可笑しなことを言う。
「ふふ。一度、お会いしたことがあるのですよ」
ライナルトほどの身分を持つ人間と交流を持った記憶はない。首を傾げたままのエルゼに、ライナルトは苦笑する。
「家を抜け出したことはありませんでしたか?」
エルゼは直ぐに思い当たった。八歳の時、母の誕生日プレゼントを買いに行こうと、街に出ようとした。何度も両親と出掛けているので、一人で平気だと思った。馬車だとすぐの距離だった。
自信満々に家を出たものの、どんなに歩いても、目に映るのは立ち並ぶ大きな屋敷ばかり。足を止め、引き返そうと思うも気力も体力も残っていない。プレゼントどころではなくなっていた。
「あの時の」
途方に暮れていると、後ろから声を掛けられる。近くの屋敷の子だろうか。すっきりとした身のこなしで整った顔の、少し年上に見える少年が、気遣わしげな表情を浮かべていた。エルゼは、助けを求めるように事情を話す。
「君は優しいね」
不安でいっぱいの心が包まれていく。
「このまま街に連れて行ってあげてもいいけれど、今からだと遅くなっちゃうね。家の人も心配するよ」
家を抜け出したのは、昼食後。どれだけ街に近づいたか、わからないけれど、買い物を終え戻る頃には日が暮れる。考え込んでいると、少年は、贈り物の形は一つではないと言ってきた。
「君が出来ることを考えてごらん。お母さんを思う気持ちが、一番大切なんだよ」
少年はエルゼの手を取る。あれこれ話しながら歩いていると、あっという間に家に着いた。幸いにも、家を抜け出したことは誰にも知られずに済んだ。
「一生懸命に話す姿は、大変可愛らしかったですよ」
勝手に家を抜け出した挙句、見知らぬ少年の世話になるなど、今では考えられない行為に、エルゼは恥ずかしくなる。可愛らしいなんて。
「あの時は、大変お世話になりました。幼い頃といえど、何の礼もなく申し訳ございません」
「気にしないでください。あなたに出会えたのだから、これ以上はありません」
助言を受け、エルゼは庭師に協力してもらうと、花壇から母の好きな色の花を中心に花束を作った。母は、一輪を栞にしている。手紙を添えると、とても喜ばれたので、毎年欠かさないようにしている。
「あなたの朗らかな笑顔と健やかな優しさを忘れたことはありません。今日から、よろしくお願いします」
「はい?」
母との和やかな記憶を辿っているところに、水を差される。お見合いという名にもかかわらず、この屋敷に滞在するよう言われた。
「こちらにお邪魔してのお見合い、ですか」
「邪魔ではありません。逢瀬を重ねるだけなんて、寂しいでしょう。共に生活する中で、私を好きになってもらえたら嬉しいです」
「寝泊まりする用意はありません。それに、結婚とは親が決めるもの。こんなことをしなくても、あなたが望めば、私の両親は断ることなど出来ないでしょう」
「あなたのご両親に、泊まっていただく話をしました。しかし、私は政略結婚など望んでいない」
ライナルトは立ち上がると、エルゼの前で跪く。
「あなたが好きだ。相思相愛の夫婦になりたい」
あの時。貴族の家が立ち並ぶ区域で出会ったにもかかわらず、少年が貴族であることも、いつか夜会などで再会する可能性があることも、エルゼは考えていなかった。母とのことでいっぱいで、すっかり頭から消えていた。手を貸してくれた少年は、ずっと覚えていてくれたのに。
「私は」
「好きになってもらえるよう努力します」
「……もし。私が、あなたを好きになれなかったら。どうしますか」
「結婚しますよ」
心外だという顔で、ライナルトはエルゼを見つめる。
「辛いですが、あなたを手放すことの方が耐え難い」
膝の上に置いていた手を取られる。ライナルトは、そっと手に顔を近づけた。唇が触れるか触れないかの距離。
「遠目で見てもわかるほど、あなたは佇まいも美しい女性になった。私は、ずっと焦がれているのです。どうか、結婚してほしい」
手の平に一瞬、唇が触れた。驚きで心臓が跳ね上がる。真っ直ぐ告げられ、体が熱い。強引な手段を取ってきたのに、エルゼを見上げる顔は、期待と不安が入り混じり、目元が潤んでいる。
「荷物を。取ってきてもらいます」
諦めか、覚悟か。エルゼの答えにライナルトの声が弾む。
「心配はいりません。ご両親に話したと言ったでしょ。あなたのドレスは用意してあります。化粧品なども、愛用の物を聞いて揃えましたので、安心してください」
「そう、ですか」
「あなたの部屋は、二階のつきあたりです。本当は私の部屋の横が相応しいのですが、気が早いと皆に止められてしまいました」
エルゼは胸の内で安堵する。流石に、まだそこまでは。気持ちが大切だと言った少年は、滞在にあたり一体いくらお金を使ったのか。エルゼは複雑な心境になる。一度、部屋を確認することとなり、執事長と廊下を歩く。
「つきあたりの部屋って、あそこね」
「左様でございます。是非、バルコニーからの景色をご覧ください」
エルゼは、マホガニーの家具で統一された部屋を進み、真っ先にバルコニーに出る。
「きれい」
まるで野原だ。一見、手入れされていない自然な状態のようだけれど、しっかり手が加えられている。所々に白い鈴蘭、淡いピンクと紫に近い赤い花はシャクヤク。背の高いラベンダーの横でアーチを描く柵には、蔦が絡まっている。よく見ると、花は散策時に踏んでしまわない位置に整えられている。
「ライナルト様を中心に、昨年から手入れをしておりました」
「え?」
執事長の言葉に振り返ると、揺れるカーテンから、ライナルトが現れた。
「気に入ってくださいましたか?」
「はい。とても素敵です」
エルゼは、屋敷に来て初めての笑顔を見せた。
「今日は疲れたでしょう。明日になったら、庭を案内いたしますね」
屋敷での生活に、明日の楽しみが生まれた。ライナルトは、観賞用の植物にも気を配れる人。エルゼは、心を少し軽くさせる。乗ってきた馬車が、エルゼの為に新調した物だと知るのは、二週間後。