誰が小鳥をなかせるの?(4)【天正16年閏5月上旬】
「おい、受け取れって」
ぽかんとする私に、杏がむっとして言った。
いや、ちょっと以上に驚きすぎていて、反応できんのですが。
「聞こえてんの?」
「え、うん、聞こえてるけど」
「ぼーっとしやがって、抜けてんな」
「抜けてないわよ!
ていうか、なんでこれ持ってきたの?」
このスカーフ、こないだ巻いてあげたやつだよね。
あげたつもりですっかり忘れていたから、また持ち出されてびっくりしたわ。
「はぁ、あんた親に教わんなかったのか?」
「何をよ」
「人様にお借りしたもんは、綺麗にしてお返しする。
それが道理だって、ウチは太夫に教わったぞ」
はぁぁぁ???
驚きの追撃に、私は目を丸くしてしまった。
杏の口からまともな常識が飛び出すとか、嘘みたいだ。
唖然とする私の手に、杏はスカーフを握らせてくる。
「ちゃんと梍で洗って、
火熨斗も当てといたから」
「えっ、あ、ご丁寧に」
反射的にお礼を言ったら、杏は満足そうに頷いた。
やっぱり熨斗、ちゃんと当ててあるのか。
お風呂ついでに洗ったのかな。なんでこんなとこしっかりしてるんだ、この子。
「返さなくてもよかったのに……」
ほとんど無意識に、ぽつりと呟いてしまう。
「は?」
「布なんて私はいくらでも持っているし、
あなたが取っておいてもよかったんだよ?」
「あんた、ほんっっっと腹立つな」
心底むかつくって感じで、杏が舌打ちをしてきた。
「それ、絹だぞ?」
「だからどうしたの」
「いくらするもんだと思ってんだよっ!
馬鹿高いもんを、ホイホイ人にやるな!!」
「あ、そっか」
まさかの庶民的な正論に、なんか気まずくなる。
絹は高い布地だ。しかもこれは、縫製も染めもしっかりしている。
一枚で庶民の一ヶ月分の生活費にはなる、かも?
杏の反応を見るに、もっとする可能性もある?
それを適当に人にあげようとするなんて、庶民の杏からしたら驚愕だろう。
言われなきゃ自覚しなかったが、わりとぶっ飛んだ金銭感覚のとんでもない行為だ。
杏が怒るのも、ちょっとわかる。
「ズレてんな、あんた」
「ズレてない、市井のことは知らないだけよ」
与祢になってから、ずっと姫暮らししてきたんだぞ。
知らないものは知らないから、嫌そうな顔されても困る。
ま、でも。返してくれるって言うなら、それはそれでありがたいことだ。
懐にスカーフを入れて、腕組みしている杏に笑いかける。
「返してくれてありがとう」
「ん」
あ、杏も笑った。わりと可愛い。
というか、笑えたんだな。
ちょっと安心しながら、求肥の包みを差し出してみる。
「来たついでだし、食べてく?」
「い、いらない!」
パッと顔を背けても、お腹の音は誤魔化せないものだな。
元気に胃が動く音が、妙に愛嬌があって吹き出してしまう。
耳を赤くして横目で睨む杏に、私は自分の隣を叩いてみせた。
「求肥ね、少しばかり多めにもらっちゃったの」
「……」
「残らないように、食べるのを手伝ってよ」
ねえ、と包みを持つ手を誘うように動かす。
杏の喉元が、露骨に唾を飲んだ。おやつを前にした猫みたいだ。
にやにやしそうになるけれど、必死で堪えて「おいでよ〜」と誘う。
にやけると、杏が怒って逃げちゃうだろうしね。
「……しかたねーな」
あまりかからず、杏は陥落した。
そっぽを向きながら、私の方へ寄ってくる。
やっぱり猫っぽくていいわ、この子。
隣を開けてあげると、おずおずと杏が腰を下ろした。
私との間に空いた距離は、両手を並べて二つ分。
微妙な距離感をそのまま表したかのようだ。
「どうぞ」
「……頂戴します」
ぎこちなく、けれどしっかりと杏は私に礼を述べた。
ライムグリーンに包まれた頭を軽く下げ、受け取った包みを開く。
「待って」
求肥に伸びる杏の指先を、咄嗟に掴む。
青い瞳が、きょと、と私を見つめる。
ああ、庶民の人って楊枝を使わないんだったね……。
「素手で食べたいなら手を拭きなさい」
「は?」
「両手を出して、お水を受けるみたいにね」
やってみせると、素直に真似してきた。
反抗してこないことにちょっと感動しながら、懐にしまってあった消毒用アルコールの小瓶を出す。
「これ、消毒酒精ね」
「しょうどく? なんだ、それ?」
「手を綺麗にする薬よ、
食事やお化粧仕事の時に使う物なの」
実演した方がわかりやすいかな。
瓶を開けて、中のアルコールを手に垂らす。
ひんやりと熱を奪う冷たさを感じつつ、まんべんなく指先から手首まで塗り伸ばしていく。
「こうして両手によく擦り込むんだよ」
「……そんなもん手に塗るのも、
城の作法なのかよ?」
「うん、私が寧々様と相談して決めた作法」
「めんどくせぇなぁ」
うへ、と杏が眉を寄せる。
「でもね、このひと手間で、
だいたいの病や腹痛は防げるのよ」
「へ? 嘘だろ? 薬を手に塗るだけでか?」
「嘘じゃない。私の大叔父がお医者様で、
きちんと市井で効能を確かめられたんだから」
小まめな手指消毒って馬鹿にできないもんだぞ、マジで。
令和で疫病が大流行した時に、日本では感染予防の一環で徹底的な手指消毒の習慣ができた。
外出して帰宅したらしたら消毒、お店に出入りする時にも消毒。
メイクをする前に消毒して、物を食べる前にも消毒。
そんなふうに国民全員が消毒三昧をやったところ、地味な成果が上がった。
本命の疫病よりも先に、インフルエンザ等の各種感染症が露骨に減ったのだ。
毎年感染者が数十万を超えていたインフルエンザなんて、感染者が約一〇〇〇分の一まで激減した。
つまり手指消毒による感染予防は、最強の健康習慣なのである。
今は天然痘とかヤバイ病気が現役の天正だ。
手指消毒をやらない選択肢は、絶対にない。
だから城奥に入ってすぐ、手指消毒の導入を寧々様に進言した。
説得のために、ちゃんと統計データも用意してだ。
使ったのは、丿貫おじさんが行った検証調査の結果。
山科の屋敷のご近所一帯で手指消毒を導入してもらったところ、病を得る人が目に見えて減少したのだ。
これを証拠に寧々様の説得に成功して、今では城奥でも手指消毒が習慣化している。
そのはずなんだけど……杏、知らないのか。
「一の姫様の局で教わらなかった?」
「聞いてないし、そもそも誰もやってねーよ」
「そっかぁー……」
反抗的だとは思ったけど、消毒もやってなかったか。
そりゃ茶々姫様の元から、病気の女中が出やすいわけだ。
最近は体調を崩す人が減っていたのに、と不思議だったんだよ。
「あーもう、あのくそババァ、
どうしようもねぇな」
こんな便利なもんあるなら言えよ、と杏が苛立たしげに頭を掻く。
頭の回転が早いな。説明されただけで、ちゃんと消毒の効果を理解したようだ。
「余分に持ってるから一つあげるわ」
「……わりぃ」
「いいよ、もっと必要なら言ってね」
予備を渡して、念押ししておく。
杏一人でも、使う人間がいるといないではだいぶ違う。
袖殿たちの自爆カウンターをそっと回して、改めて求肥を勧めてあげた。
「他にね、足りてないものはない?」
「……言ったらくれるのかよ」
「食べ物や消毒酒精みたいに必要なものなら」
二人でもちもちしながら、話を振ってみる。
杏は思いの外お口が軽い、いや、素直のようだ。
話せばきちんとわかるくらいの、しっかりした知性もあるらしい。
今のノリで突っ込めば、もう少し情報を引っ張れるかも。
なんて打算をする私の前で、杏は口を引き結んで考え始めた。
「ならよ、とと屋の白粉くれよ」
「それはダメ」
「あんた今、必要な物ならくれるって言わなかったか?」
「お化粧品はあげられません」
城奥の美容用品全般は、御化粧係たる私の管理物だ。
私を通してとと屋を筆頭に厳選された商人からしか、購入できない仕組みになっている。
ちょっとやりすぎとは思うけれど、個人持ちの物を含めてね。
市場にはいまだ、水銀や鉛を使った白粉など毒性のあるコスメが生き残っている。
使用感や仕上がりの具合が理由なのだけれど、それで健康を損なったら怖い。
それで城奥の女たちを守るために、窓口を私に限定することとしたのである。
こういうシステムでやっているから、私の手の及ばないところにはコスメ等を供給しない。
無駄遣いされると予算的に困るし、変な使い方をされても健康被害的な意味で困る。
ちゃんと私か私の侍女の監督下で、購入や使用をしてくれなきゃまだ心配なのだ。
だからガンガン逆らってくる茶々姫様のところになんて、コスメ一つ渡せたもんじゃないんだよ。
「けちくせーな」
「ケチじゃなくて、安全確保のためだから」
「茶々様のこと、いびりやがって」
「いびってるつもりはございませーん」
心外な言いがかりだな。
茶々姫様をいびっても、私にメリットなんてないだろ。
誰にそんな話聞いたんだよ、杏。袖殿だろうけど、むかつくわあ。
というかね、私に従いさえしてくれたら、いくらでも面倒を見てあげるよ?
竜子様に若干睨まれそうだけれど、仕事ならば茶々姫様もサポートするのが私のポリシーだ。
弁解しても受け入れてくれそうにない雰囲気なので、とりあえず置いとくか。
「それにしても、白粉が足りないんだ」
「おう」
「でも袖殿たち、ばっちりお化粧してるよね?」
「……まぁな」
「どうやってやりくりしてるの?」
聞いた途端、杏が立ち上がった。
膝の上に乗せた求肥が、庭に転がる。
驚いて見上げた先には、少し血色が引いた白い顔。
わかりやすく揺れる瞳が、勢いよく逸らされた。
「もう行く、餅、美味かった」
そう呟くやいなや、杏は早足で廊下を戻り始める。
あーあ、まだだめか。いけると思ったんだけどな。
「ねー! 杏!」
角を曲がろうとする杏に、声をかける。
「また明日の八つ時もここにおいでよ、
お菓子持ってくるから」
「はぁ? 暇じゃねーんだけど?」
うっとおしげに、杏が睨んでくる。
「奇遇ね、私も暇じゃない」
「だったらなんで」
「さっき助けてくれたお礼させてほしいの」
いいでしょ、と重ねると杏が考える素振りをした。
さっき求肥を喉に詰めた私、グッジョブ。
杏に効きそうな良い口実になってるよ。
もう一押ししとくかな。
「実家の話とかしようよ。
白妙太夫の近況、教えてあげるよ」
「っ! ……行けたら、行く」
ほんっとに簡単に引っかかるなあ、杏ちゃんよ。
私と違う意味で城奥に適さない人間だ。
「また明日ね」
角に消えていく杏に、独り言のように呟く。
返事は返ってこなかったが、きっとちゃんと約束を守ってくれるだろう。
杏みたいなタイプの「行けたら行く」は、「絶対行く」なのだ。
「擦れてるんだか、擦れてないんだか」
ひとりごち、残った求肥を一つ摘む。
騒がしさの名残りが残る庭から、空へと視線を持ち上げる。
真珠のように輝く入道雲が、西の空に浮かんでいた。
夕立が来るかもしれない。
「あの子が遊里の御化粧係って、マジなのかなー」
杏ちゃんの身元、ちょっと開示。
次あたりでもう一歩、話を動かしていきたい。
あと人物紹介を微修正しました。
石田と福島さんの年齢間違えてた。ごめんなさい。
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