春とともにゆく【徳川家康と旭姫・天正16年4月25日】
まだ新しさの残る廊下を進む。
行き合う家中の者たちは、その端から頭を垂れて主の帰宅を喜ぶ。
そして、主の後ろに続く旭に驚くのだ。
帰ってきたのか、もう戻らないと思っていた。
露骨な眼差したちは、そんな本音を隠さず表している。
背にちくちくと刺さるそれらに、旭はひっそりと微笑んだ。
ここ徳川の京屋敷は、都において旭が自宅と呼ぶべき場所だ。
ただし、門を潜るのは今日が初めてになる。
屋敷の主の正室であるのに、なんともおかしなこと。
しかも家中の者たちに、いまだ異物と捉えられているとは。
我がことながら、なんとも滑稽なありさまに笑えてきそうだ。
「いかがされたかな」
数歩先を歩む今の夫──徳川家康が振り返った。
どんぐりまなこをきょとんとさせる、彼の表情は優しい。
「……なんでもございませんよ」
「そのような顔をされている時は、
なんぞある時でござろう?」
数歩の距離を詰めて、家康が旭の手を取ってくれる。
背後で息を呑む音が、いくつも聴こえた。
家康が旭の背に手を添えて、行こうと促してくる。
二人しか表情を読めない位置で、片目を瞑られた。
息を呑んだ者どもに、気づかないふりをしようと目で語っている。
良い人だな、と旭は思った。
正室と呼ぶには足りないものだらけの異物を、きちんと妻として大事にしてくれている。
旭を快く思っていない家臣どもからすれば、じれったく苛立たしい態度だろう。
気の短い、感情的な三河者たちのことだ。
価値のない旭を遠ざけろと、直接家康へ諫言しているに違いない。
けれども家康は、それらを無視をしている。
最初の頃からずっと、旭を丁寧に扱ってくれている。
この夫の図太さは、いっそ惚れ惚れしてしまうほどだ。
「まいりましょう、
万千代とお愛を待たせておりもうす」
「……はい」
頷いて、肩を並べて一緒に歩く。
磨き抜かれた板の廊下を、一歩、また一歩と。
角を曲がって、しばらく歩けば人気がなくなる。
歩きながら、家康があたりを見回す。
旭もともに、周囲へと目をこらす。
ちゃんと、誰もいない。
小姓はすでに遠ざけてあるから、今この時は家康と旭しかこの場にいない。
密やかに視線を交わして、立ち止まる。
「……相変わらず、失礼な者が多い家中だこと」
「いやあ、申し訳ござらぬ」
毒を吐く旭に、家康はおっとりと頭を掻いた。
見聞きする者によれば、目を剥いて旭に斬りかかるやりとりだ。
しかし、当の本人たちは、何を気にすることもない。
先ほどよりずっと気安げに、和やかな雰囲気を共有している。
「失礼な家にようお戻りくださいましたな」
「……戻ってほしくない事情でもおあり?」
「ふははははは、いやいや、ござらんよ!」
ともすれば嫌味な物言いを、さも楽しげに家康は笑い飛ばす。
受け入れられている。安堵を覚えて、旭も微笑む。
「まこと変わられましたなあ」
「……お嫌ですか」
「いいえ、ちっとも」
即座に否定した男の笑みから、明るさが消えた。
「ワシの正室なのだから、
つまらぬ女で終わってもらっては困りもうす」
「……ふふふ、怖いこと」
とうとう、素を出したか。
つい嬉しくなって、旭も笑みを変える。
にんまりと、暗いものに。
「……では、ワタクシはあなたのお気に召したのかしら」
「無論。実に憎たらしく、
愉快な女なられましたなあ」
「……それはどうも」
ひとしきり笑い合ってから、それにしても、と家康はしみじみ呟いた。
「可哀想な女でいらしたほうが、
楽だったであろうに」
「……自らを哀れむのに疲れましたの、それに」
「それに?」
「……目的が、できましたので」
「ほう、目的とな。お聞きしても?」
問われた旭の目が、つい、と庭に向く。
設られた藤棚の、遅咲きの藤が散っていた。
はらはらと、はらはらと。
風に吹かれるほどに、花の骸を白砂に撒き散らす。
春の、死に逝く気配が漂っている。
「……兄さんの大切なもの、すべて奪ってしまいたいのよ」
旭の呟きは、うっそりとして夢をみるように甘い。
化けたな、この女。
確信とともに背を伝う怖気で、自然と家康の唇は弛む。
「それはそれは、大層な夢だ」
「……あら、夢で終わらせませんことよ」
「なんと、終わらぬのか」
「……同じものを欲しがる、
あなたが夫でありますゆえ」
じぃ、と、旭が家康を見つめる。
藤色に彩られたまぶたの下、灰色がかった漆黒の瞳に焔があった。
家康にも覚えのあるものだ。
過ぎ去った日に、家康もその目に宿した焔。
母と家康を引き離した、情けない父に。
妻と息子を殺せと命じた、身勝手な信長に。
彼らが死ぬまで、いや、死んだ今もなお腹で燃やし続けている。
愛おしい者を奪われた、憎しみの焔だ。
「……ワタクシたち、良い夫婦になれますわね」
「左様ですなあ、よりにもよって我々は」
藤の骸が、家康と旭の足元に流れてくる。
共に見下ろす二対の瞳は、暗い歓びで満ちていく。
「「似た者同士で、あるのだから」」
くすくすと、くつくつと。
美しい骸を蹴散らして、二人は再び歩き始める。
足取りはどちらも、軽やかだ。
これほど愉しいことは、家康も旭も近頃なかった。
悲しみに沈まず、醜く生まれ変わってよかったと、旭は思った。
危険をおかしてまで、唆しに行ってよかったと、家康は思った。
最高の共犯者を手に入れたのだ。
これを歓ばずにおれようか。
「山内の姫には、感謝せねばなあ」
家康が、ふと呟く。
旭が変わったきっかけは、あのきらびやかな少女だ。
髪を切るほど病んだ心を救いあげて、憎悪を燃やせるほどの気力を取り戻させた。
少女が意図した結果ではないだろう。
主家を滅ぼさんとする者を増やそうなどと、つゆほどにも考えていなかったはずだ。
それでも、その誤算が家康たちには幸運だった。
「……左様ですね、礼をしてやらねば」
「ええ、差し当たっては何がよかろうな」
先ほどは思いつかなかったことを、家康はまた考え始める。
あの治世を言祝ぐ瑞鳥の雛は、捕まえておきたいものだ。
なぜなら少女は、女を美々しく粧うだけの者ではない。
調べたところ、女を粧う品を作るために、少女はさまざまな物を産み出している。
青い金。今群青など、その最たるもの。
堺の豪商でもある千宗易に知恵を貸し、まだまだ富を膨らませ続けているそうだ。
これを捕まえて懐に入れることが叶えば、目も眩む福が徳川へ舞い込むだろう。
だから、できるかぎり少女の徳川に対する心象を良くして、囲い込みをかけたい。
今はまだ、盛りの羽柴から引き離すことはできない。
ゆえに好感を持たせるに留め、地道にそれを積み重ねるべきだ。
旭の件は、実に都合が良い出来事だった。
少女に感謝しているていで接触すれば、誰も怪しむことはないだろう。
策に嵌められる少女も、きっと気づきはすまい。
あの少女は、善意に弱く情にも脆いお人好しだ。
乱世を生き抜く家康と旭の悪意など、感じ取れる勘など持ち合わせていない。
律儀な徳川殿と、気まぐれな旭姫が、少女に深い恩を感じている。
人懐っこい徳川夫妻として振る舞い続けていけば、懐柔してしまえると家康は踏んでいる。
だがそのためにはまず、どんな手を打てばよかろうか。
頭を悩ませる夫の傍らで、旭が目をきらめかせた。
「……ねえ、こういうのはいかが?」
「何かな」
「……こちらの都合に良き男を、お与祢にあてがうの」
ぱちくりと、家康が目を瞬かせる。
男。男をあてがうとは、どういうことか。
鈍いわね、と旭が鼻で笑う。
「……鸞であっても、あれは女よ」
「なるほど」
単純なことだった。
気づいて家康は苦笑した。
そうだ、あの少女は女。
これから婚期を迎えんとする姫だ。
簡単ながらに確実に捕らえる方法があるではないか。
「長丸をとっておくべきだったか……」
「……まあ、そうですわね。
馬鹿の娘と婚約を結ばせたのは、手痛かったわね」
「今更反故にできぬしなあ、やってしまったな」
少女を知った後なら、事実上の嫡男の縁組など全力で回避したものを。
しかも相手は秀吉の養女であるが、あの三介の実娘。
才走った父と兄弟を持ちながら、凡愚極まりない人間の娘だ。
こたびの行幸にあっても、ろくでもない戯言で叙位を受けたばかりの少女を愚弄した。
理由は嫉妬と、逆恨み。
気に入りの従姉妹姫が、少女に蔑ろにされたらしい。
従姉妹姫の側付きからそれを聞いて、勝手に怒りを感じて暴走したのだから馬鹿の極みだ。
そんな評判が落ちに落ちた三介と縁付く羽目になろうとは、運がないにもほどがある。
「……気落ちなさらないで」
「だがなあ」
「……殿の息子は一人ではないでしょう?」
袖で口元を覆って、旭が目を細める。
「……福松丸殿は、どうかしら」
「福松をか?」
「……そう、お与祢と同い年で似合いです」
何より、少女に娶せるならば長丸よりも福松丸、と旭は続ける。
家康の息子、福松丸。
嫡男である長丸と同じく、家康の側室であるお愛の方から生まれた子だ。
歳は九つ。少女と同い年で、少女のように歳に似合わない利発さがある。
しっかりと言い含めれば、見事に少女という鳥を射落とせる力量を備えているはずだ。
四男坊という立ち位置も良い。
才はあっても心根が平凡な少女は、天下を継ぐ男の妻になど向かない。
せいぜい一国か二国程度の大名の正室が、関の山の器量だ。
福松丸の妻として、のほほんと富を産み続けてもらうのが最良であろう。
「……そしてね、福松丸は美しいわ」
「ちと直裁的にすぎぬか、そなた」
「……事実でしょう?」
麗しきを好むお与祢の気を引くにはもってこいよ、と旭はさらりと言う。
「……あの子とならお与祢も幸せにはなれるでしょう」
「それはどうして?」
「……優しい優しいお愛殿の息子だもの」
弾けるように、家康が笑い出した。
自分に負い目を持たせた善良な女から、負い目につけ込んで息子を取り上げる。
あまつさえ取り上げた善良な息子を誘導して、自分のための駒にする気でいるらしい。
恐ろしい、けれども愉快な考えだ。
同時に、そうでなくては、とも思う。
悪人の妻は、悪人であらねば務まりはしないのだから。
「ならばもういっそ、
長丸も含めて嫡母になられい」
「……よろしいの?」
「おや、ワシの正室であるのに弱気であられるな?」
「……舐めないでくださいな」
からかう家康に、旭は苛立たしげに鼻を鳴らす。
「……まこと優しき義母上になってさしあげますよ」
「化けの皮が剥がれぬと良いが」
「……心配ないわ」
遠くから、足音が近づいてくる。
数にして、二つほどか。
声も聴こえる。若い女と男。件のお愛と、井伊直政だ。
瞬く間に家康と旭は皮を被る。
律義者で情の深い家康と、慎ましやかで優しい旭姫の皮を。
「……ワタクシは狸の家内なのよ」
そよぐ風に紛らせるように、旭が囁く。
家康は目を細めて頷いた。
とても心地良い春の死を、味わいながら二人は歩む。
遠からず巡りくる、羽柴の冬を心待ちにして。
純朴な旭姫は春とともに逝く。
そして駿河御前は、憎しみと傷みとともに徳川家康と歩み出す。
ついでに与祢の恋愛フラグも立っちゃったよ!
家康と旭のことは活動報告で少し深めに解説してます。
よろしければ読んでみてください。
ここに書きたかったけどめちゃくちゃ長くなったんですよ…。
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