聚楽第行幸(3)【天正16年4月14日】
「ご苦労だったわねえ」
ラベンダーのカラーベースを首まで塗られながら、寧々様がくすりと笑う。
押しに押されたスケジュールの理由に、呆れを通り越して愉快になっておられる様子だ。
笑い事じゃありませんよ。大真面目に報告した私が馬鹿みたいじゃないですか。
口を尖らせると、ごめんね、と笑い含みで謝られた。
「茶々姫の乳母、だったかしら?
困ったものね」
「まったくでございますわ」
指を使っておでこや頬にベースを馴染ませながら、わざとらしく言ってみせる。
旭様のおかげで追い払えたけれど、間違いなく袖殿は私に恨みを持ったと思う。
お化粧に関しても、自分たちでやると阿古を追い返してきた。
どさくさに紛れてコスメだけ取り上げているあたり、こすいというか。ちゃっかりしているというか。
いくらでもストックはあるから、返してもらわなくても良いけどさ。
借りパクは無いよね。ちょっとむかつくわー。
「いかがなさいますか?」
お側に控える孝蔵主様が、寧々様に指示を仰ぐ。
先に私の侍女からメイクを施されたお顔が、いつにも増して冷たい。
スケジュールを乱されたことにお怒りのようだ。
「そうねえ」
寧々様が思案している間に、次のカラーベースを塗る。
崩れないメイクの基本は、ベースで肌を作り上げることだ。
小鼻や鼻横から頬にかけての三角ゾーンに、赤み消しのグリーンのカラーベースを仕込んでいく。
赤みの気になるところにだけ、トントンと指の腹で薄く伸ばすのがコツだ。
あらかた塗り終えた頃合いで、寧々様が口を開いた。
「国母の君様と女御様のお出迎えが済んだら、
茶々姫は下がらせましょうか」
「承知いたしました」
「席も一番後ろに変更よ」
あの子だけお化粧が違うと目立つから、とため息まじりにおっしゃる。
適切な判断だね。令和メイクの中で一人だけ白塗り天正メイクだと、絶対おかしな目立ち方をする。
茶々姫様も恥ずかしい思いをするだろうし、一番目立たないところにいた方がいいわ。
一礼して孝蔵主様が席を立つ。
茶々姫様のもとへ命令を伝えに行くんだろう。
袖殿、またヒスって大変なことになりそうだ。
孝蔵主様も苦労するなあ、と同情しながら寧々様のまぶたにピンクのカラーベースを塗る。
ほんのちょっとだけ、薄く乗せるだけで目元のくすみが吹っ飛んで明るくなる。
うん。良い感じに仕上がってきた。
次はグアニン箔をまぜたパールホワイト。
これはハイライト効果を持つので、目立たせたい場所に塗る。
具体的に言うと、眉間から鼻柱にかけてのTゾーンと、頬骨の上。
それから鼻先の頭と、唇の山の上に、顎の先だ。
ここにハイライトを入れると、お顔の立体感がグッと増す。
「旭殿も変わられたわね」
あちこち私にベースを塗られながら、寧々様が独りごちる。
「昔であれば喧嘩なんかに出くわしたら、
怖がるばかりだったのに」
「左様でしたか」
「そうよ、あたくしや……副田殿の後ろに隠れていた」
切れ長のまぶたが、わずかに伏せられる。
寧々様も副田様の顛末はご存知だ。
感傷、いや後ろめたさを感じるのだろう。
寧々様は、旭様の離縁を止めなかった。
徳川との駆け引きには、旭様という生贄が有効だと判断したから。
秀吉様の指示で、旭様を大坂城で軟禁する手伝いまでやったそうだ。
土壇場で逃げ出したりしないように、輿入れの当日まで。
後悔はしないが、心が痛む。そんなところかな。
「寧々様」
メイクする手を止めて、お名前を呼ぶ。
私に向けられるのは、苦しげなお顔。
寧々様に一番、似合わないお顔だ。
「もう、旭様は前に進まれました」
「前に?」
「はい、徳川様と、ともに」
家庭菜園の二人を思い返す。
真意はどうあれ、徳川様は傷付いた旭様を気遣って、隣に寄り添った。
旭様も、寄り添ってくれる徳川様の優しさを受け止めて、その手を取った。
徳川夫妻は、政略結婚であっても、手を携えた。
ともに前へ向かって、進もうとしている。
ふたりでどこへ行くのかは、知らないけれども。
だから、大丈夫だ。
寧々様が今以上に気を病む必要はない。
「晴れの日ですから、笑いましょう!」
とびっきり綺麗にして差し上げるから、寧々様には笑ってほしい。
お手を取って微笑みかける。寧々様の目尻が、たおやかに下がった。
「……うん、そうね」
戻ってきた笑みは、暖かい。
これでよし。寧々様にはやっぱり、笑顔が似合う。
気を取り直してくれた寧々様に満足して、私もはりきってメイクを再開する。
ベースが完成したから、次はファンデだ。
今日はいつもより、美白に仕上げる。白塗りメイクインスパイア、といえばいいかな。
美白を突き詰めれば、朝廷の人たちにも受け入れやすそうだという判断だ。
いつもよりワントーン明るい色合いのファンデを、ポイント使いで塗っていく。
頬の上と、鼻の横から顎のあたり。薄くおでこにも。
首にも薄く塗って、肌の色味を統一する。
コンシーラーも使って、クマなどを覆っていく。
指で伸ばして馴染ませて、最近やっと完成したコットンパフで余分な油分を吸わせる。
この時のパフは、軽く湿らせておく。
当て方も押し付けるのではなく、優しく触れるように。
擦るとファンデやベースがよれるから、十分に気を付ける。
それが済んだら、今日は上地を塗る。
使うのは、ベースカラーでも塗ったピンクとパールホワイトだ。
下の色を重ねることで、強調したい部分がしっかり強調されるのだ。
しかも崩れにくくなるおまけ付き。今日みたいな日に向いているテクである。
パールホワイトをTゾーンと目の横から頬骨の上、それから唇の山に。
ピンクはチークを乗せる頬の三角ゾーンへ。
上地の仕込み終わったら、フェイスパウダーをはたく。
ふんわり仕上げたいので、使うのはふわふわのパウダー用ブラシだ。
顔の中央から、輪郭へ。濃淡をつけるように刷いていく。
シェーディングも忘れてはいけない。
おでこの際、耳の脇からフェイスライン。
顎の下にもしっかりと淡いブラウンベージュを塗って、ブラシで境目を自然にぼかす。
フェイスラインを仕上げたら、ブラシを持ち替える。
細くて斜めにふわふわの毛を植えた、シェーディングブラシだ。
フェイスラインと同系統だけれど、より淡めのベージュを使って目鼻立ちをはっきりさせる。
まずは眉の真ん中から少し付け根よりの部分から、鼻柱の始まりにかけての三角。
眼窩の骨の形に沿わせて、細めにシェーディングすることで鼻が高く見える。
小鼻の脇から鼻の下の際、鼻の頭の膨らみの脇。
ここにも薄く、薄く輪郭を描く。
下唇の窪みも大切だ。リップラインをはっきりさせる。
これでベースメイクは完了だ。
お待ちかねのポイントメイクへ移りましょう。
顔の印象をはっきりさせるため、眉メイクから手を付ける。
ダークなブラウンのアイブロウペンシルで、フレームを引いていく。
今日はハンサムに、でも優美に仕上げるか。
下のラインは平行ではなく少し上げ気味に。
眉山をしっかり作って、上のラインは半分だけ描く。
完成したフレームの中は、パウダーアイブロウで埋める。
これも同色のダークブラウンだ。
眉は黒髪でもブラウン系を使った方が、顔に馴染むんだよね。
今回のアイブロウは、椎の実を焦がして作った、焦げ茶の顔料を主材としたものだ。
本当はアーモンドを灰にしたやつがよかったんだが、まあこれでもどうにか代用できている。
眉頭も濃いめに塗って、黒目の上あたりの色はもう一つ濃い色を混ぜておく。
目元がすっきりとかっこよく強調された。
「眼彩ですが、いかがしましょう?」
眉を作り上げてから、寧々様の希望をお聞きする。
どんな時でも、アイカラーは寧々様好みに。
それが、私たちのお約束だ。
瞼の上を彩るアイシャドウは、好きな色を乗せると楽しい。
パッと見た時に目に付くところだからね。
気分を盛り上げるにはもってこいのポイントだ。
「五衣の襲が花橘だから、
それに合わせて」
「承知しました」
衣桁に掛けられたお衣装を確認する。
今日は公家としての正装、五衣が用意されている。
その名の通り五枚の衣の襲色目は、オレンジと白、緑を組み合わせた花橘。
今にもシトラスの香りが漂うような、爽やかな色合いのカラーリングだ。
一番上の衣の文様は、亀甲花菱の文様。
花びらを中にあしらった六角形が、金糸で細やかに織り込まれている。
溌剌としていながら、けれども高貴に。
寧々様にぴったりと似合う、素晴らしいお衣装だ。
これと合わせるなら、アイメイクはゴージャスなゴールド系にしよう。
とっておきの金粉シャドウを使いますか。
シャドウボックスをざっと見て、三色引っ張り出す。
ゴールドベージュのクリームシャドウと、ラメ感がある朱色みのあるオレンジのパウダーシャドウ。
締め色シャドウはパウダーで、濃いめのコッパーブラウンだ。
ちなみに今回のシャドウのラメは、金粉だ。
偽物じゃなくって本物の金ですよ、金!
パール感はグアニン箔で出せるけど、ゴールドなラメ感は出せない。
だから、ストレートに本物のゴールドを使いました。
金粉を使ったシャドウは令和にもあったので、与四郎おじさんにお願いしていたんだよね。
コスメに使える金粉パウダー作ってくれって。
完成がギリギリ行幸に間に合ったから、金粉シャドウを使うのは寧々様がお初だ。
これだけでも、特別感が爆上がりだと思う。
手始めにゴールドベージュを、アイホール全体に乗せる。
まぶたの真ん中から、指をワイパーのようにしてトップが煌めくようにだ。
下まぶたも忘れない。涙袋のラインを意識して、小指で細くアイラインをなぞる。
次に朱色みのオレンジ。これは目尻に重点を置く。
寧々様は奥二重だ。目尻に色を乗せると目が華やぐ。
上まぶたの目頭よりも真ん中寄りから、ブラシを使ってシャドウを乗せる。
二重ラインを少しはみ出させて、目尻に向かって濃く色を差す。
下まぶたも似た感じに。黒目の目尻の方の端あたりから、目尻へ。
端っこは丸めに塗ってぼかす。こうすると色が綺麗に映える。
最後はアイラインをコッパーブラウンのパウダーシャドウで強調する。
細めの筆で細く、ぼかしながら。目尻をくの字に縁取って、下まぶたの目尻にポイントを置く。
ほんのり赤みが強く、目元が華やいでいく。
素で十分に長いまつ毛は、金属製のコームでよく梳かして差し上げる。
マスカラがないから、せめてふさふささらりにしないとね。
アイシャドウを崩さないように注意を払いながら、ビューラーで根元からしっかり上げる。
それから、アイライン。
ブラウンレッドのモクロウアイライナーを使う。
ウォータープルーフじゃないから少し落ちやすいけど、ぼかして使うから許容範囲だ。
まぶたを指で固定しながら、細い棒タイプのライナーで、まつ毛のキワに点々と。
線を描くのではなく、点で点を繋ぐイメージだ。
一重でも奥二重でも、アイラインは大切だよ。
目の印象がくっきりして、素敵な目元に仕上がるから。
アイメイクが終わったら、チークを添える。
使うチークは、淡いサーモンピンクがかったベージュのパウダーだ。
塗る場所は、髪の生え際に指二本当てたところから、斜めに頬骨の真ん中まで。
心持ちそら豆みたいな感じに刷く。
指で色の境目を馴染ませて、ムラのないように仕上げる。
最後はリップ。
カラーはもちろん、ヌーディーなピンクベージュをチョイスする。
アラフォーの寧々様には、真っ赤なリップは似合わない。
塗るならば、ベージュ系やマットカラーだ。
リップクリームで保湿して、縦シワ対策はきちんと。
それからリップをブラシに取って、リップラインを口角から中央へなぞっていく。
内側を埋める時は、横にではなく縦に塗る。
これで縦シワが目立ちにくくできるのだ。
「お化粧、整いましてございます」
リップブラシを、ブラシスタンドに戻す。
侍女に鏡を、寧々様の前に据えさせる。
あでやかな微笑みが、寧々様のお顔に咲き誇る。
それを認めてから、私は恭しく額ずいた。
「大義でした」
「恐れ多いことにございます」
ふわっと喜びが私の中でふくらむ。
寧々様に、お褒めいただけた。
ただそれだけで、今日までの苦労が流れ去っていく。
後に残るのは、頭の先から足先までを暖かく満たす充足感。
最高の報酬に、伏せた顔がゆるゆる緩む。
はにかむように笑い返してくれて、寧々様が立ち上がった。
おこや様たちが、細い肩に豪奢な袿をかけて着付け始める。
瞬く間に、寧々様の正装が完成する。
関白秀吉の正妻たる、麗しき北政所様だ。
ため息が出るほどに気高く、円熟した女王の風格が漂っている。
ああ、もう、さいっっっっっこうだよ。
寧々様が美しくて、ただ生きているだけで幸せに思えてくるわ。
周りのみんなも同じ気持ちらしい。
うっとりと寧々様を見つめて、あちこちで艶めくため息の花が咲く。
「それでは、参りましょうか」
寧々様が、歩き出す。
東様やおこや様たちを従えて、颯爽と。
私はここで待機なので、深く頭を下げてお見送りする。
まだ一応、未成人だからね。基本は表に出られないんだよ。
なので、これからいったん休憩。
ほとんど夜の早朝から駆けずり回ったから、もうくったくた。
ご飯を食べてよく寝て、体力回復をさせないと明日も働けない。
今回の行幸は、今日かぎりのものじゃない。
帝とそのお付きの皆様が、二泊三日で聚楽第を満喫するツアーなのだ。
つまり明日も明後日も、朝っぱらからの激務が確定。
昼間に休んでおかなきゃ、私の体力が絶対もたない。
もう今だって、限界いっぱいだ。
「姫様、お食事の支度が整いましたよ」
平伏したままへたっている私を、お夏が抱え起こしてくれる。
起こされても体に力が入らない。
へとへとだ。ストレートに、へとへとだ。
体勢を保てない体を、正面から別の侍女が支えてくれる。
「大事は、ございますね」
「わ、悪いけど運んで……」
「はいはい」
いっせーのーで! お夏たちから両脇を支えられた。
ずるずると引きずられるようにして、ご飯が用意されている私室へと戻る。
食べたら寝よう。すぐに寝よう。
寧々様たちの化粧直しは、お夏たち侍女に任せて大丈夫。
少なくとも、夕方あたりまでは休めるはずだ。
あ──────、疲れた! 寝る!
◇◇◇◇◇◇
「……さま! 姫様……姫様っ!!!」
悲鳴まじりの声が、複数。
襖の向こうから、私の名前を爆音のアラームのように繰り返す。
疲れ切った脳みそに刺さるようなそれに、強制的に目を覚まさせられる。
頭が、重い。耳も、痛い。
全然疲れが取れてないや。気だるさに満たされた体を、のろのろ起こして布団から這い出す。
「う……な、に……」
襖を開ける。
差し込んでくる日差しが眩しい。
まだ太陽が高いじゃん。もう少し寝かせてくれよ。
むくみ気味の顔を覗かせると、お夏の手が伸びてきた。
あっという間に、隣の居間として使っている座敷に引っ張り出される。
「えっ、ちょ、何ほんと!?」
「姫様、疾くお支度を」
「はぁ?」
お楽や阿古が、小袖や帯を持って飛びかかってくる。
寝間小袖をひっぺがされて、下着の白小袖一枚にされた。
叫んでも喚いても止めてもらえない。
力づくで振り切ろうとしかけて、はっと侍女たちの顔色に気付く。
みんな顔が青くて、緊張感に溢れている。
なになに怖い、急にどうした。
「ね、ねえ、どうかしたの?」
帯を結ぶお夏に、恐る恐る訊ねる。
無表情、いや、表情を抜け落ちさせたお夏が私を見上げた。
「……お召しです」
「誰の?」
「国母の君様が、与祢姫様のお化粧に興味を持たれたよし」
お夏が普段の冷静さをかなぐり捨てて、叫ぶ。
「すぐさま参じよとの!
北政所様のご命令でございますっっっ!!」
えらい人の気分による休日出勤はわりとある話。
天正に仕事をしてくれる労基はいない。
いつもありがとうございます。
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