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北政所様の御化粧係〜戦国の世だって美容オタクは趣味に生きたいのです〜  作者: 笹倉のり
2章 聚楽第の御化粧係【天正15年9月〜天正17年1月】
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家康からの手紙【天正16年1月中旬】




 いえやす。



 その名を持つ人を、私は一人しか知らない。

 駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の五ヶ国を従える大大名。

海道一の弓取りと名を馳せる、天下人羽柴秀吉の完全勝利を唯一阻んだ男。

 関ヶ原の合戦の後、三百年に近い泰平の時代の幕を開ける、三番目の天下人。

 そして、秀吉様の妹である旭様の、今の夫。



 徳川家康。



 この手紙の差出人は、その人に他ならない。


 座敷が静まり返る。

 誰も、一言も発しない。

 寧々様は、大政所様の側で微動だにしない。

 大政所様も、俯いて膝の上の拳を握っている。

 孝蔵主様と東様と私は、書状から目が離せない。



 完全に、空気が死んでいる。



 だって、この手紙はただの手紙じゃない。

 政治的に、あらゆる意味で、超やばい代物だ。

 何故かって?

 徳川家康が大政所様に宛てた手紙だからだよ。

 しかも、秀吉様も寧々様もまったく知らないルートで届いたやつ。

 これは家康が独自に、大政所様と直接連絡を取れるという証拠だ。

 恐ろしいことに、大政所様は家康の手紙を受けて、秀吉様をスルーして奉行衆に働きかけた。

 大政所様が家康に、非常に好意的であるということだ。

 家康に頼まれれば、息子を無視して便宜をはかるほどに。

 すなわち家康は正規ルートを吹っ飛ばし、自分の要望や意見を政権中枢へ通せるという証明だ。


 そして、頼んできた内容もヤバイ。

 旭様の里帰りへの助力だよ。

 ざっくりいうと、家康は人質でもある正室を送り返すねって言っている。

 人質を返すという行為は、天正の世にあって講和の手切れ通告の意味も含む。

 人質という枷を放棄して、フリーになりますよって言っている可能性が高い。


 率直に言って、めちゃくちゃエグい役満が発生している。

 あかんやつすぎる、超弩級の政治的大爆弾だ。

 それが大政所様の懐から出てきたなんて、悪夢もいいとこの状況である。

 寧々様も白目剥いて当然だよ。



「お義母様、佐吉たちにはどう話したのですか」



 声をひそめて、寧々様が訊く。



「旭本人から、帰りたいって文が来たと。

 文は、見せとらん。

 おらぁ付きの女房も侍女も、繋ぎ役以外は知らん」


「よかった……」



 大政所様のお返事に、寧々様が脱力する。

 私もつられてホッとした。

 まじでよかった。政治が不得意でも、最低ラインは承知していてくれて、よかった。

 石田様たち奉行衆がバレてしまったら、隠蔽なんて不可能だったよ。

 徳川と全面対決リバイバルが、緊急開催しかねなかった。



「燃やして、いいですね?」



 こくりと大政所様が頷く。

 視線をいただく前に私が動いた。

 部屋にある小型の火鉢を引っ張ってきて、寧々様に差し出す。

 寧々様がすばやく、赤く光る炭団へ手紙を乗せた。

 薄い手紙はすぐ燃えた。

 文面も署名も、跡形もなく消えていく。

 残ったのは、微かなきな臭さだけ。

 それすら私が継ぎ足し、火を移した香木入り炭団の芳香で掻き消える。

 証拠隠滅、完了だ。

 大政所様以外の全員が、肩の力を抜いた。



「さっきおらぁ、藤吉郎にこれから病になるって言うてもうたけど……」


「ご案じなさらず、

 藤吉郎殿には旭殿の文が発端で通しましょう」



 寧々様が大政所様だけでなく、全員に言い聞かせるように言う。

 そうするしかないもんな。真剣な顔で頷き合う。

 墓場まで持っていく秘密の爆誕だ。

 この先口を滑らせないか怖いわ。

 心の中で震え上がる私をよそに、寧々様が大政所様と話を進める。



「この件はあたくしが預かって、取り仕切りますね」


「寧々さ、ありがとぉ、ありがとぉなぁっ」


「良いのですよ、お義母様。

 でも、そのために詳しい事情をお聞かせくださいまし」


「……うん、わかった」



 寧々様に寄りかかったまま、大政所様が話し始める。

 この家康ホットラインは、なんと一昨年からあるものだそうだ。

 一昨年といえば、大政所様は駿河へ人質に行っていた。

 旭様を正室に迎えてもなお大坂へ来ない家康への、いわゆるダメ押しのためである。

 大切な大切な大切なお母さんだけど、送るね。

 君が大坂に来てもしものことがあれば、煮るなり焼くなり好きにしてくれていいよ、的な。

 お前の血は何色だって言いたくなる作戦だが、おかげで大成功をおさめている。

 家康がドン引きか根負けかをして、大坂へ行く決定打になったのだ。

 そして色々あったそうだが、とにかく家康は無事に行って帰ってきた。

 大政所様もお役目御免となって、家康の帰宅を見届けてからしばらくして大坂へ戻れた。


 その時に、ホットラインを作ったそうだ。

 家康と旭様から持ちかけられたらしい。気兼ねなく連絡が取れるように、と。

 この時の大政所様は、複雑な事情で再婚したこの娘夫婦を心配していた。

 それに家康は『悪くない、可愛げのある御仁』だったらしい。

 だから、信用して大政所様は快諾した。

 気に入ったと大政所様が主張して、駿河から大坂へ連れ帰った侍女の一人を連絡役にしているらしい。


 ふふっ、徳川の間者がしれっと城奥に紛れ込んでる。

 羽柴のセキュリティ、思いの外ガバガバでは???

 ぞわぞわ鳥肌が立つ事実だが、この間者を通して大政所様と徳川夫妻は連絡を取り続けていた。

 一年以上、秀吉様にも寧々様にも一切バレずにだ。

 基本的には、旭様直筆のなんでもない内容の手紙。

 表書きだけ旭様を装って家康が書いた手紙は時々だったそうだ。

 それにしたって、内容は季節のご機嫌伺いや旭様のご様子のことばかり。

 今回以外、政治色を帯びた手紙が来ていないそうだ。

 それだけが唯一の救いだね……笑う……。



「と、とりあえず、徳川殿の手なる文は燃やしましょうね」



 寧々様が大政所様に言う。

 ご機嫌伺い程度でも正規ルートで確認されてない手紙は、そこそこヤバイもんな。

 大政所様は素直に頷いて、明日早急に二人だけで手紙を燃やす約束をした。

 旭様の手紙は大政所様が渋ったので、一旦保留となった。

 そうしてひそひそと、対処を決めることしばらく。

 あらかた決まって一息吐けたのは、お夕飯の時間をかなりオーバーした頃だった。





「とんでもない日だったわね……」



 飲み物でお腹を誤魔化しながら、寧々様がひとりごちる。

 大政所様は、東様とおこや様に付き添われて帰って行かれた後だ。

 控えている孝蔵主様も私も、頷く。

 茶々姫の側室入りといい、徳川ホットライン発覚といい、とんでもない事実ばっかり発覚した日だった。

 厄日も良いところだよ、本当に。



「旭様の帰洛ですが、どうなさいますか?」


「お義母様の望まれるとおりにするつもりよ」



 孝蔵主様に訊ねられて、寧々様が肩をすくめる。



「お義母様が危篤とでもすれば、

 少しの間なら帰って来させてあげられるわ」


「北条のことがありますが」


「あるにはあるけどね、

 二月(ふたつき)くらいならなんとかなると思う」



 本当に大丈夫なのかな。

 冷えた柚子蜂蜜ドリンクをちびちび飲んで考えていたら、寧々様がくすりと私を見て笑った。



「お与祢は徳川殿を疑っている?」


「本音で申し上げても、よろしいですか」



 うかがう私に、寧々様が笑みを深くする。



「ちょっと、疑わしい方ですね」



 家康は油断ならない、というのが羽柴に仕える者たちの共通認識だ。

 秀吉様は家康に対して、とてもフレンドリーに接しているけれど、同時に最も警戒してもいる。

 つまり、家康を仮想敵として捉えているのだ。

 臣下の私たちだって、どうしてもそういう目で見てしまう。

 また家康は、まだ完全に臣従せず上洛命令を拒む北条と縁戚関係を継続している。

 東北の大名たちとも、個別でやりとりをしている。

 そういう政治的に怪しげなところがあるだけじゃない。

 五ヶ国を支配する大大名だから兵力と地力が高くて、ご本人の能力値も高い。

 旭様が帰った途端に、北条や東北大名たちと組んで裏切ってくる。

 なんてことも、状況的に十分にありえると思う。

 史実じゃそんなことなかったはずだけど、あの手紙を見たら疑わざるを得ない。

 そう話すと、寧々様は「なるほどね」と天井を見上げた。



「与祢姫の見解には、拙も同意いたします」


「孝蔵主も?」


「徳川殿の振る舞いは、いささか以上にあやしいかと」


「そう思うのねえ」



 脇息にもたれて、寧々様が息を吐く。

 麗しい横顔の笑みは崩れていない。

 まるで、家康が裏切らないと知っているかのようだ。

 ちらり、と寧々様が孝蔵主様を横目で見た。

 すっと手を上げて、東の方角を指差す。

 孝蔵主様は軽く目を瞬かせて、東の方角と寧々様を見比べる。

 そうして、大きな息を吐いた。



「わかった?」


「はい、左様でございましたな」



 安心したように笑う孝蔵主様に、寧々様が満足げに目を細めた。

 あのぉ、私はわからないんですが。

 東を指さすって、何かの暗号かな?

 家康は確かに東から来るけれども、だからそれがどういうことを意味するんだろう。

 ダメだ。考えてもヒントすら思い浮かばない。

 


「与祢姫、帝です」

 


 うんうん考えている私に、孝蔵主様が振り向いた。

 帝? ああ、東って御所の方角か。

 でも帝がどうかしたっけ。

 首を傾げると、呆れたように眉を顰められた。

 不合格ですか……頭の回転が悪い生徒でごめんね……。



「今年の四月に、帝が聚楽第へ行幸なさることは?」


「え、ああ、存じております」



 帝が聚楽第に泊まりがけて行幸なさるって話は、去年から聞いている。

 めちゃくちゃ大掛かりな準備が必要で、そのために寧々様がフル回転で采配を振るってらっしゃるのだ。

 お側にいる私はよくよく知っている。

 行幸中の羽柴の女性陣の化粧を一手に任されることにもなっているしね。

 おかげで最近は私も、忙しくなってきている。

 与四郎おじさんと相談して新作コスメを開発したり、化粧品や道具の発注をしたりやることがたくさんなのだ。

 そんな大変な行幸と家康が裏切るか否かに、関係があるのか。

 どう繋がるのか、考えてみる。


 まず家康が裏切ったとして、だ。

 まず間違いなく秀吉様は軍を率いて、家康討伐に乗り出すからね。

 行幸はたぶん、中止になる。

 戦の準備と並行で行えるようなイベントでは、絶対にないのだから。

 そうしたら帝は気分を害す、かもしれない。


 ……いや、気分を害したってことに秀吉様がするな。

 家康が勅勘をこうむったって形を整えて、戦の大義名分にするわ。

 朝敵・徳川家康を成敗する。

 家康が否定しようがない大義名分が、お手軽にゲットできちゃうのだ。

 秀吉様なら、十中八九その作戦に出る。


 孝蔵主様が、私の目を覗き込む。

 深く頷いてみせると、及第点です、というふうに微笑んでくれた。



「近日中に帝の行幸があるからこそ、徳川殿は裏切りません」



 だろうね、納得だよ。

 家康は馬鹿ではない、むしろ有能な人物だ。

 秀吉様を相手に、わかりやすく絶好の口実を与えるような立ち回りをするわけがない。

 現時点の状況では、絶対に裏切らないだろう。

 今回に限っては、信用できる。



「と、いうことは、あの手紙の内容は」


「おそらく、本当に旭殿の体調がお悪いのでしょうね」



 寧々様が東を見つめて、呟く。



「徳川殿は本心で旭殿を慮って、

 里帰りを勧めているのじゃないかしら」



 政治的な危険をわかっていてなお、大政所様に頭を下げたってことか。

 一般人の夫が体調の優れない妻を案じて、実家で安心して療養できるように準備を整えてあげる。

 そんな、普通のご家庭内みたいな気遣いを家康がしている。

 ちょっと、信じられない気持ちでいっぱいだ。



「旭殿の里帰りの支度は進めましょう。

 孝蔵主、明日佐吉たちと面会する用意を」


「はっ」



 寧々様の命に、孝蔵主様が頭を下げる。



「お与祢にも手伝ってもらおうかしら」


「私もですか!?」



 ぎょっとして、大きな声を出してしまう。

 そんな私をはしたないと嗜めながら、寧々様は続けた。



「旭殿が帰ってきたら、曲直瀬殿とともにお世話してちょうだい」


「はぁ……はい」


「それから、旭殿と徳川殿の内情を探ってあたくしに報告してね」


「えっ」



 スパイの真似事をやれと!?

 無理だって、私そんな諜報活動なんて習ってないよ。

 そもそも子供にスパイさせるって、あり得ないでしょ。

 警戒されて大したことを話してもらえないだろうし、なんなら騙くらかされて情報を引きずり出されかねないよ。

 とうてい寧々様が望む成果を得られると思えない。

 もっと適任な人材がいると思うよ?



「貴女ならできると思うのよ、あたくしは」


「で、ですが」


「任せたわよ」


「寧々様、私はこど」


「任せたわよ」



 言い募る私に、寧々様がにこにこ被せてくる。

 笑顔の圧が、強い。

 目が笑っているのに、怖い。

 絶対に断らせてやらねえって顔だ。

 がくりと、私は崩れ落ちるように平伏した。





また厄介な仕事が追加されてしまったのである。


いつも読んでくださってありがとうございます。

執筆の励みになりますので、評価や感想、ブクマをいただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 主人公がどの程度歴史を知っているのかがわからない。大河レベルの自分でも知らないことがあったり、逆にえらく詳しかったりするし。歴女や歴史好き設定でしたっけ?
[良い点] 見た目は子供、頭脳は未来人、その名は名スパイ与弥!(笑)
[一言]  更新お疲れ様です。  史実によると、家康は旭姫が亡くなった後、寺や供養塔を建立していたそうです。  経緯などから考えると愛情があったとは考えにくいですが、少なくとも政治的事情で辛い目に遭…
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