病は癒えて、そして(1)【天正16年1月中旬】
火鉢の中で、炭団がいこっている。
激しくはないじんわりとした熱が優しい。
冬はこれがないともう生きていけないな。
網の上に並べたスコーンを温めながら、しみじみと思う。
この冬の聚楽第では、炭団が大ブームだ。
炭団は比較的安い。侍女クラスでも気軽に購入できて、ついでに長く燃えてくれる。
寒くなるにつれ、あっちこっちに炭団を入れた火鉢が出現したのは自然の摂理みたいなもんだった。
高品質の炭を贅沢に使える寧々様ですら、炭団を使った火鉢を使用する時があるほどだ。
使う炭団はただの炭団じゃなくて、香木の粉を練り込んだ超高級品だけど。
火を入れると、とても良い香りがするので超リッチな空間が演出される。
暖房兼ルームフレグランスみたいなノリだ。
発案者の与四郎おじさんの商売センスはすごいね。
高級ラインと庶民ラインの使い分けが上手い。
この冬は城の外でも、上から下まで炭団を売り捌いて大儲けしている様子だ。
従来の炭商人界隈に打撃を与えまくっていて大丈夫?
与四郎おじさん、いつか刺されるんじゃない?
ま、基本的に消費者にすぎない私が気にしたってしかたないか。
スコーンが香ばしい香りを漂わせ始めた。
そろそろかな。菜箸で返すと、良い感じの焼き色が付いている。
高坏の上にスコーンを移して、初物の柚子ピールのジャムを盛った小皿を添える。
同時並行でクロモジのハーブティーをセットした急須に、別の火鉢で保温していた鉄瓶のお湯を注ぐ。
柔らかなクロモジの香りが部屋に満ちて、ほっこりとした気分になってくる。
こうして食べ物や飲み物の温め直しが気軽にできるようになったのも、炭団のおかげだね。
今日みたいに寒い日には、体の中から温めるのが大切だ。
女性は基本的に冷えやすく、体を冷やすとすぐ不調に繋がる。
しっかりと温活して体を温めておかないと、健康ではいられない。
炭団はその温活に大活躍してくれる、ありがたいアイテムであるのだ。
整ったアフタヌーンティーセットに、保温のため厚めの布を掛ける。
それを侍女に運ばせて、お庭の方へと持っていく。
キンと冷えきった廊下を足早に歩いていると、弓を射る小気味良い音が聴こえてきた。
あ、今歓声が沸いた。的の真ん中に当たったのかな。
聴いている感じ、一発も的を外していない。
ブランクがあっても、腕は鈍っていらっしゃらないんだな。
感心しながら廊下の角を曲がる。
目の前に現れたのは、広めの庭とそれに面した廊下。
廊下には色鮮やかな人集りができていて、庭に設られた弓場を見守っている。
人集りを構成する女房や侍女たちの視線の集まる弓場には、女性が一人。
黒髪をきりりと高く結いあげていて、まだまだ細い身を黒い小袖に真紅の筒袴で包んでいる。
シャープなラインの横顔が美しい麗人の、切長の瞳が見つめるのは遠くの的のみ。
矢を番えた弓を大きく引いて、静かに狙いすましている。
冬に白く染まった呼気が、ふ、と漂った。
弓弦を掴む指が、ぱっと離れる。
矢が空気を裂く、細く鋭い音が耳に届く。
瞬き一つにも満たない半瞬の後。
的の中央に的中した矢が、その場の私たちの胸を清々しく打った。
「お見事にございます!
また命中でございますわっ!」
矢柄を抱えた萩乃様が頬を真っ赤にして、射手──竜子様に弾んだ賞賛を送った。
人集りからも黄色い声がわぁっと上がる。
声援と称賛を一心に受ける竜子様は、あいかわらず表情が少ない。
だが、まんざらでもないようだ。口角がほんのり上がっている。
ちらりと人集りへ振り向いて、軽く片方の手を挙げる。
次の瞬間、悲鳴に近い歓喜の叫びが庭に満ちた。
いつものことながらすごいわ、ここ。
竜子様の治療が始まってから、はや四ヶ月と少し。
食事回数を増やすことで、食事量が改善したのとともに、竜子様はどんどん元気になっていった。
一日五食を始めてから、一ヶ月ほどで病的な体型から脱出。
これと前後して、毎日寧々様と一緒に朝夕のお散歩を始めた。
動くようになったら食事量が増えて、さらに竜子様は体を動かすようになった。
やっぱり竜子様は体を動かすのがお好きなようだった。
でもその時点では激しい運動はお勧めできなかったので、ドローイングと膝突きプランクをお教えした。
ドローイングとは、要は深呼吸だ。
仰向けに横になって、腹式呼吸を何度かして呼吸を整えて、それからお腹を限界までへこませて息を吐ききる。
その状態を浅い呼吸をしながら三十秒キープすると、腹横筋とインナーマッスルが鍛えられるのだ。
運動をほとんどしない人でも手軽にできて、運動不足解消とぽっこりお腹撃退ができる。
膝突きプランクは筋トレダイエットで名を馳せた筋トレの一種だ。
うつ伏せで横になって肩の真下に肘を突き、足は軽く開いて膝を地に突き、つま先と腰を浮かす。
これを一〇から三十秒キープするを一日五回ほど繰り返すと、基礎代謝が上がって体が引き締まって姿勢が良くなる。
正規のプランクよりしんどくなくて、腰も痛めにくいメリットもありだ。
この二つで竜子様の筋力はガンガン回復し、とうとう年が明けた今では弓を再開できるほどまでになったのだ。
それにともなって、本人も御殿の雰囲気もエネルギッシュになってきた。
上品なんだけれど、力強い。
竜子様へ向ける女房や侍女の様子も、そんなふうに変わった。
令和の某歌劇団の超人気男役とその熱狂ファンの集団、って言えばわかりやすいかな?
良い具合に女房や侍女たちが、かっこいい竜子様に狂っている。
実質上のトップになった萩乃様に影響されたのか。
それとももともと、彼女たちに素質があったのか。
とにかく、主人へ向ける熱量がすごい。
寧々様の御殿とはカラーが違いすぎて、ちょっと笑えてくる。
こっちの方が氏素性が良いお家の人が多いのに、雰囲気が可愛らしい。
「京極の方様、午後のお菓子をお持ちしました」
咳払いをして、大きめの声を出す。
和気藹々とした空間に割って入るのはしのびないけれど、ぐずぐずしていられない。
スコーンとハーブティーが冷めちゃうしね。
気が引けるが、切り替えてもらわなきゃ。
「おや、もうそのような時間か」
振り向いた竜子様が、驚いたふうに言った。
女房から厚手の打掛を着せ掛けてもらって、きびきびとこちらへ歩いてらっしゃった。
以前よりもずっとふっくらした頬は、ほんのりと上気している。
薄化粧を施した肌の色艶は良くて、コンシーラー に頼らなくてもいいくらいクマの名残りもない。
体付きはまだまだ細いが、筋肉を取り戻しつつあるせいだろう。
しなやかな印象が強くなってきている。
「ご苦労、今日は何だ」
竜子様が、廊下の端に腰掛ける。
無造作だけれど、どこか品が良くてかっこいい。
印象もだいぶ変わったなあ、この人。
最初に出会った頃の儚げさが、もう見る影もない。
「椎の実入りの固焼きのパオンでございます。
柚子皮の甘煮を塗ってお召し上がりください」
今日のおやつはビタミンC三昧だ。
柑橘類の柚子はもちろん、椎の実もビタミン爆弾みたいな食べ物なんだよ。
ナッツ類にしてはビタミンCがべらぼうに多く、ビタミン不足になりがちな冬向きなのだ。
食べやすい蜜柑がまだあまり手に入らない今の時代には、ありがたい存在だよ。どんぐり。
今日お出ししたものは、秋のうちにいっぱい集めて貯蔵してある一部だ。
しっかりと炒らせて、粒大きめに砕いてスコーンに練り込んだので、食感が楽しくなっていると思う。
私の渡した消毒用アルコールを含ませた布巾で手を拭いてから、竜子様が直接高坏のスコーンを一つ取った。
最近は見慣れた、ちょっとしたお行儀の悪さだ。
両手でスコーンを割って、匙で柚子ピールのジャムをたっぷり塗りつける。
そして竜子様は、ぱかっと口を開けてスコーンを齧った。
「美味だな、腹に染みる」
「ようございました、飲み物もどうぞ」
「ん」
差し出した茶器を受け取って、てらいもなく竜子様は唇を付けた。
もう慣れたが、竜子様とそのまわりは私に無警戒だ。
信用されすぎていてちょっと怖い。
「変わった味だな」
一口飲んで、竜子様が小首を傾げる。
「お体を温めるクロモジと生姜の茶です」
「生姜か、どうりで舌がひりつくわけだ」
「お口に合いませんでしたか?」
心配になって、お顔色をうかがう。
ジンジャー系は健康にいいけれど、好みが分かれる味だ。
だが竜子様はいや、と首を振った。
「美味ではないが、体がぬくもるので良い」
良薬だの、と二口目をすっと飲んでおっしゃる。
よかった。飲んでもらえるなら、今後はジンジャー系ドリンクを増やしてみるか。
妊活するなら冷えは大敵だからね。
「それにしても」
竜子様がスコーンを飲み込んでから、吐息とともに呟く。
「ずいぶんと変わっておるな、お与祢は」
しみじみ、といったふうに竜子様が零した言葉にちょっと笑ってしまう。
何を今更って感じだ。
お代わりのハーブティーを注ぎながら、そうですね、と同意する。
「否定せんのか?」
「変わっていなければ、九つで奥勤めなどしておりませんよ」
「まあそうだな。
しかし、変わり方が尋常ではないぞ」
「左様でしょうか」
どういうこと? 意図をはかりかねて、私は首を傾げる。
私が尋常じゃないのはわかっている。色んな意味で、この時代の規格外だ。
けど、竜子様の口振りはちょっとニュアンスが違う気がする。
そんな私を竜子様はしげしげと眺めて、ちょっと目を細めた。
「そなた、殿下と北政所様と妾の仲を、いかが思っておる?」
急にぶっこんできてどうしたの???
そこ一番デリケートな話題だから、一度も触れてこなかったんですけどぉっ!?
自分から話のネタにしてくるとか正気か、竜子様。
私はもちろん、萩乃様もお夏もぎょっとしてんぞ。
「言うてみよ、怒らんから」
声も出せない私に、竜子様がおかしげに催促してくる。
下手な返事には怒りますって予告にしか聞こえないんですが。
でも返事をしなかったら、それはそれで怒られそうだ。
しかたない、腹括るか。
「……お仲が、よろしくてらっしゃいますね」
「世辞か?」
「お世辞ではなくて、そう思うのですけれど。
よく揉めませんね、京極の方様たち」
ここ数ヶ月側で見ていて、心底そう思う。
羽柴夫妻と竜子様は、不思議な三角関係だ。
仲の良い姉夫婦と歳の離れた妹、と表現すれば良いのだろうか。
彼らが城主とその正室と側室である、と知らずに一見すれば、そんな印象を受けるだろう。
そのくらい気安くて身内的な雰囲気がある。
いくら一夫多妻が認められる時代であっても、ここまで良好な関係を築いている例は珍しい。
でも別に悪いことじゃないから、私としてはずっと仲良くしててねと思っている。
そう話すと、竜子様が嬉しそうに笑った。
「ほら、それよ」
心底喜ばしいって響きが声にある。
何を喜んでらっしゃるのやら。
怪訝な顔をする私に、竜子様は笑みを深くした。
「波風立てたがる者どもが多い城奥では、
ずいぶんな変わった考え方だよ」
言わんとするところがなんとなくわかった。
おっしゃる通り、人はゴシップが好きな生き物だ。
正室と側室の関係が良好であるなんてつまらない、と考えるゲスはわりと珍しくない。
外野が勝手に双方を担いで権力争いをやるなんてのも、珍しくないのが城奥という世界。
そんな城奥の空気に影響されない人は、実のところ少数派なのだ。
「変わった者であるからこそ、
北政所様もそなたを信用なさるのであろうな」
「でしたら、ありがたいことですわ」
「ふふふ、もそっと誇らんか」
つん、と竜子様が私のおでこを突く。
楽しげな目で私を映しながら、ハーブティーをまた一口飲んだ。
「さてそなた、妾たちがなぜ揉めぬか、と申したな」
「はい、申しましたが」
「その理由を知りたいかえ?」
また答えにくい質問をなさることだ。
知りたいっちゃ知りたいが、素直に知りたいと言って良いものか。
迷いに迷うが、興味に負けて私は小さく頷いてしまった。
竜子様の笑みに満足げなふうが加わった。
「妾はな、殿下と北政所様のお二人に惚れておるのよ」
遅くなってすみません。
竜子様が元気になったら、竜子様の御殿がファンミーティング化してきた。
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