その病、なかなかに払いがたきにつき(1)【天正15年10月上旬】
座敷の空気が瞬間冷凍される。
やっぱりこうなった。でも止まれない。
ご懐妊を望むなら、無視して良い問題じゃない。
それとなく、この場の面々の様子をうかがう。
竜子様本人も、寧々様や東様、竜子様の女房たちも全員フリーズしていた。
都合が良いと捉えておこう。今なら止められる心配はない。
「京極の方様、質問を変えます。
近頃、意識して食事を細くするなど、なさっているのではありませんか」
次弾を口から発射する。
これなら少しは答えやすいだろ。
竜子様の視線が、斜めに下がった。
都合の悪いことを指摘された子供みたいな仕草だ。
あらま、図星か。
もうわかっちゃいたけど、やっちまってるな。
ハンドマッサージで触った手の爪も、そういえばスプーンネイルだった。
これは、間違いないかもだ。
深く息を吐いて、予想をきちんと確定させるために質問を続ける。
「もしや、夜に眠りにくい日が多いのではないでしょうか」
「……」
「今のようにゆったりとしていても、とても疲れていらっしゃいますね」
「……それは」
「少し歩いたら息が切れることも、よくあるのでしょう?」
私の重ねた問いに、竜子様の瞳が揺れる。
唇を淡く開いては閉じ、浅い息を零す。
そうして酷くためらいながらも、やっとというふうに口を開いた。
「……なぜ其の方は、」
「控えよ! 痴れ者が!!」
竜子様の小さな声に、激しく鋭い声が覆い被さった。
心臓が跳ねる。声の方へ振り向く。
竜子様の女房たちの中の一人が、立ち上がっていた。
老婆までは行かないが十分に年嵩の女房が、私をまっすぐ睨んでいる。
「竜子様に対して、なんっと不躾な物言いか。
北政所様の女童とはいえ、戯言にも限度があるぞよ!」
ヒステリックな怒声がガンガン放たれる。
わぁお、めちゃくちゃ興奮してらっしゃる。
かつて役所の窓口やスーパーのレジで見かけた、クレーマーそっくりだ。
おばさん、落ち着け。あと私は女童じゃなくて女房だ。
いや、無理か。それも理解できないくらい、感情に支配されてるって感じだもんな。
こういう時にこっちも感情を見せると、更にヒートアップするタイプと見た。
勢いにビビったら相手の思う壺だ。落ち着いて対処しなくちゃ。
深呼吸をして、荒れるおばさんに軽く頭を下げる。
「急にたくさんおたずねをしてしまい、申し訳ございませんでした。
ですが、どうしても確かめねばならぬ、急を要する大事なことでして」
「大事ならば無礼も許されると!?
其の方はそう申すか!」
「そう聞こえたなら申し訳ございません。言葉が至りませんでしたが、
決してそういった意図はございません」
接遇研修で叩き込まれた対クレーマー対応を思い出して、丁寧に淡々と返事をする。
ここまで興奮した相手になら、一周回って冷静に対応できるもんだな。
そんな私の態度に、おばさんは頬を引くつかせる。
「お、大飯の局様っ。そこまで、そこまでで……!」
「ええい離せ! 萩乃っ!」
「落ち着いてくださいましたら離します。
ですのでどうか……っ」
硬直が解けた萩乃様が、おばさんの袖を掴む。
ちらちらと上座の寧々様たちに視線を送りつつ、なんとか収めようと必死だ。
寧々様と東様、動かないんですが。
扇や袖で口元を隠して、黙って事態を見守っている。
他のお側に控える方は間に入りたそうだが、寧々様と東様がそれだから出るに出られない様子だ。
寧々様と視線が合う。すっと、目を細められた。
自分で捌いてみせなさいってこと?
難しいことを、と思うがしかたない。
これからも似たようなこと、いっぱいありそうだもんな。
実地でちょっとずつ慣れるしかないか。
寧々様の御化粧係でいるためには、このくらいできなくてどうするのって話だもの。
「ほうけた顔を竜子様にお見せするなっ」
「大変失礼いたしました」
飛んできたおばさんの叱責に、深々と頭を下げる。
おばさん、本気でムカついているんだろう。
あるいは私に舐められてると思ったかも。
目尻の皺が深いまなじりが、縦なる勢いで吊り上がっていく。
おばさん大丈夫か? 頭の血管が心配だから、ちょっと落ち着いてくれ。
心配になって頭を上げつつ顔色をうかがうと、おばさんが一歩踏み出してきた。
ばさりと打掛を捌く音とともに、萩乃様を蹴り飛ばす。
その勢いのまま、まっすぐこちらへ突進してくる。
怖っ! こっっっわ!! おばさんめっちゃこわ!?
迫り来る白塗りババァはホラーがすぎる。まだ昼なんですけど。
軽くのけぞった私と竜子様の間に、突撃してきたおばさんが割り込む。
近いっておばさん。恰幅がいいので圧迫感たっぷりの壁みたいだ。
お夏が私の腕を引いて、背中に避難させてくれる。
距離ができても安心できない。
おばさんの極太の氷柱みたいな視線が、ガスガス私に突き刺さっている。
「ではどういう意図か、言うてみい」
「京極の方様のお体を案じてのことです」
威圧的な声に怯んだ自分を隠して、できるかぎりゆっくり返事をする。
感情をあまり込めずに、落ち着いて淡々とした感じで。
相手の感情に呑まれないよう心掛けて、言葉を繋ぐ。
「お方様の肌やお顔色の様子を拝見して、早急に対処すべきと判断しました。
ゆえに、急いておたずねしてしまいました」
「竜子様を無作法の言い訳するでないっ!」
「言い訳に聞こえましたら、申し訳ございません」
お夏の後ろで、もう一度頭を下げる。
しんどいけど相手がヒートダウンするまで、こうし続けるしかない。
クレーマー対応ってのはそういうものだ。
ま、適当なところで止まらなきゃ、上司の強権ってカードを切るんですけど。
「ですが、お方様はとても危険な病やもしれぬのです。
もしそうならば、ご懐妊どころかお命に障りますから」
「竜子様が病だと!? 戯けた嘘を重ねるな!!」
おばさんの表情がますます歪んで、ダンッと強く畳を踏み込んだ。
お夏の真横に、おばさんが進む。
私へと、更におばさんが迫る。
「お局様、おやめください!」
萌黄の小袖の腕が、おばさんと私の間に伸びる。
感情を抑えながらも鋭いお夏の制止に、おばさんの怒りが頂点に達した。
ふくよかな腹に結ばれた帯から、豪華な扇が引き抜かれる。
「このっ! 慮外者の地下人がっ!」
振りかざされた扇が、風を切る。
毅然とおばさんを見据える、お夏に向かって。
鬼気迫るおばさんに声が出ない。
怒らせすぎた。そう思ってももう遅い。
お夏を逃さなきゃ。突き飛ばそうにも間に合わない。
黒い髪が、ふわりと私とお夏の視界を遮った。
「やめよッ」
扇を肌へ強かに叩きつける、耳にも痛い音が響く。
「あ……」
間抜けたおばさんの声とともに、その手の扇が零れ落ちた。
ぽとりと畳に落ちた扇を、白すぎる手が取り上げる。
「やめよ、大飯」
打たせた腕を庇いながら、膝立ちの竜子様がおばさんを見据えて言う。
その声は、嘘のように強い。
張りは今一つだけれど、帯を引き締めるように周りの気持ちを引き締める強さがある。
つい、と竜子様の手にした扇が、立ち尽くすおばさんに突きつけられる。
「慮外者は貴様だ、たわけ」
「た、たつ、」
「妾を担いでに尊大に振る舞うな。
いささか以上に度が過ぎておるぞ」
静かな口調だが、端々に怒りが滲んでいる。
この人、ちゃんと感情があったのか。
驚いている私とお夏に、竜子様が振り向く。
病んでも美しい横顔は、やはり無に近い。
でも、きちんと私たちに心を配っているふうが見てとれた。
「大事はないか」
「は、はいっ、ですが、京極の方様、腕が」
「案ずるな、かすり傷よ。折れはしておらんだろう」
……発言が、男前すぎません?
豹変っぷりに唖然としている私たちを置いて、竜子様が上座へと体を向けて座った。
「北政所様、我が老女がお見苦しいところをお見せいたしました。
平に、平にご容赦を」
キレの良い所作で、竜子様は寧々様に平伏する。
畳に額をぴったり当てるほど深いそれに、おばさんは金切声を上げた。
「おやめくださいっ! 何をなさっておられるのですかっ!?
竜子様の腕を掴んで、おばさんは平伏を解かせようとする。
でも竜子様は平伏を解かない。地に縫い付けられたように、寧々様に頭を垂れ続ける。
ぎゃあぎゃあと一層騒ぎ立てられても、意にも解していない。
息を上げたおばさんの顔に、青筋が立つ。
おいおい、主に向けて良い顔じゃねえよそれ。
「高貴な貴方様がなぜかように謙られるかっ。
矜持は無いのですか! 大飯はかなしゅうござ」
「黙りゃ」
竜子様が、ぎろりとおばさんを睨む。
ひ、と喉を鳴らして黙ったおばさんに憐れむような一瞥をくれて、竜子様はもう一度寧々様に平伏した。
「お騒がせいたしました」
「いいのよ、気になさらず」
おっとりと寧々様が微笑む。
あ、目が笑っていない。遠目にもわかる。
怒ってる、わけじゃない。ぎらりと一瞬光ったから。
獲物が罠に掛かったって顔だ、あれ。
「でも竜子殿のお側には、少々不相応な者かしらねえ」
その者。
いつもと同じ明るい調子の声で、寧々様が言う。
「お恥ずかしいかぎりにございます」
「ふふふ、いいのよ。
ちゃぁんとあたくしも気づけて、むしろよかったわ……東」
呼ばれた東様がにこにこと進み出る。
するする上座から降りてきて、私たちの元へやってきた。
おばさんが、一歩いざる。東様は福々しい笑みを浮かべたまま、距離を詰める。
銀鼠の打掛から伸びた腕が、するりとおばさんの腕に絡んだ。
「大飯の局殿、別室へ」
「さ、触るなっ、このっ」
「別室へ、参りましょうね」
優しいお顔が、ひきつるおばさんに寄せられる。
「北政所様の、お言葉ですよ」
柔らかく諭しているふうなのに、奥に冷たく硬い芯が潜んでいる。
東様の一言に、おばさんががくんと崩れ落ちかけた。
でも東様が許さない。腕を掴んだまま離さず、ずるずると引きずっていく。
慌てて駆け寄った萩乃様が東様を手伝うが、東様は戸口のあたりまでしか許さなかった。
もう大丈夫というふうに微笑んで、二、三ほど囁きかける。
おばさんを引きずってさっていく後ろ姿に、萩乃様が一礼する。
そうして表情を引き締めた萩乃様が、竜子様のお側に舞い戻った。
「竜子様、腕のお具合は」
「……折れてはおらぬ」
「けれど、痛みましょう」
萩乃様に重ねられ、竜子様が目を伏せた。
痛みを堪えていると、はっきりわかる。
呆れたように息を吐き、萩乃様は寧々様に頭を垂れた。
「山内の姫君のお化粧の前に、
主の腕の手当てをさせていただけましょうか」
「ええ、そうね。玄朔殿を呼びましょう」
寧々様が脇息にもたれて言う。
お側の女房の一人が席を立って、退室していく。
今日は中奥に伺候している、御典医の若先生の方を呼びに行くのだろう。
だったら診察を受ける前に、応急処置でもしておくか。
縮こまっていた侍女の一人に声を掛けて、冷たい水を頼む。
すぐに水で満たした手桶が運び込まれる。すぐそこに井戸があったらしい。
よかった、と思いながら清潔な手拭いを水に浸す。
硬く絞って、萩乃様に渡した。
「お手当てまで、冷やして差し上げてください」
「ありがとうございます、姫君」
萩乃様が竜子様の袖を捲って、扇を受けた腕を晒す。
ほっそりとした二の腕の中ほどが、じわりと熱を持った赤になっていた。
一目で痛そうとわかる状態に、つい顔を顰めてしまう。
あんな怪我になるほどの力で、あのおばさんはお夏を打とうとしたのか。
剥き出されていた敵意の激しさに、思いを馳せてゾッとする。
たびたびこういうことが今後もあるなら、嫌なことだ。
「お与祢」
腕を冷やされながら、竜子様が私を呼んだ。
「先ほどの問いのことだが、今答えてよいか」
「それは、腕が落ち着かれてからにしませんか?」
「急を要すると、そなた申したであろう」
確かに言いましたけどね。
やばい痣になりそうな怪我とだったら、怪我の方が優先だと思う。
そう言おうとしたが、視線に制されえる。
真剣な、腹を括った眼差しだ。
切長の竜子様の目元が、研ぎ澄まされたように鋭くなっている。
「北政所様もおられる、ここで答えるのがよかろう」
「はい、左様にございます」
私が顎を軽く引くと、竜子様は満足げに頷き返した。
気遣わしげな萩乃様の手に、自分の手をそっと添える。
そうして、改めて私をひたりと見据えた。
「すべて、昰だ」
「では、やはり」
「故あってな、食事を細くしておったのだ。
そうしたら、このようになってしまってな」
答える竜子様の口調は、微かに硬い。
「月のものはな、もう三月は絶えておるよ」
表情のなかったお顔が、ひくりと動く。
ひさしぶりに試して、盛大に失敗したような笑みが口の端に浮かんだ。
「───もう妾に、懐妊は難しかろう」
※老女……ろうじょ。おばあさんという意味ではない。
高貴な女性の側に付く使用人の筆頭格という意味。
決してBBAと罵ったわけではない。
ちょっとは竜子様もそう思ってるが。
お察しの方も多いでしょうが、次が病の正体が判明。
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