京極の方様【天正15年10月上旬】
京極竜子様、という女性がいる。
お歳は数え二十四歳で、通称は京極殿。
城奥においては、京極の方様と呼ばれている。
お生まれは私と同じ近江だが、生まれた家がとんでもない。
元近江半国の正統な守護、京極家だ。
しかも由緒正しい源氏の血筋。武家社会でも上から数えた方が早いかもしれない名家だ。
血統だけで語れば、織田も羽柴も京極に勝てない。
最近人気で市場を席巻する、ちょい高めのウィスキーが織田や羽柴。
コレクター垂涎の、えぐい価格が付いたオールドウィスキーが京極家……みたいな感じの違いかな?
そんなとんでもない家のお姫様が、竜子様である。
元は若狭かどっかのこれまた名家のご正室だったが、元旦那が本能寺でポカをやらかして敗死。
竜子様は捕らえられて、色々あって秀吉様の側室になった。
秀吉様が囚われの竜子様と接見したおりに、あまりの美しさにころっと惚れたとか、なんとか。
おいおいおい、若い未亡人を愛人にするって秀吉様やらかしおるわ。
しかも寵愛が深いご様子ってどういうことですか。
秀吉様が竜子様の元に三日と置かず通ってるって、聚楽第城奥じゃ常識なんだよ。
寧々様の元にもあししげく通って、ラブラブするのと同時並行でだ。
いろいろと元気な天下人だ、いろいろと。
私は寧々様付きだから、竜子様にこれまで一度もお目通りをしたことはない。
寧々様の御殿から一歩も出ていないせいだ。
私がまだ城奥に慣れていないから、と寧々様は私をまだ表に出さない方針を取っている。
御殿の外には、私に良い感情を抱いていない人が少なからずいて、安全とは言いがたいからだろう。
だから来客があっても、前田のまつ様の時以外は同席させていただけない。
竜子様の方も、与えられた御殿からあまりお出ましにならないご様子だ。
調子が悪いのだとか、懐妊しているとかさまざまな噂が聞こえてくるが、本当のところはわからない。
有名人なわりに露出が少ない、ミステリアスなイメージの御人だ。
そんな人とのお茶会ですよ。
しかも私が亭主で、あちらをおもてなししろですって。
緊張しない方がおかしいわ。
「ね、与四郎おじさん」
「別にぃ?」
寧々様に指定された、竹林を望む座敷の隣にて。
一緒に席入り前の打ち合わせ中の与四郎おじさんは、にたりと笑って私の苦悩を切り捨てた。
ひっっっど! おじさんは常人以上に肝が太いけど、私は凡人で平凡な肝の持ち主なんだよ。
微妙なバランスの関係にある人たちの交流の場にぶち込まれたら、胃が死ぬわ。
「気まずさで胃の腑が痛くなってくる……」
「なんでや?」
使う茶碗を拭きながら、与四郎おじさんが聞いてくる。
「だって、その、御正室と御側室が同席の茶会じゃない?」
「それがどないしたのや」
「どないって、どないもこうも」
棗に抹茶を入れる手を止めて、与四郎おじさんを睨む。
私はその御正室の寧々様の女房なんだぞ。
寧々様の前で竜子様に下手なことは言えないし、そもそもどういう人間関係があるのかも教えられていない。
素直に愛想を良くしていいのか、それとも表面的に振る舞えばいいのかすら判断がつかない相手だ。
非常に気を使うから、えらいストレスになる。
棘を含ませた私の視線に、与四郎おじさんは横目で応える。
口元がにやりと片方、わざとらしく吊り上がる。
綺麗に拭いた茶碗を避けて、私の方へ体の向きを変えてきた。
「あんなあ、お与祢ちゃん。
茶の湯に浮世の煩わしさを持ち込んだらあかんで」
「え、でも」
「茶席はな、浮世やない。
いっつもいっつも、わては言うとるやろが」
呆れたように、与四郎おじさんが鼻を鳴らす。
「あすこに一歩踏み入れば、人はみな只人や。
肩書きも身分も塵やで、塵。気にしたらあかん」
わかるか、と与四郎おじさんが目を合わせてくる。
眼力が鋭い。真剣の鋒にも似ているそれは、気の良い与四郎おじさんのものではない。
茶の湯の極地に至った茶聖のそれだ。
ならば私は千利休の弟子として、弟子らしく振る舞わなくてはなるまい。
「心得違いでございました、御師匠様」
「よろしい、これからも励まれい」
頭を下げる私に、与四郎おじさんが千利休として返す。
鳥が鳴く。長閑なさえずり一つで、ふっと空気が緩んだ。
「ま、たーった二年で至れる心構えでもないわな!」
与四郎おじさんが大口を開けて笑い出す。
その顔はすっかり、お茶目でひょうきんな与四郎おじさんだ。
「ゆるゆる場数を踏んでいきなはれ。
商売とおんなしや、回数をこなしたらなんとのう身につくもんやしなぁ」
「はは、その場数って何回踏めばいいんだろうねえ」
「んー……千回くらい?
弁慶みたいになるかもしらんけどぉ」
慌てて袖で口を覆う。
やっっっば。すんでのところで抹茶が飛び散る大惨事を免れたわ。
なんてことしてくれるんだ、このおじさんは。
ツボってひくつく口元を隠したまま、与四郎おじさんに向けて瞼を落とす。
「ちょっともうっ! 笑かさないでよ!」
「すまんすまん、でも落ち着いたやろ」
にたにた笑う与四郎おじさんに肩を突かれる。
言われてみれば、肩の力が抜けていた。
緊張はどこかに飛んでいって、いつもの私のコンディションに近い。
落ち着いた状態で、亭主をこなせそうなくらいだ。
「さぁて、ほないこか」
よっこらせという感じに、与四郎おじさんが腰を上げる。
「わてもおるし、心安う茶を立てなはれ。
ああ、そうそう」
続いて立ち上がる私を見下ろして、与四郎おじさんが片目を瞑る。
「今日の茶菓、お与祢ちゃんの考案したカステイラで小豆の餡を挟んだどらやきやで」
神かよ、与四郎おじさん。
やる気が俄然湧いてきたんですが!
◇◇◇◇◇◇◇
笹の葉音のさらさらとしたBGMが、座敷に良い感じの趣きをもたらしている。
竹林といえば、夏のイメージがなんとなくあったけれど、秋の竹林もなかなかだ。
ヒーリング効果たっぷりで、静かに楽しむ茶の湯にぴったりな空間を演出してくれる。
おかげで私も普段通りの御手前を披露できた。
手慣れた薄茶手前だったのもあるが、与四郎おじさんの言う境地を感じられたよ。
まあ、端っこに小指がかかった程度だけどね。
茶道具を片付けて、席に戻る。
襖を開くと、与四郎おじさんは寧々様と茶碗を前にきゃっきゃしていた。
あれ、今日使った茶碗だな。
合成ウルトラマリンをふんだんに使った、鮮やかな青一色。
でも茶碗の内の底に、一枚だけ赤い紅葉が描かれていて、お茶を飲みきると底の紅葉が目に入る。
令和で使っていたマグカップが、そういうデザインだったんだよね。
こっちでも似たものを使いたくて、与四郎おじさんに頼んで窯元へ発注してもらったのだ。
「良い青ねえ、まるで水面のようじゃない。
底に浮かぶ紅葉の赤がよう映えているわ」
「左様でおざりましょう?
与祢姫様御考案の意匠でしてな、女性の茶席にぴったりの品かと」
にこにこアピるな与四郎おじさん。
寧々様が目をきらきらさせてこっちを見てきたぞ。
ごめん寧々様。デザインセンスないよ、私。
これは昔見たデザインを復元しただけだから、新規デザインをしろとか無茶振りしないでね?
「一つ、普段使い用にほしいわね」
「せやったら後日、色違いや底絵違いの品をお持ちしまひょか?」
「ではお願いするわ、宗易殿。
うちの人と揃いにしたいから、一緒に拝見させてちょうだいな」
おじさんの提案に、嬉しそうに寧々様が乗っていく。
与四郎おじさんも商談に繋がって満面の笑みだ。
待て待て、ここで商談するな、茶聖。
あんたさっき茶室は浮世じゃないって言ったろ。
浮世のど真ん中の話題を持ち込むとか、矛盾しすぎて乾いた笑いが出そうだよ。
寧々様も隣をご覧ください。
隣にいるのは旦那の愛人さんですよ。
旦那とペアマグ買っちゃおっかなーって話を聞かせるって、マウントですかそれ。
ほらほら竜子様のお顔が……ぜんぜん変わってないな。
天正式の濃いめメイクのお顔は、ぴくりとも動いてない。
切れ長の目を縁取る睫毛を軽く伏せ、小さめの唇は一切開かない。
目鼻立ちがどことなく寧々様に似た感じもするが、表情が無すぎる。
若い頃の寧々様を人形にしてみました、みたいな雰囲気だ。
人間味が薄すぎて、感情が読み取れない。
はらはらと見守っていると、寧々様が竜子様の方へ向いた。
手には例の茶碗。それを竜子様に差し出して、にっこりと微笑む。
そして寧々様は、私の小さな肝を踏みつける発言を投下した。
「竜子殿もどうかしら。
茶碗、今度あたくしたちと一緒に見る?」
何ぶっ込んでるんですか、寧々様。
真正面から喧嘩売ってどうするんですか。
やばい、やばいよ。修羅場が発生しちゃうよ。
与四郎おじさん止めてよ。寧々様に意見を言える人間は、この席でおじさんだけなんだよ。
平静を必死で装いながら、与四郎おじさんへ目配せをする。
しかしおじさんは、にっこり笑って棗を撫で始めた。
気配がかぎりなく、薄くなる。
このおっさん、この場にいながら逃げやがった。
私にもその技術教えてよ。私もいるけどいない者になりたいよ。いますぐに!
「……よろしいのでしょうか」
内心で与四郎おじさんに罵詈雑言を浴びせていたら、唐突に竜子様が喋った。
声、初めて聴いたよ。寧々様のアルトほどじゃないけど、心持ち低めかな。
しっとりとして耳触りが良い、どこか艶めいたお声だ。
声フェチの人が喜びそう。
でも、感情が搭載されてないから、聞くと不思議な感覚におそわれるんだが。
「いいのよ、貴女もあたくしたちの家族になるのですから」
「恐れ多いことに、ございます」
「あらこの子ったら、かしこまらないでちょうだいな」
目を細めた寧々様が口元を、扇面に桐葉と牡丹の描かれた扇で隠す。
家族? どういうこと?
側室とは形式上、寧々様の部下だ。
端的に言えば、私たち女房と同じく使用人である。
仕事が秀吉様のご寵愛を受けるって、特殊な内容なだけという違いしかない。
寵愛を受けるに足る身分と、それゆえの厚遇をうけるから違う存在に見えがちだけどね。
だから羽柴の家族にはなり得ないはず、なのだか。
「お与祢、こちらへ」
寧々様が私を呼ぶ。
今は側に行きたくなかったが、呼ばれたなら行くしかない。
淡く微笑んで一礼し、寧々様のお側へ足を進めた。
隣に座ると、寧々様はいつもどおりに私の肩を抱いてくる。
気安い態度に、さすがに竜子様も驚いたのだろう。
本来ならば眉がある位置が、ぴく、とほのかに動いた。
「紹介するわね、竜子殿。
こちらはお与祢。山内対馬殿の姫で、あたくしが先日、御化粧係として召し上げたの」
「さようですか。少々幼のう、ございますね」
「まだ八つなのよ。可愛いでしょ?」
竜子様の視線が、ちら、と私に向く。
黒目がちな瞳には、感情がやはり見えない。
気持ちが落ち着かなくて、もじもじしたくなってくる眼差しだ。
「この姫が、ですか」
ややあって、竜子様がぽつりと呟く。
「そうよ。この子が、あたくしを幸せにした鸞」
感情の籠らない声に、寧々様はにこにこと頷いた。
「───貴女にうちの人の子をもたらしてくれる、瑞兆よ」
竜子様登場。寧々様似。
執筆の励みになりますので、ブクマや評価、感想をいただけると嬉しいです。






