嵐の前の聚楽第の朝【天正15年10月上旬】
令和の十月と天正の十月は、だいぶ違う。
季節のめぐりのテンポが明らかに令和より早いのだ。
天正の十月は寒い。朝晩の冷えが、令和の十一月か十二月並みだ。
紅葉だってもう始まっていて、後半に差し掛かると霜すら降りる日が出てくる。
令和並みの極端すぎる猛暑がない代わりに、天正の秋冬の冷え込みは厳しい。
去年と比べれば今年はなんとか慣れてきた分マシに思えるが、寒いものは寒い。
だからお布団から人間が出られなくなるのも、自然の摂理なのだ。
「姫様、姫様」
綿入りの夜着の上から揺すられる。
うっすら目を開くと、まだ暗い。夜じゃん。もうちょい寝られるな。
気の抜けたあくびを一つして、私は夜着に潜り込んだ。
「姫様、お目覚めください。朝ですよ、おはようございます」
夜着の上の手が、私を強めに揺する。眠い。まだ朝じゃない。起きたくねえ。
あったかい夜着と仲良くさせてよ。
エアコンもヒーターもない世界で、一番仲良くしたい存在なんだよ。
きつく目を閉じて夜着に包まる。
優しい温さと柔らかさが幸せだ。秋冬限定で夜着と結婚したいくらい。
「ひーめーさーまっ、起きてくださいなっ」
焦れたような声が遠い。
知らんぷりで二度寝の誘いに乗った次の瞬間、最愛の夜着が引きはがされた。
寒い寒い寒い! 眠気が吹っ飛んだ視界いっぱいに、眉尻を跳ね上げたお夏が映る。
突然の仕打ちに文句を言おうとしたら、ぎゅっと手首を掴んで引っぱり起こされた。
敷布の上にぺたんと座らされる形になる。
「ねむい……まだ朝じゃないのに……」
「眠くない! 早く支度しないとお仕事に遅れますよ!」
ぼやく私を叱りながら、お夏は寝乱れた私の髪を直し始める。
使うヘアウォーターは精油と椿油とエタノール、それから芳香蒸留水で作ったものだ。
これを布に浸し、私の髪に含ませていく。
クロモジの精油と和薄荷の芳香蒸留水を使っているから、香りは爽やか。
やっと目が覚めてきた気がしたころにヘアセットが終わり、お湯の入った角盥が運ばれてくる。
与四郎おじさんが輸入してくれたマルセイユ石鹸で顔を洗って、スキンケアを一通りしたら歯磨きだ。
使うのは房楊枝ではなくて、令和でセオリーだった柄が長くて先に毛が植えてあるタイプ。
馬の毛で作ってもらった試作品で、塩を歯磨き粉にして磨く。
丁寧に磨いたら口をゆすいで、寝間小袖から昼用の小袖に着替える。
今日は白とクリームイエローの片身かわりの小袖だ。
紅い菊の刺繍が施されていて、大人っぽくて可愛い。
複雑な織りの入った蘇芳色の帯をゆったりと締めたら、着付けは終わり。
うん、今日も完璧。
「与祢姫様、おこや様が参られました」
仕上げにピーチベージュのリップを塗っていたら、戸の外に控えさせていた侍女の声が掛かった。
お迎えのお姉さんが来てくれたらしい。
お通しするようお夏に伝えさせると、すっかり明るくなった障子戸が開いた。
「お与祢ちゃん、おはよー」
ターコイズブルーっぽい打掛のお姉さんが、片手を挙げて入ってくる。
すたすた軽い足取りで寄ってくる彼女は、おこや様。
私と同じ寧々様の女房の一人で、歳は数えで十六歳。私に比較的年齢が近い先輩だ。
寧々様の手配で、私が城奥に慣れるまでの介添え、ようはお世話係をしてくれている。
「おこや様、おはようございます」
「ふふ、早起きしてえらいねー」
朝の挨拶をすると、しゃがんで目を合わせて撫でてくれる。
おこや様は面倒見が良くて、明るい性格の人だ。
ちょっと母様と似た系統だから、わりと付き合いやすくて助かる。
「じゃあ、行こっか」
おこや様が私の手を取る。
ぎゅっと握り返すと、彼女はちょっとはにかんでから歩き出した。
廊下に出た私たちの後ろに、お夏たち侍女が数人ほど続く。
ちょっとした行列になるけれど、わりと仕事に持っていく荷物が多いからしかたない。
メイクセットを納めた化粧箱はかなり重く、小分けにして侍女に持たせなきゃ運べないのだ。
だって、スキンケア用品やコスメを入れた容器はだいたい陶器。
重い上に割れやすいので、慎重に運ぶ必要がある。
結果として、毎日私付きの侍女を全員連れての、女房にしたら派手な出勤になってしまう。
ここが寧々様の御殿でよかった。
上から下までみんな事情をわかっているから、妙な視線は飛んでこない。
代わりに小学生の登校を見守るような、ほのぼのした視線は集まるけれどね。
「今日の紅、可愛いね。とと屋の新作?」
歩きながら、おこや様が話しかけてくる。
女子高生なお年頃だけあって、彼女はお洒落とメイクに敏感だ。
「わかります? 色見本にって昨日届いたんですよ。見ます?」
「えっ、いいの? 見せて見せて!」
「もっちろん!」
懐に入れてきたリップスティックを、渡してあげる。
朱塗りに白い螺鈿の花弁を散らしたパケに、おこや様の目は釘づけだ。
蓋を開けて、色味を確認する目が光る。
「香色がかった桃色か。いいね、使いやすそう」
「でしょ、派手色じゃないから仕事向きですよ」
「たしかに〜、あと清楚っぽいから男受けもいいんじゃないかな」
「絶対受けますって、わりと男の人は薄化粧に弱いですし」
リップ一つで会話がぽんぽん弾む。
数年振りの女子トーク、めっちゃ楽しいわ。
おこや様と私って好みが近いから、だいたい何を話しても意気投合できるのも最高。
部屋にある未使用の新作リップも後で見せる約束をして、話題を他の物にも変えていく。
コスメに着物、城奥の催し予定や頭に留めておくべき噂話。
あれこれ話しているうちに、寧々様の居室へ辿り着く。
戸口に控える同僚に取次を頼んで、おこや様と並んで座る。
後ろでお夏たちが、荷物を下ろして平伏する。
それを確かめてから、私たちも指をついて首を垂れる。
するりと、牡丹の描かれた襖が引かれる。
ふわりと、白檀の香りが溢れてくる。
気持ちが、自然と引き締まっていく。
「面をおあげなさい」
許されて、おこや様と一緒に顔をあげる。
まだすっぴんに寝間小袖の寧々様が、上座の段上でにこりと頬に笑みを刷く。
「おはよう、おこやにお与祢」
「寧々様におかれましても、今朝はご機嫌麗しく」
「ふふ、お与祢のお化粧が待ち遠しくって、早起きしちゃったのよ」
冗談半分、本気半分みたいな感じで寧々様がおっしゃる。
私もおこや様も、まわりの女房や侍女たちも、つられて緩む口元を隠した。
和やかな、少しは慣れてきた朝の雰囲気だ。
良い具合にリラックスしてきた私は、お夏から化粧箱を受け取った。
自分の前に置いて、軽く指先を畳につく。
「ご期待に応えまして、本日のお化粧も腕を奮わせていただきます」
「うふふ、楽しみね」
にこにこの寧々様の元に、化粧箱を手に向かう。
まずは今朝の寧々様のご体調の確認だ。
お側に控える孝蔵主さん……今は直属の上司なので孝蔵主様だ、に昨夜から今朝にかけてご様子を教えていただく。
昨日の夜は秀吉様と薪能をご覧になっていて、夜更かしを少しされたらしい。
そのせいか少し、お顔に浮腫みが出ていらっしゃるとのこと。
くまは出ていないが、目のお疲れがあるとおっしゃっているということ。
エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。
細かやかな孝蔵主様のお話をきちんとメモって、頭の中で今の寧々様に必要なケアやメイクを組み上げていく。
よし、だいたい決まった。今日はこれで行こう。
「ではまず、泡立てたサボンでの洗顔から始めさせていただきます。
そののちに、按摩と合わせて面膜をいたしましょう。
本日は酒粕と唐胡麻油で行います。
どちらもお疲れのお肌が潤う滋養に富んだ品ですので、
本日の寧々様にぴったりかと」
今日のスキンケアメニューを口頭で説明する。
ご自身の体や肌に関わることだ。きちんと寧々様にも知っておいていただきたい。
一方的にやられているだけじゃ、効果をいまいち感じにくいかもしれないしね。
そういう私の考えを、寧々様も理解してくださっている。
つらつらと私が述べる説明に、ちゃんと質問や意見を出してくださるからありがたい。
まわりの女房や侍女のみんなにも、私のすることの意味を周知できるという効果がある行動だからだ。
同僚の業務へのある程度の理解は、仕事上の連携プレーを行う上で大切なことだ。
特に私たちみたいな、人のお世話を主とする仕事においては、常に細やかな連携が要求される。
寧々様もそれを知っているのだろう。
私たちが自然とお互いの業務を知れるよう、言葉にして周りに聞かせるようなことがよくある。
だからか、寧々様付きの女房・侍女チームはかなり有能で意思疎通が上手くできている。
ついでに上から下まで、かなり仲が良い。
これだけの人数でありながら人間関係が円満にかぎりなく近い、奇跡のような職場だ。
「……以上でございます。
お気にかかる点はございましょうか?」
ひと通りの説明を終えて、一礼をする。
ややあって、寧々様が首を横に振った。
「何もありません。今日もあたくしを綺麗にしてね」
南向きの窓から差し入る朝日と同じくらい、眩しい微笑みを寧々様が浮かべる。
視線が重なった。嬉しげに寧々様の涼しい目元が細まる。
「では、始めさせていただきます!」
くすぐったい気持ちを隠さずにはにかんで、私は化粧箱を開く。
まずは洗顔用のマルセイユ石鹸を準備しなくちゃ。
記憶を元に作らせたハンディホイッパーに、石鹸を削り入れて精製水を注ぐ。
丁寧に、きめの細かな泡を立てていく。
今日も寧々様が綺麗になれますようにと、心を込めて。
穏やかな一日を過ごせますように、と願いながら。
張り切りつつものほほんと、私は朝の仕事に励んだ。
………この後まもなく、敬愛する主に手ずから爆弾をブッ込まれるとは夢にも思わずに。
昨日より遅くなってすみません。
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