遅れてくるヒーロー、来なくてよかったジョーカー【天正14年6月上旬】
音が、響いた。
鋼を硬い何かで受け止める、甲高くも鋭い音が。
「丸腰の少女に、刀を抜くとは何事だ」
低い、けれども穏やかな声が降る。
恐れた痛みは、いつまでもやってこない。
おそるおそる瞼を開く。俯いた視界が暗い。
誰かが日差しを遮っているのだと気づくのに、少し掛かった。
いったい、誰が。ぼんやりと私は顔をあげる。
最初に目に映ったのは、糊の利いた淡いグレーの袴。
笹色の羽織を纏う背は高くて、髪は茶筅に結い上げられている。
男の人。抜き身の刀と鞘を手にした、若い男の人。
その人が手にした刀の鞘が、私を襲った刃を受け止めていた。
男の人は、こともなげに受けていた太刀を弾く。
「恥を知れ、下郎」
こちらを振り向かず、ただ前を向いたまま、彼はチンピラ男たちに吐き捨てる。
凛とした、力強い声。恐怖で塞がった私の心に、すとんと刺さった。
例えようのないほど大きな安心感が全身を包む。
止まっていた呼吸が、喉を抜けて楽になった。
「邪魔立てするな!
俺は関白秀吉公が御馬廻ぞ! 何者だ貴様は!!」
「関白殿下の麾下だと?」
男の人が怪訝そうに聞き返す。
チンピラ男は尊大な態度でそうだと肯定した。
「俺は上田左膳。
賤ヶ岳の戦で軍功抜群と関白殿下のお褒めに預かった者ぞ。控えよ!」
「控えるのはどちらだ、愚か者が。
俺も賤ヶ岳に参陣し、始終関白殿下のお側近くに控えていた。
だが、貴様のような下郎が殿下のお褒めに預かっていた記憶はないぞ」
「なんだとっ!?」
冷めた男の人の物言いに、チンピラ男がいきり立つ。
食ってかかろうとする男たちを制するように、男の人が名乗りを上げた。
「俺は堺代官所配下、大谷刑部少輔である」
彼──大谷様が構えた刀が、涼やかな鍔音を零す。
「仮に殿下の御馬廻であろうと、堺市中を騒がせる慮外者は俺が捨て置かぬ。
さあ、代官所まで同行願おうか」
大谷様の帯びる気配が、鋭くなる。
殺気、いや、覇気と呼ぶべきだろうか。
圧倒されるけれども、ちっとも怖くなかった。
広い背中が頼もしくて、絶対に大丈夫だと思えた。
今、男たちが大谷様めがけて斬りかかって来ているのに、だ。
不思議な感覚に戸惑いながら、邪魔にならないよう茶屋の壁まで後ずさる。
しっかり隙なく背中をつけて、手足を折りたたんで縮こまる。
目はもう閉じない。大谷様の背中に、視線が固定されている。
大谷様の手にした刀が閃めく。迫る刃を巧みに流す。
泥を蹴り上げて敵の目を潰す。相手の槍を奪って振るう。
あっという間に、チンピラ男以外の全員が叩き伏せられた。
「さて、もう一度言わせてもらおう。
今すぐ、代官所まで同行せよ」
刀の切っ先を突きつけ、大谷様が言い放つ。
チンピラ男の顔が、一気に蒼ざめた。
強い。この人、凄まじく強い。
複数人を相手にして圧勝するなんて、現実離れしているにもほどがある。
こんな人が存在するなんて、信じられない。
「ぐ……クソが……ッ」
大谷様ににじり寄られただけ、チンピラ男が後ろへ退く。
じりじりと、間合いを図るように。
「お、覚えていろッ」
唐突に、チンピラ男が身を翻した。
仲間を助ける素振りすら見せず、一目散に場を離れんと駆け出す。
「ガッ!?」
が、逃亡は一瞬で終わった。
ほんの数メートルも行かず、男がどさりと膝を地に突く。
「前を見て歩け、馬鹿者が」
面倒臭そうな声と一緒に、男が蹴倒された。
男の向こうから、小柄な青年の姿が現れる。
きっと代官所の人だ。後ろには捕り方らしき集団も見える。
「おい、これとそこに転がっている馬鹿どもを全員引っ立てろ。
こんなものを放置しては市中の景観を損なう」
青年が引き連れている部下たちに、うずくまる男を顎でしゃくって示した。
チンピラ男を殴りつけた算盤でトントンと肩を叩きながら、神経質そうに細い眉を跳ね上げている。
ザ・エリート官僚みたいな人だ。今の時代にもいるタイプだったんだな。
なんて思っていると、不意に陰が差した。
「もし、姫君」
落ち着いた声で、我に返る。私は弾かれたように顔を上げた。
大谷様の静かで整った面差しが目に映る。
茶筅に結われた総髪に、ほんの少しの返り血で彩られた頬。私を見下ろす切れ長の双眸は、凛として力強い。
見た感じ、二十歳くらい、だろうか。思ったよりずっと若くて驚く。
呼吸を詰めた私の前に、大谷様が跪いた。表情を和らげて、穏やかに語りかけてくる。
「ああ、怖がらせてすまないね。
もう不埒者は始末したから、安心してほしい」
「は、え」
「立てるかい? できれば、場所を移っていただきたいのだが」
大谷様が私に手を差し伸べてくる。
角張った長い指の、大きな男の人らしい手だ。
でも、手荒れかな。手のひらには竹刀胼胝以外に、じくじくとした赤い湿疹が広がっている。
触っても痛くないのかな。一瞬手を止めて、考えてしまう。
「手に触れるのが恐ければ、手首を掴んでくれて構わないよ」
その躊躇いを、何と捉えたのだろう。
大谷様がそう言った。申し訳なさそうな、どこかさみしげな微笑みを浮かべて。
傷つけてしまった。
自分の態度で嫌な思いをさせてしまった。
胸が、ズキ、と痛む。慌てて私は否定した。
「ごめんなさい! 違うんです!
私、変に触ったらあなたの手を痛めないかなって思って。
それで、ためらってしまって」
「……優しい姫君だ」
ふ、と大谷様の眉が和む。
それでやっと、私の肩から力が抜けた。誤解は解けた、と思いたい。
羞恥や気まずさが混ざり合った感情を誤魔化すために、口を開く。
「その、手ですけど、本当に大事ないのですか?」
「見た目ほどの痛みはないよ。剣も握れるからね。
でも君の気にかかるなら、こうさせていただいても?」
大谷様が、差し出していた手を一度引っ込める。
そうして懐から出した手拭いで手のひらを覆うと、改めて私の前に出してくれた。
これなら大丈夫そうだ。私の気持ち的にも、安心できる。
「じゃあ、お願いします」
手拭いに包まれた手に、そろそろと自分の手を乗せた。
触れたと同時に、握られる。布越しに温かさが伝わった。
力が少し強いけれど、不快感はなかった。
炎症の部分に少し触れているけれど、意外と乾いたかさぶたにも似た感触がした。
ずいぶんと荒れさせてしまっているようだが、アレルギーか何かだろうか?
そんなことを考えながら、大谷様に助けられて立ち上がる。
でも、抜けた腰は本調子ではなかったようだ。
立った瞬間に、足腰に力が入らなくてよろめいてしまった。
「歩けそうにないね」
私を支えて、大谷様が呟く。
恥ずかしくて俯くと、頭上でふと笑う気配がした。
「体に触れるよ」
「え、はい……っわ!?」
返事をするが早いか、大谷様の腕が膝の裏に回った。
視界が急に高くなる。瞬く間に、私は大谷様の片腕に抱き上げられていた。
「しっかり掴まっていなさい。
これから君も代官所へお連れしようと思うが、いいね?」
大谷様の顔が近くにあって、頬がカッと熱くなる。
なんだかもう、堪らなくて、私は大谷様から目を逸らした。
渡された被衣を深く被って、大谷様の肩に顔を伏せる。
それからようやく、返事代わりに頷けた。
被衣の上から、頭を一つ撫でられる。体が揺れて、大谷様が歩き出したことを知った。
「紀之介、それはなんだ?」
いくらも進まないうちに、さっきの官僚青年の声がした。
ちらりと被衣の隙間から外を窺う。
官僚青年が背伸びをして、大谷様の腕の中の私を覗き込んでいた。
「さきほどの者に襲われていた姫君だよ、佐吉殿」
「姫ぇ? 襲われているのは茶屋の娘と聞いていたが」
「その娘をこの姫が庇ったようだ」
「ふーん、向こう見ずな馬鹿娘だな」
は? 今この野郎、なんつった?
火の玉ストレートな発言に驚いて、被衣から顔を出す。
官僚青年がじろりと私に不躾な視線をぶつけてくる。
細い眉を片方器用に持ち上げて、青年は露骨なため息を吐いた。
「馬鹿娘、お前どこの姫だ」
「えっ」
「早く言え、親を呼ぶ。
お転婆な馬鹿娘を供も付けずに街へ放つお前の馬鹿親はどこの誰だ」
「人の親を馬鹿って言わないでくださいます?
さすがに失礼すぎませんか?」
人に物を聞く態度を誰にも教わらなかったのかな???
あんまりにあんまりな官僚青年の物言いに、うっかり本音がボロッと口から飛び出した。
横柄すぎていっそ笑える。ないわー、私が子供だからといっても、それはないわー。
「うるさい馬鹿娘だな。
某は馬鹿娘に払う礼儀など持ち合わせておらんのだ」
「馬鹿馬鹿言わないでください、腹立つんですけど」
「腹でもなんでも勝手に立てて構わんが、お前が馬鹿であるという事実は動かんぞ。
さえずる暇があったらさっさと名乗れ、馬鹿娘」
「だから馬鹿って言わないでっ、このハゲッ!」
「今なんと申した馬鹿娘! 某はまだハゲじゃない!!」
逆ギレか。しかも将来的に禿げそうだって自覚あるのか。
「喧嘩はやめなさい、ふたりとも」
ぎゃあぎゃあと私と官僚青年が繰り広げる言い争いに大谷様が割って入る。
はっと我に返る。周りを見たら野次馬が興味津々でこっちを見ていた。
顔がさっきとは別の意味で赤くなった。慌てて被衣を被って顔を隠す。
やらかしちゃったよ……もう十分やらかしたけど恥の上塗りだよ……。
「ふん、今更恥じらうのか」
そんな私を見て、ちょっと馬鹿にしたように官僚青年が言った。
ごもっともだけどいちいち癇に障る言い方するなあ! この人!!
でも言い返したくても言い返せない。これ以上恥を上塗りしまくりたくない。
行き場のない感情が手に込もって、大谷様の羽織を強く握ってしまった。
大谷様はそれに気づいたのか、官僚青年を「佐吉殿」と心持ち強めに呼んだ。
「佐吉殿、会ったばかりの姫君に不躾すぎだ。姫が怒るのもしかたない」
「……でも事実だろう」
「だとしても、言い方がある。相手はこんなに幼い姫君だぞ?
佐吉殿は大人なのだから、少し手加減したほうがいいよ」
官僚青年が口をつぐんだ。ぐうの音も出ないようだ。言い負かされてやんの、ざまあみろ。
被衣の隙間から、にやにや笑って覗いていると官僚青年と目が合った。
途端にムッと睨んでくるが、大谷様にたしなめられて黙り込んだ。
案外面白いかもしれない、この人。むかつくけど。むかつくけど。
「さて、姫」
「は、はい!」
大谷様に声を掛けられ、慌てて表情を引き締める。
「今佐吉殿が聞こうとしていたが、君がどちらの姫君か教えてくれるかな?」
「ええと、その、私は近江長浜城主の山内対馬守が娘にございます」
懐剣の家紋を見せて、そう答える。
おや、というように大谷様が少し目を丸くした。
「伊右衛門殿の娘御だったのか」
「父をご存じでしたか?」
「もちろん。関白殿下のご配下の中でも、あの方は古参でいらっしゃるからね。
殿下にお仕えし始めた頃、ずいぶんとお世話になった」
「まあ、そうでしたの」
父様ナイス。大谷様との接点を用意してくれてありがとう。
先程よりもいくらか大谷様の態度が親しげになって嬉しい。
「これが伊右衛門殿の娘御?
あの折り目正しい、性格の丸い伊右衛門殿のぉ?」
官僚青年がいぶかしげに私をじろじろ見て言う。
だから喧嘩売ってんのかこら。私が父様の娘で悪かったなこら。
「佐吉殿、いい加減やめなさい。
そろそろ代官所に帰ろう。捕らえさせた者どもの詮議も、伊右衛門殿への連絡もせねばならないだろう?」
「そうだな、こんなところで時間を潰すのは無駄だしな」
大谷様に促された途端に官僚青年はあっさり切り替えて身を翻した。
部下の人たちに帰るぞと告げて、せかせかと往来を歩いていってしまう。
後ろからばたばた追いかけていく部下たちに目もくれない。
めんどくさい嵐みたいな人だ……。
「佐吉殿が失礼をしたね。もうしわけない、俺が代わって詫びよう」
「い、いえ、お気になさらず! でもなんだか、すごく変わった方ですね……?」
「うん、まあね。悪いお人ではないんだが、頭の回転が早すぎるきらいがあってね」
「ああ~……いますね、そういう人」
頭が良すぎて他人が馬鹿に見える人ね。しかも思ったことが口に出ちゃいやすいタイプ。
仕事はできるんだろうが、側にいたらさぞかし面倒な人種だ。大谷様の苦労は察してあまりある。
「補佐役として、いつも口を酸っぱくして注意しているんだが、中々ね。
せっかく堺代官の大役を預かったのだから、もう少し直してほしいところだな」
「うっわ、あの人がこの街の代官なんですか」
代官って市長みたいなもんだっけ? とんでもない市長がいたものだな。
任命権者って秀吉だよね? 人事ミス決めてない? 大谷様とセットにしとけば大丈夫って判断か??
信じられない目をする私に、大谷様が心なしか疲れた笑みを浮かべる。
「そうだよ。あの人が当代の堺代官、石田治部少輔三成殿だ」
「えっ? い、いしだ、みつなり?」
「知っているかい、佐吉殿の名」
有名になったものだなあ、なんて大谷様が朗らかに笑う声が遠い。
う、うそ。うそうそうそ! あれが石田!?
何年か後に関ヶ原で大敗北を決める石田三成!?
何年か毎に大型時代劇とかで、関ヶ原の大敗北を決めては捕まって殺されてるあの!?
うっわ……一番縁付きたくないビックネーム来ちゃったよ……!
【石田三成】
1560年生まれ。おなじみ関ヶ原で必ず負ける石田治部少輔。
頭が良過ぎて他人が馬鹿に見えるタイプなので、周囲との摩擦が絶えない困ったやつ。
でも根は真面目でそこまで悪くない奴なはず、たぶん。
今は年下の大谷さんに補佐という名のお守りをされつつ、張り切って堺代官をやってる。生き生きしてる。
【大谷吉継】
1565年生まれ。石田に付き合って関ヶ原で果てた大谷刑部少輔。
石田と同じバリバリエリート官僚だけど、不思議と悪い噂がほとんどない人格に定評がある人。
一線を退く原因になった病気には諸説あるが、今作では例の病気ではない設定。ちなみにもう罹患してる。
ちなみに従来石田より年上というのが定説だったが、最新研究で石田より5歳下と判明した人。
おかげで彼にお世話されていた石田の印象が、だいぶ変わることになった。
今は石田の補佐という名のお守りとして堺代官所にお勤め中。毎日お疲れ様です。
毎年某SNSにおいて関ヶ原で敗戦を繰り返すコンビ登場。
来年は勝てるかなあ…。
※伊右衛門……山内一豊の通称。猪右衛門とも。
いつも読んでくださりありがとうございます。
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