ピンチは一気に押し寄せてくる【天正14年6月上旬】
「袴が汚れたではないか! なんのつもりだ、娘っ!」
治安のよろしくない雰囲気の男が、看板娘さんの襟を掴んで揺する。
見れば確かに少しだけ、男の袴の股間が濡れている。地面にぶちまけられたお茶がかかったのだろう。
漏らしたみたいで笑えるけども、大した汚れじゃない。自然乾燥に任せても別に支障がないはずだ。
冷静に考えれば怒るほどのことでもないが、男の癇にはがっつり障ったらしい。
銅鑼声を張り上げ、看板娘さんに罵声を浴びせまくっている。
「あ、あ、もうしわけありま……」
「ああ? この不始末、謝って済むとでも思うておるのか?」
「そんな、でも、お、お許しを」
「許せというなら誠意を見せてもらわんとなあ」
男がにんまりと嫌らしい笑みを浮かべる。
チンピラかよ。しかもふっるい漫画とかで見かけるステレオタイプ。
前世も含めて初めて見たわ。
「そらこっちに来い」
「きゃあっ!」
チンピラ男に乱暴に腕を引かれ、看板娘さんが悲鳴をあげる。
抵抗するが力の差は歴然だ。ほとんどなすすべもなく、看板娘さんはずるずると表に引きずられていく。
「おっ、お客はん、お待ちを!」
店先から慌てて駆け寄ってきた店主さんが、看板娘さんとチンピラ男の前を塞ぐように割り込んだ。
「お着物を汚した無礼、娘に代わってわてがお詫びします。
せやからどうか、このとおり! 娘を堪忍したってくださいっ!」
泣きそうな顔で店主さんが地に膝を突く。
悲鳴じみた謝罪とともに、お茶でできたぬかるみへ何度も額を付けた。
そこまでしなくてもと思うが、相手が相手だ。
例え相手の方にも非があっても、これ以上怒らせたくないという判断なのだろうけど……。
「口先だけの謝罪など要らんわ! 兄貴を馬鹿にしておるのか!」
チンピラ男の側にいた舎弟っぽいやつが、店主さんを蹴った。
やっぱりこういう馬鹿? クズ? って下手に出ると調子に乗るんだよなあ。最悪だこれ。
横倒しになった店主さんに、舎弟たちがよってたかって追撃を始める。
看板娘さんがとうとう泣き出した。チンピラ男に取りすがってやめてくれと叫んでいる。
うっわ、うっっっわ! やばすぎて怖いわ!
周りの大人ぁ! どうにかしてよ!?
そう思って辺りを見回すけれど、目が合った全員に目を逸らされた。
客も往来の人たちも助けない。遠巻きにして見守る姿勢ってどうかと思うよ。あるあるだけどさぁ!?
あー! むりむり! もう見てらんないっ!!
「おやめなさいっ」
覚悟を決めて出した声だけれど、ちょっと語尾が震えた。
その場の視線が、一斉に私を貫く。
一瞬緊張で喉が詰まりかけるが、平静を装って口を開く。
「もう一度言います。そこの者たち、おやめなさい」
「あぁ?」
私の物言いに、チンピラ男が凄んでくる。
こっっっわ。怯みかけたが、ゴキブリを見るような視線を返してやる。
私は姫。私は姫。大名のお姫様で、この場の誰より身分が高い。
人助けのためだから! ちょっとくらい身分を笠に着ても許される!
「多少の無礼をあげつらえて町人に当たり散らすなんてみっともない。不愉快だわ、あなたたち」
「うるせえなクソガキが! 人の話に割り込むなと親にしつけられてねえのか!」
「うるさいはこちらのセリフです。だいたい袴が濡れたくらいで何かしら?
どことは言わないけど小さい男ね」
チンピラ男に対して、傲慢そのものの態度で言い返す。
途端に外野のあちこちから吹き出す声が聞こえた。
笑ってる余裕があるなら加勢に出てこいや、大人ども。
小さい女の子を一人矢面に立たせて恥ずかしくないのか、あんたたち。
「舐めた口聞きやがって!
俺が関白秀吉公が御馬廻、上田左膳と知っての狼藉か!」
「あら奇遇だこと!
私は関白殿下より近江長浜城をお預かりする、山内対馬守が一の姫ですの。
まことに関白殿下の御馬廻であるならなおのこと無作法は控えなさい」
まだ偉そうな男にいらっとしながら言い返し、懐から財布を出す。
ちょっと惜しいがしかたない。意を決して財布を男たちの足元へ投げつけた。
「拾いなさい。これで新しい袴を買えばいいでしょう」
舎弟の一人が財布を拾って、わかりやすく嬉しげな顔になる。
そうでしょう。まあまあ重いでしょう。
それだけあれば良い古着くらい買えると思うよ。
「これで用は済みましたね!? さあ、この場から立ち去りなさい!」
ご来店ありがとうございました、モンスタークレーマー。もう二度と来んなよ。
そんな感情を込めて、上から目線を維持したまま言い放つ。
外野からぱらぱら拍手が上がった。
ええぞ嬢ちゃんとか、そうだ消えろやとかいうヤジも飛ぶ。
「ほら帰えれや!」
「せや帰れ!」
「とっとと帰らんかい!」
「そーら、かーえれ! かーえれ!」
「「「かーえれ! かーえれ!!」」」
人混みから飛んだ誰かの音頭で、野次馬たちが誰ともなく帰れコールを始めた。
調子が良い外野たちだなあ。集団の圧力になるからいいけどさ。
チンピラ男たちよ、ほらほら帰れ。今なら穏便に終わるぞ~?
「うるさいのお!!!」
チンピラ男が顔を真っ赤にして怒声を上げた。
うそっ、ここは覚えてろよって捨てゼリフとともに逃げ出すところじゃないの!?
予想外の展開に、野次馬たちの帰れコールが一瞬で止まる。
私もびっくりしてチンピラを見る。
「言わせておけばずいぶんと虚仮にしてくれたな、小娘が」
忌々しげにチンピラ男が私を睨む。毛むくじゃらの手が、腰に差された太刀に掛かった。
止める間もなく、太刀が抜かれる。刃が、日差しをぎらりと弾く。
悲鳴が上がった。野次馬が蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
ちょっと待って逃げるの早すぎでしょ!? ていうか、私放置!?
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。
私は大名の姫よ? 斬ったらどうなるかわからないのっ?」
「知ったことではないわ。どうせ騙りであろうが」
「騙りじゃないわよ! 見なさいっ、私は正真正銘の山内家の姫よ!」
慌てて出した懐剣をチンピラ男たちに見せつける。
鞘の家紋が私の身分証明だ。引いてくれという私の祈りもむなしく、返されたのは鼻で笑う声だった。
「はっ、そんなもの貴様を斬った後に捨ててしまえばよいわ!」
えっ、そういう解決法ってあり!?
戦国時代人、びっくりするほど思考が野蛮だな!?!?
さすがにヤバイ。これはヤバイ。
床几から立ち上がって後ずさる。なんとか逃げないと、普通に死んでしまう。
露骨に逃げようとする私に、お漏らし野郎と舎弟たちがにじりよる。
やだ、全員刀を抜いちゃったよ。殺る気満々じゃん。
子供相手に本気になるとかやめて。ほんとやめて。
「こ、こないでっ」
「はっ、聞くわけなかろうが」
じりじりとチンピラ男たちが包囲を狭めてくる。
近づいてくる白刃と殺気に、心臓がじわじわと冷えていく。
しくじった。姫だからって、調子に乗り過ぎた。でしゃばらなきゃよかった。
もっと言えば脱走なんてしなきゃよかった。
せめて、こっそり付いて来ていた佐助を撒かなきゃよかった。
なんて後悔しても、もう遅い。
男たちの刃はすでに、私を確実に捉える距離にまで迫っている。
じわりと涙がにじむ。体が震える。
男たちの嘲りをたっぷり込めた吼笑が、私の鼓膜を痛め付ける。
誰か助けて。誰でもいいから。叫びたいけれど、喉が凍りついて声が出せない。
腰が砕けて、ぺたんと地面に座り込んでしまう。
太刀を手にした男が、ゆっくりと私に近づいてくる。
「死ねぇええっ!」
振り下ろされる刃を前に、私は目を瞑った。
目を開けて受け入れるなんて勇気も、最後まであがく気概も、ちっぽけな私にはなかった。
(馬鹿でごめんなさい、みんな)
父様、母様、丿貫おじさん、与四郎おじさん。
親しい人たちの顔が、脳裏をよぎる。
私を大切にしてくれる人たち。大切にしてもらっていたのに、私の浅はかな身勝手で悲しませてしまうことになる。
胸の中で、みんなに謝る。心の底からの申し訳なさと、迫りくる死の恐怖に涙がこぼれた。
そして────音が、響いた。






