悪夢のなごりと自宅療養【天正17年7月中旬】
更新遅くてほんとすみません。
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『粧姫様……』
そろりと、声に呼ばれる。
驚いて視線を落とすと、足元は一面の血だまりだった。
なんだ、これ。あまりのことに、思考が止まる。
どろりとした血の中から、ゆらりと白い手が現れる。
動けない私の爪先を、その細い指が掴む。
爪先から足首、足首から膝を上がって、さらに腰へ。
上へ、上へと、手が這い上ってくる。
悲鳴ごと凍りついてしまった私に縋って、ずるりと手の主が姿を現す。
「あ……」
血の鮮紅で染めたその姿に、息を飲む。
「古満、どの?」
『なんで、逃げはったん』
私の呼びかけを遮るように、古満殿の細い声音が恨めしげに響く。
『大丈夫って……何とかするって……あんたさんが言うたから、信じたのに』
「それは、っ」
『御方様も、和子様も……あないなって……せやのに……目ぇも耳も塞いで、知らんふりやなんて……』
悔しくて、苦しくて、どうにもできず死にきれない。
やり場のない怒りに満ちた訴えに、涙が出てくる。
なのに、乾いた喉に声が張り付く。
謝りたいのに、ごめんなさいの一言も出てこない。
そんな私に古満殿は、蝋のように白いかんばせを歪ませた。
『粧姫様も』
赤い、赤い血だまりの中。
古満殿は、じっと私を見上げている。
その、鮮やかな血に染まった唇が、微かに動いた。
『――――――おんなし目に、遭えばええのに』
◆◆◆◆◆◆
「――――ッ!」
視界が急に明るくなる。
見慣れた実家の座敷が、目に飛び込んできた。
目を落とせば、妹の与津が私の膝を枕に柔らかな寝息を立てている。
ホッとして顔を上げた拍子に、大粒の汗が首筋を伝った。
ため息をこらえて手拭いで頬から首を拭い、湯呑に残っていた麦茶を飲み干す。
「はー……」
長く、長く息を吐く。
微かに震えている手を、湯呑ごと抱きしめる。
また、嫌な夢を見てしまった。
山内家の屋敷へ宿下がりをして、もうじき二ヶ月。
いまだ私は、春の終わりの惨劇に囚われ続けている。
あの日、茶々姫様の言葉がきっかけで、秀吉様は香様の不貞を疑った。
相手を実兄とする、誰から見ても嘘っぽい疑惑だった。でも秀吉様には、疑いが出ること自体許せなかったのだろう。
思い出したくないことばかりなさって、また都に血の臭いと不安が満ちる結果となった。
私の顔見知りも、ずいぶんとたくさん巻き込まれてしまった。
香様とそのお兄様の香積殿、古満殿や加藤様。香様に仕えていた女房も侍女も、みんな私の目の前からいなくなった。
手を差し伸べることすらできないまま、私は彼らを見送るしかなかった。
彼らにまつわる嫌な話がたくさん耳に入ってきたのは、それと同時だった。
香様の密通は本当で、妊娠がバレて罪を逃れるために殿下の子と嘘を吐いたのだとか。
実際の密通相手は香積殿だけではなく加藤様と秀長様で、だから二人が香様を庇うんだとか。
香様は並外れた男好きで、兄や古満殿たち配下の手引きでいつも男漁りしていたとか……。
人の悪口って、どうしてあんなに盛り上がるんだろうね。
楽しげに噂する人たちが恐ろしくて、部屋の外へ出られなくなった。
私にも、疑惑と好奇の目が向けられていたから。
理由ははっきりしている。
古満殿と親しかったのに、庇えず死なせてしまったからだ。
思ったよりも薄情な方、と言われるならまだ良い方。
香様を真似て良からぬことをしていたから、迂闊なことができないのだと陰で笑う人すらいた。
それを知ってしまったから、私はどうしようもなくなった。
黙っていれば、肯定なのだと受け取られる。
否定したって、やっぱり事実なのだと思われる。
外に出れば、みんなが息を潜めて私を見ている。
私の口から出る言葉に聞き耳を立て、私の行動にほころびを探そうとしている。
(こんな時に、紀之介様と一緒にいるところを見られたら)
『もし』を考えてしまった途端。
部屋の襖を開けることが、できなくなってしまったのだ。
後のことは、あまり覚えていない。
気が付いたら、私は今いる山内家の大坂屋敷にいた。
側に付きっきりでいてくれた母様によると、寧々様が動いてくれたらしい。
働くどころか生活もままならない状態では、城奥に置いておけないと思われたんだろうなあ。
酷い体調不良、というストレートな名目で宿下がりを許してくださったそうだ。
母様に付き添われて城を出て、以降二ヶ月近く屋敷の奥に引きこもっている。
父様たちの配慮で、家族以外の人との接触も格段に減った。
私が帰宅後すぐに祖母様が亡くなって、喪に服す必要もできたからね。
少しの例外を除いて、私への来客は丁重に、時に乱暴に追い返しているようだ。
情報についても、似たようなものだ。
屋敷の外のことは、私の耳に入らないような配慮がされている。
手紙はごく親しい人のものしか手元に届かないし、父様によって屋敷内では香様関連の話題が禁止されている。
それでも一度だけ、三条河原へ香積殿の首を見に行った話をした侍女がいたけれど……。
聞きつけた母様が彼女を折檻した上で、即日解雇した。
その一件以来、山内家では家老から小者や女中に至るまで、誰一人として外の噂話をしなくなった。
おかげで私を取り巻く環境は、ひとまず穏やかに保たれている。
「はあ……」
また、ため息が出る。
祖母様の葬儀やお弔いにまつわるあれこれの忙しさで、しんどい気持ちもだいぶまぎれた。
悪夢で眠れない夜も減ったし、ご飯も毎日しっかり食べられるようになった。
でも、それでも、時々こうして記憶がよみがえって苦しくなる。
こんなに嫌なことを引っ張ってしまうなんて、予想外だよ。
ずいぶん時間が経ったのに、いつまでも落ち込む自分が情けない。
引っ張るにしても、悩むにしても、二ヶ月近くやれば十分でしょ?
何をしたって、時間は巻き戻せない。気持ちを切り替えて、前へと進むしかない。
「……わかっているんだけれども、なあ」
深いため息をこぼしていると、庭の方から幼い歓声が上がった。
開け放った障子戸へ、ぼんやりと顔を向ける。
夏の鮮やかな日差しに照らされた庭先には、はしゃぐ子供の姿が三つあった。
何か面白いものでもあるのだろうか。
雲ひとつない空を指差したり、両腕を上げて跳ねたりと賑やかにしている。
「楽しそうね」
「ねえさま!」
妹の頭をそっと膝から降ろし、足を忍ばせ縁側まで出る。
小さな子供──弟の松菊丸が、一番に私に気付いて縁側に駆け寄ってきた。
「はねとんだ! ぶんって!」
血色の良いほっぺに満面の笑みを浮かべ、ほとんど叫ぶみたいに松菊丸が言う。
「はね?」
「さすけつくった! ぶんぶんとぶ!」
落ち着け、弟よ。その説明では何がなんだかわからない。
しかし、テンションぶち上げの二歳児に諭したところで、素直に聞いてもらえるわけもなく。
松菊丸は、ハイテンションでお喋りをしまくるばかりだ。
「与祢姫、竹とんぼですよ」
大興奮の弟の代わりに、夏空のように明るい声が答える。
松菊丸の後ろから、にこにことした男の子が、もう一人の弟・拾の手を引いて現れた。
「こちらです」
きょとんとする私に、彼は笑いながら拾ってきたらしい物を見せてくれる。
手拭いの上に載せて差し出されたそれは、プロペラみたいな板が付いた竹の棒。
遥か令和の未来にもあった素朴なおもちゃ、竹とんぼだ。
「これ、さっき姫の近侍が作ってくれたんです。すごくよく飛ぶもので、面白くって」
ね、と少年に振られて、拾もにこにこしながら頷く。
拾は落ち着いているなあ。数え四つのわりに、だけども。
年相応に振る舞える一方で、分別というか切り替えがしっかりしている。
将来は松菊丸の側近で確定しているから、そう躾けられているのかな。
「それはよかったわね。でも、そろそろ三人ともひと休みしなさい。瓜でも食べましょ」
そんなことを考えつつ、少年たちを座敷に上がるよう促す。
夏場だからね。涼しい木陰でとはいえ、外遊びするなら適度な休憩を挟まないと熱中症になってしまう。
侍女にマクワウリの用意を頼んでから、弟たちの草履を脱がせている少年に声をかける。
「暑い中で弟たちの相手をさせてごめんね」
「いえ、お気になさらず」
「でも、今日の熊ちゃんは、指月様からのお遣いで来てくれたお客様なのに」
「良いんですよ、ぼくもすごく楽しかったですから」
そう言って、少年、もとい熊ちゃんは、えへへと笑う。
ああ、可愛い。ザ・可愛い男の子って感じで、頬が緩んでしまう。
この熊ちゃん、お名前を黒田熊之助くんという。
黒田孝高様、通称を官兵衛様とおっしゃる方の次男で、歳は私より二つ下の八歳。
お父様の官兵衛様が秀吉様の信頼が厚い重臣である縁で、年明けから幸松様の小姓として出仕しているのだ。
そのため、竜子様の元へ仕事に出向くたびに、この子とは何度か顔を合わせる機会があって親しくなった。
歳や仕事が似ているけど違う、という絶妙なポジションのせいかな。
私にとって熊ちゃんは、話しやすい異性の同僚、いや、後輩? みたいな気安い存在である。
そんな私たちの仲を竜子様もご存じらしく、萩乃様が忙しい時は熊ちゃんをメッセンジャーとして送ってくる率が高いのだ。
「あの、本当に気にしないでくださいね?」
私の顔を覗き込むようにして、熊ちゃんが眉を下げる。
「ぼく、本当に与祢姫の弟君たちと遊ぶのが好きなんですよ」
「そうなの?」
思わず見つめ返すと、笑顔で頷かれた。
すごいな、熊ちゃん。拾はともかく、松菊丸の相手も楽しめるのか。
うちの松菊丸は、とびっきりのわんぱくだ。しかも運動神経が良く、体力お化けでもある。
好きな遊びは、竹馬にボール遊び、追いかけっこにチャンバラ。
体を動かす外遊びが大好きで、遊び方次第では、若い近習や小姓たちですらギブアップさせる。
まだちいさい熊ちゃんでは、大変じゃないかと思うのだけれど……。
「えっと、それにぼく、一度でいいから兄上をやってみたいなって思っていたんです」
「? 兄君を?」
「はい。夢を叶えてもらえた心地がするから、とっても嬉しくて……」
「ああ、そっか。熊ちゃん、末っ子って言ってたもんね」
確か熊ちゃんの兄弟は、上に年の離れたお兄さんがいるだけだっけ。
官兵衛様は側室や妾を持たれていないから、今後も熊ちゃんの弟妹ができる予定はないだろう。
だから、お兄ちゃんをやってみたかったんだね。可愛いなあ。
「じゃあお言葉に甘えちゃうけど、無理はしないでね?」
「はい!」
うーん、良いお返事。可愛いなあ、熊ちゃん。
可愛い男の子を地で行く見た目はもちろんのこと、とにかく素直なのが好ましい。
褒められたら喜び、叱られたらしょげるを地で行く子なのだ。あざとくないナチュラルな感じが、母性を刺激してくる。
また、男の子にありがちな生意気さや乱暴さも見られないので、城奥の女性陣の評判もかなり良い。
比較対象が、先日まで城奥にいた金吾様だから……余計にね……。
あの乱暴者、近江中納言秀次様のところへ移ってからは、どうしてるんだろう。
父様が零す断片的な愚痴から察するに、かなり手を焼かせているみたいだが。
熊ちゃんの爪の垢を煎じて飲ませたら、ちょっとはマシになったりしないものかな……。
「与祢姫?」
熊ちゃんが、不思議そうに呼んでくる。
いけない。またくだらない考え事をしてしまった。
「あ、なんでもないよ。おやつの前に、これで弟たちの手を洗わせてくれる?」
急いで脳内から金吾様を追い出し、熊ちゃんに使いきりサイズの自分用の石鹸を渡す。
彼は嬉しそうに石鹸を受け取ると、水入りの盥を持ってきた侍女のもとへ弟たちの手を引いて行った。
うん、良いお兄ちゃんっぷり。
熊ちゃんの可愛さに癒されると、廊下の端からお夏の姿が見えた。
控えめな手招きに気づいて、そっとその場を離れる。
「姫様、お呼び立てして申し訳ありません」
「いいよ、どうかした?」
「あの、今しがた淀のお城からこちらが届きまして」
そう言って、お夏が封書を差し出してくる。
淀のお城、という言葉に一瞬心臓が痛くなったけれど、宛名を見て息を吐く。
『よねひめさま』とひらがなで記された文字に、見覚えがあったから。
「杏からね」
「読まれますか?」
「もちろん、友達からの手紙だもの」
淀城から来た手紙でも、差出人が杏なら問題ない。
心配そうにするお夏から手紙を奪い取り、さっさと開く。
定型の時候の挨拶を飛ばして、本題の部分を読む。
「お夏」
読みながら、お夏に声をかける。
「一泊分の荷物をまとめて」
「え?」
「ちょっとお出かけに誘われたの」
読み終えた手紙を懐に入れて、戸惑うお夏に笑いかける。
「妙心寺へ祖母様の塔頭参りに行ってくるわ」
熊ちゃんが弟たちに自分を「義兄上」と呼ばせようとしていることを、与祢は知らない。
次回、与祢と杏ちゃんのお墓参り。
【黒田熊之助】
九州は豊前の大名・黒田家の次男。1582年生まれ。与祢の2歳年下。
お父さんは、秀吉や家康の恐れた男(それぞれ10ダースくらいいそう)の軍師☆クロカンこと、黒田官兵衛孝高。
キャラの濃い父と猛将の兄を見て育ったせいか、史実では参加を止められた唐入り(慶長の役)にこっそり参加しようと密航した船が沈んで溺死。なんてこった。
本作では、父に勧められて幸松様の小姓になり、現在聚楽第暮らし中。与祢が気になるらしい。
お父さんは、熊ちゃんにバチェ〇レッテのサクラとしての活躍に期待している。
お兄ちゃんは、お父さんの思惑を何も知らず、純粋に弟の初恋を応援している。
熊ちゃんの明日はどっちかわからないけど、史実通り出航しませんように。
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