まもりたいもの【大谷紀之介・天正17年4月下旬】
御化粧係の2巻が発売されました!3週間前にな!!
柔らかな色をした目が、見開かれている。
「わた、わたしの、せいじゃ……」
ふらつくように後退りながらも、与祢姫の目は俺から逸らされない。
恐れと、怯えと、拒絶と。
惨い色で塗りつぶされた瞳が、鏡のように俺を映している。
足取りはおぼつかなく、まろい頬には血の気が無い。
少しずつ、はっきりと。与祢姫の吐く息が、小刻みになっていく。
(落ち着かせてやらなければ)
そう思って手を伸ばしかけ、はたと気づく。
跳ね除けられた余韻が疼いて、指先が動かない。
足も、根が生えたように強張っている。
ほんの数歩さえ縮められず、ただ見つめ返すしかできない。
こんな時にどうして、何が起こっているのか。
焦る間に、与祢姫の目が俺から外れた。
瞳が頼りなく泳いで、凍る。
小さなかんばせが、ぐしゃりと歪んだ。
「うぁ、ぁ」
愛らしい唇から、魂切る悲鳴が迸る。
淡い萌黄の打掛の裾が、ひるがえった。
「与祢っ」
ようやく出た声が届くより早く、小さな踵が返される。
まろびながら、叫びながら。与祢姫が、座敷を飛び出した。
追わねばと思うのに、両の足が重い。伸ばした指先すら、駆け去る背に触れられない。
後ろ姿が、足音が、遠ざかっていく。
「そんな」
馬鹿な、とこぼれた声は、酷く小さかった。
与祢姫に、逃げられた。
起きたばかりの現実が、重くのしかかってくる。
いつだって手を伸ばせば、与祢姫はこの腕に飛び込んできてくれた。
何があっても、与祢姫は俺を受け入れてくれた。
(なのに……拒まれた……)
あの子を捕まえられなかった、役立たずの手を見下ろす。
いくら考えても、拒絶の理由がわからない。
悲しみとも、悔しさともつかない感情が、身の内側を掻きむしる。
だが、その痛みが、こわばっていた体を動かした。
一歩、二歩と、重い足を引きずって、座敷の外へ向かう。
与祢姫を、追わなければ。
強い思いが、痛みの中から突き上げてくる。
拒まれることは恐ろしい。けれども、与祢姫の側にいたい。
この手で涙を拭って、守ってやりたい。
あの子は、与祢姫は。
(俺の────)
「待ってっ」
あと少しで廊下、というところで袖を引かれた。
予期せぬ引き留めに、舌打ちをこらえて振り返る。
「少し……いいかしら……?」
緊張した面持ちの、浅井の姫がそこにいた。
いつの間に近づいてきたのだろう。淡い色彩の女は、小さく肩を震わせている。
不安なのか、恐れなのか。判然とはしないが、指先までも細かに震わせて、それでも俺の袖を掴んで離そうとしない。
「何用ですか」
早く与祢姫を追わねばならぬのに。
焦燥を抑えこみ、浅井の姫を見下ろす。
濡れてきらきらとした瞳が、俺を見上げてくる。
美しいと、思ってしまった。
この惨劇を引き起こした女の涙なのに、なぜだろう。
まろやかな頬を滑る雫は、どこまでも清らかで美しい。
未知の感慨に、つい、ほうけてしまう。
「あの……あのね……」
薄い桃色の唇が、蕾のように綻んだ。
「茶々の側に、いてほしいの」
投げかけられた言葉の意図が、わからなかった。
とっさに何も返せず、ただただ見つめ合うような形になってしまう。
浅井の姫は、細く息を飲み、濡れた頬を淡く染めながら俺を見つめている。
憐憫が、じわりと絡みつく。
雨に濡れた桜花を眺める時のようで、落ち着かない。
「少し……少しだけでいいの、お願いよ、茶々をぎゅってして……」
袖を離した繊手に、そっと手を取られる。
指を指に絡め、弱々しく握って。そうして美しい女は、切なげに俺を見上げた。
「きのすけさま」
名を呼ぶ声音は、どこまでも甘やかだった。
ふんわりとやわらかく耳に触れて、降り初めの淡雪のように溶けてゆく。
いまだ耳にこびりつく、あの妻の声のように。
────ぞわり、と。
怖気が、肌を伝った。
総身の毛穴が粟立って、じくじくと疼く。
不快極まりない感触が、俺の腕を動かした。
「あっ」
小さな悲鳴と、乾いた音が響く。
絡んでいた白い手が、大ぶりの花びらのように宙を舞う。
「軽々しく触れないでいただきたい」
嫌悪を込めて、言い放つ。
女は振り解かれた手を抱きしめ、唖然と俺を見つめた。
きょとんとした顔は、美しくもなんともない。
ただただ、厭わしいばかりだ。
「ご自身のお立場をわきまえられよ。貴女の振舞いは、不愉快だ」
自分にしてはずいぶんと冷淡な口調で告げる。
黒目がちな女の目が、ますます丸くなった。
何が悪いか、とんとわかっていないらしい。
世のことを知らぬ深窓の姫らしい、と言えば、そうかもしれない。
きっと、この女に庇護欲をそそられる男は、この世にごまんといるだろう。
だが俺には、嫌悪以外の何も感じられなかった。
女の肩越しに、赤毛の少女を見やる。
与祢姫の朋輩であるこの娘は確か、源五侍従様の養女でもあったはずだ。
ならば、ふしだらな身内を抑えるくらいはしてほしい。
そういう意を込めて睨むと、我に返った少女は慌てたように女へ取り付いた。
「失礼いたす」
それを見届けて、踵を返す。
これ以上女と同じ場にいたくないし、一刻も早く与祢姫を追いかけたいのだ。
苛立ちで畳を強く踏みつけて、焦りで歩調を早くする。
追い縋ってくる耳障りな声を無視して、今度こそ俺は座敷を出た。
◇◇◇◇◇◇
嗚咽が、微かに聴こえていた。
それを頼りに庭へ下り、植え込みの梔子を掻き分ける。
枝が揺れて、咲き染めの花が甘く匂い立つ。
深い青葉と白い花のその下に、俺はようやく探し求めていた子を見つけた。
「与祢姫」
意を決して、呼びかける。
びくりと細い肩が跳ねた。
「うそ……どうして……」
振り向いた与祢姫が、声を震わせる。
驚きと怯えがないまぜになった眼差しが、胸の痛む場所へ突き刺さる。
拳を握りしめてそれに耐え、俺は彼女の側に膝を突いた。
「奥に戻っていないなら、きっとここだと思ったんだよ」
奥と中奥を繋ぐ御錠口の番の者は、与祢姫の姿を見ていなかった。
表には出られぬはずだから、与祢姫は中奥から出ていないことになる。
ならば、幼い足で行ける場所など知れたもの。
まっすぐにいつもの庭へ来て、正解だった。
「見つけられてよかった」
肺腑に溜まっていた息を、深く吐く。
庭にいなかったらどうしようと、内心怖かったのだ。
城中とはいえ、幼い姫の一人歩きには不安がつきまとう。
人目に付かぬよう隠れていてくれて、本当によかった。
「こちらにおいで、奥まで送ろう」
あたりの空気は湿りを帯びていて、空もどんよりと薄暗い。
雨の気配が、すぐそこまで近づいている。
早く中に戻らねば、お互い濡れ鼠になってしまうだろう。
「っ、だめっ」
与祢姫が叫んで、俺の手をはねのけた。
拒絶に竦みかけた体を、今度は強く叱咤して動かす。
這って逃れようとする与祢姫を捕まえて、手繰り寄せた。
ほっそりとした少女の体が身悶える。必死の抵抗を無視していると、逃れられぬとわかったらしい。
与祢姫は、とうとうわっと泣き出した。
「離して! 触らないで、お願いだからっ!」
「嫌だ」
「私も嫌なのっ」
「どうして?」
俺の問いかけに、抵抗が止む。
腕の中で、与祢姫が呟いた。
「……誰かに、見られたら」
「誰にも見られないよ」
俺たちの姿も、匂いも、すべて梔子に隠されている。
絶対に、誰にも見つからない。
「絶対なんて、無いわ」
言いきる与祢姫の瞳は、涙で溺れていた。
すぐにわかった。悲劇の引き鉄を引いたのは自分だと、この子は思い込んでいる。
あの女のせいで、不要な罪悪感に囚われてしまっているのだ。
「大丈夫だ」
怒りを誤魔化すように、乱れた髪を撫でてやる。
「殿下がお咎めにならないことだ。誰にも咎められないさ」
「でも、殿下の気が変わってしまったら?」
「それは」
あり得ない、と言いかけて、咄嗟に飲み込む。
殿下が与祢姫に俺への恋を許す理由は、俺が一番よく知っている。
もっとも羽柴に益のある男が見つかるまで、間違いを起こさせないためだ。
だが俺は、この子にそれを教えたくはない。
打算に満ちた大人の思惑など、明かしたところで怖がらせるだけだ。
気づかせずにおくのが、一番良い。
「私、は」
否定も肯定もできないでいる俺を、与祢姫は見上げた。
愛らしい泣き顔が、くしゃりと歪む。
「また……勘違いをされたら……」
しゃくりあげながら、与祢姫は泣く。
「私のせいで……また、誰かが……紀之介様が、酷い目に遭ったら……っ」
ほっそりとした腕は、いつものように俺に縋ってくれない。
まるで自らを罰するように、自身をきつく戒めている。
「怖い」
か細い声が、雨粒とともに落ちてくる。
「……与祢姫」
泣きじゃくるさまが酷く哀れで、それを上回るほどに愛しい。
たまらなくなって、さらに幼い体を掻き抱く。
抱きしめ返されることはないが、抗われることもなかった。
葉を打つ雨音が、少しずつ大きくなっていく。
「君は、悪くない」
うっすらと赤い耳の縁へ唇を寄せて、言い聞かせる。
悪いのは、俺を含むあの場にいた大人だ。
この子に見せるべきでないものを見せて、聞かせるべきでないものを聞かせた。
誰も彼もがこの子を気にかけず、自らを優先したあげくに泣かせているのだ。
「守ってあげられなくて、すまなかった」
罪は、与祢姫に無い。
不甲斐ない俺たち大人にこそある。
それだけはわかってほしくて、心の底から詫びる。
肩のあたりが、じわりと温かく濡れていく。
ぬれぼそる髪を梳いてやりながら、きつく目を閉じる。
「本当に、すまなかった」
雨が、ひときわ強くなる。
濡れた梔子の香が、たち込めていた。
茶々、すごいね。
大谷さんに嫌われるって快挙だよ。
御化粧係の2巻が2/10に発売しました。
今回は6万字のエピソードを書き下ろしてます。
Web版未登場の秀吉夫妻最愛の養女・豪姫と、じめさあこと島津のお姫様・亀寿姫がメイン。
若いお姫様いっぱいの可愛いお話になっております!
たくさんの方に手に取っていただけると泣いて喜びます。
2巻に4巻以降の続刊がかかっているので!マジで!!
せめて……せめて、大谷さんが復活するとこまでは書籍で出したい……!
よろしくお願いします(´;ω;`)
また、コミカライズについて活動報告にてお知らせしております。
めっちゃすごいことになってるので、気になる方はぜひご覧ください!
執筆の励みになりますので、感想やブクマ、評価をいただけると嬉しいです!






