たいせつなもの(3)【天正17年4月下旬】
天下のブラック大企業HASHIBA。
赤、アカ、あか。
赤い飛沫を舞わせて、古満殿の体が傾く。
細い指先で宙を掻いて、まるで底の無い谷へと堕ちるかように。
後ろへ──香様の腕の中へと、倒れていく。
「こ、ま?」
細く震える呼びかけに、明るく澄んだ声は返らない。
愛らしい鴇色の唇は、鮮やかな血を静かに零すばかり。
誰の目にも、明らかだった。
「古満っ、こま、こ……まぁ、ぁぁ、ぁあああああああああああああ!」
色を失くした香様の口から、悲鳴が迸る。
魂を引きちぎられて、すり潰されていく。
そんな錯覚すら覚える叫びが、瞬く間に座敷を覆った。
「佐吉ィッッ」
悲鳴を振りほどくような声が轟く。
紀之介様を抑えていた石田様が、はっと顔を上げた。
「基常を捕らえて詮議しろ」
「如何なる罪状にて」
「密通だ」
秀吉様は、そう短く答えた。
古満殿に縋って泣き叫ぶ香様を見下し、掴みかかって詰る寧々様を突き飛ばして。
どこまでも淡々とした調子で、秀吉様は続ける。
「なんぞ香とやっておるであろう、吐かせろ。手段は問わん、殺す以外は何でもせい」
「……は」
「不服か?」
澱む返事に、低い問いがかかる。
不気味なほど静かなそれに、石田様は眼差しで縋る。
けれど、秀吉様は一瞥も返さなかった。
そっけなく、佐吉、と呼んだだけだった。
「お前は虎と違うよな」
「……はい」
「ならば、できるな?」
熱のない、有無を言わせない声音がのしかかる。
その重みに、とうとう石田様はこうべを垂れた。
深く、深く。重石を付けられて、水底へ沈んでいくように。
「御前、失礼いたします」
型通りの礼を取り、石田様は下がっていく。
いつも通りの、定規を当てたみたいに端正な所作だ。なのに、どこか精彩を欠いて見える。
きっと、去年の夏と同じ気持ちで、秀吉様の言葉に従っているんだろう。
手に取るようにわかる石田様の心情を思うと、やりきれない気持ちになってくる。
「お前は、待て」
石田様を追おうとする紀之介様を、秀吉様が呼び止めた。
「如何なさいましたか」
「お与祢が怯えとる、側にいてやれ」
思わずと言ったふうに、紀之介様が杏に抱えられた私を見る。
無表情に近かったお顔から、瞬く間に苛立ちが抜けた。
代わりにためらいを浮かべた目に映る私は、ずいぶんと酷い有様みたいだ。
目を逸らして杏の腕に顔を伏せる。
ちっとも取り繕えていない自分が、なんだかとても不甲斐ない。
「紀之介、早う」
そんな私を見て取ってか、秀吉様が焦れたようにせっつく。
「泣いてしもうたではないか、早う慰めてやれ」
「それは」
「できんのか? お与祢を憐れと思わんのか?」
「っ、いいえ! そのようなことは」
しかしながら、と紀之介様は苦しげに続ける。
「俺は奉行です。佐吉殿も、気にかかります」
私情よりも優先すべきものがある。言葉に滲む思いは、私にもよくわかるものだった。
どんな仕事でも、仕事は仕事だ。これから表で起きることを思えば、なおのこと。
奉行の紀之介様は、仕事より私を優先できる立場ではない。
いくら私に後ろ髪を引かれても、振り切ってやるべきことがある。
だが、その答えに、途端秀吉様は不機嫌な顔になった。
「紀之介、お前、佐吉とお与祢どちらが大事だ」
突きつけられた選択肢に、紀之介様が絶句する。
「わしはなんとお前に命じた。忘れたか?」
「いいえ……片時も」
「ならば、すべきこともわかっとるな?」
引きずるように、紀之介様が踵を返した。
重い足取りで私のもとに辿り着くと、何も言わず杏を見つめる。
「与祢をお頼み申し上げて、よろしいですか」
杏の問いかけに、紀之介様は黙ったまま頷く。
そうして、私を受け取って腕の中に閉じ込めた。
いつもと同じ力強い腕なのに、いつもと違ってぎこちなさがある。
それに包まれた瞬間、私は申し訳なさと同時に、嬉しさを感じてしまった。
抱きしめてくれる腕の温かさに、泣きたくなるくらい安心する。
でも、このまま紀之介様に無理と後悔をさせたくもない。
今すぐ気丈に笑ってみせて、紀之介様を表へ送り出なさければ。
わかっている。わかっているのに、どうしてだろう。
「ごめんなさい……」
手が、緩んでくれない。
私が零した小さな謝罪に、抱擁の強さが増す。
紀之介様も、私と同じなのかもしれない。
すべてを閉じ込めるように抱きしめあうほか、何もできない。
「誰かある」
そんな私たちを横目にして、おこや様が声を上げた。
よく通る声に、すぐさま小姓や侍女が姿を現す。
控えの間にいても、物音で察してはいたのだろう。
彼らは皆それぞれ、青ざめた面持ちを浮かべている。
それに気づかないふりをして、おこや様は指示を出し始めた。
「この骸を片付けてちょうだい。それから、汚れた畳の張り替えと臭い消しもね。すぐ支度をして、取り掛かるように」
「しょ、承知いたしました」
「早くなさいね、殿下の御前ですよ」
殿下の御前という言葉に、小姓や侍女の動きからぎこちなさが抜ける。
彼らは慌てたように古満殿の遺体から香様を引き剥がすと、すぐ戸板に乗せて運び出してしまった。
同時に残った侍女が、畳の上の血痕へ黒い布を掛ける。
どこからか持ち込まれた抹香も撒かれ、血の臭いが少し薄くなった。
古満殿の死が覆い隠されたのを見届けて、ようやくおこや様は腰を上げた。
「日根の御方様も、こちらへ」
残された香様の横に跪き、やんわりと腕を取った。
「あ……」
「わたくしがお屋敷までお送りいたします」
拒否は許さないというように、おこや様は言葉を重ねる。
香様は、糸が切れたかのように項垂れた。
布から覗く赤を見つめる横顔に、もう表情はない。
そんな香様を、おこや様は抱えるようにして立たせた。
「それを屋敷に放り込んだら、門を閉ざせ」
少し満足そうに私と紀之介様を眺めていた秀吉様の眼が、ぎょろりと去り際のおこや様たちへ移った。
「見張りの者も立てろ、ええな」
門を閉ざして、見張りを立てる。
それすなわち、香様を罪人として扱えという命令だ。
足を止めたおこや様の面持ちが、僅かに強張る。
「心得ました。屋敷の者ごと、お籠もりいただきます」
「他の者は構わん」
「え?」
「香のみ残して、あとは城から叩き出せ」
「何をおっしゃいますの!?」
呆然としていた寧々様が、我に返って悲鳴をこぼす。
けれどもやっぱり、秀吉様は振り向かない。
寧々様は泣き出しそうな顔でその背を見上げ、猛然と掴み掛かった。
「身重なのですよ、お香はっ」
「それがどうした」
「召し使う者を取り上げたら、死んでしまいますっ。この子の腹にいるお前様の御子も、どうなっても良いとおっしゃるの!?」
「知らん! まことにわしの種か疑わしい子なぞ要らぬわ!」
「っ、貴方はどこまで──」
「うるさい! こや、わかったな!?」
大声で呼ばれたおこや様の肩が、びくりと跳ねた。
いくらなんでも酷すぎる命に、戸惑っているのだろう。
視線を彷徨わせて、何度も唾を飲み込んでいる。
迷う目が私──ではなくて、私を抱きしめる紀之介様へと向けられた。
でも、それは一瞬のこと。東様とよく似たその目は、きつく閉じられてしまう。
「殿下の、お指図のとおりに」
ややあって、掠れた声がいらえを返した。
強い雨に晒されたような一礼をして、おこや様は踵を返す。
魂の抜けたような香様を引きずって、暗い顔を俯かせたまま。
どこまでも静かに、座敷から下がっていった。
寂しげな衣擦れが消えた途端、冷えた静けさが落ちてくる。
秀吉様がゆっくり、ぐるりと残った人間を見渡した。
「……竜子と幸松を見てくる」
抜き身のままだった太刀を収めつつ、秀吉様が言う。
誰も、何も言えない。ひたすらに、秀吉様を見つめるばかりだ。
苛立たしげに鼻を鳴らすと、秀吉様は身を翻した。
宣言通り、竜子様の御殿へ行くのだろう。強く畳を踏みつけ、荒々しい足音を立てていってしまう。
数秒遅れて、寧々様が立ち上がった。その顔色はすでに白に近く、今にも倒れそうな気配すら漂っている。
「寧々様っ」
「大事ないわ」
思わず呼び止めた私に、寧々様は微笑んでくれた。
今にも壊れそうな微笑に、息がつまる。
「お与祢は、少し休んでいなさい」
「なら、寧々様も」
「あたくしは大丈夫……いい子だから、紀之介といなさいな」
諭すような命令は優しくて、けれども有無を言わせてくれない。
黙り込んだ紀之介様と私にもう一度微笑みかけると、寧々様は今度こそ足早に出て行ってしまった。
間を置かず秀吉様を呼ぶ声がして、すぐに遠くなっていく。
寧々様の声が完全に聞こえなくなってから、杏が息を吐いた。
途方に暮れたような長い長いそれの後、茶々姫様の側へ大股で近づく。
それから力無く座り込む彼女に、意を決したように声をかけた。
「茶々様、参りましょう」
「杏……っ」
青ざめた茶々姫様の顔が上がる。
見慣れた顔に、堪えきれなくなったらしい。
細い手を震わせ、ぎゅっと杏に縋いた。
「殿下は酷いわ、あんなの酷い……香がかわいそう……」
「……ええ、そうですね」
抱えるように細い肩を支えて、杏が頷く。
その苦い物を咥えたような表情に気づかず、茶々姫様は泣き出した。
「やめてって茶々がお願いしたのに、ああも香を責めるだなんて酷いわ」
「はい……」
「違うって香は言っていたのに。古満だって、香をいじめないでって言っただけなのにっ、どうして……っ」
ほんのりと赤らむ頬を、大粒の瞳から溢れた涙が濡らす。
「どうして、あんな心無いことをなさるのかしら!」
血を吐くように叫んだ茶々姫様の横顔は、心からの悲しみに暮れていた。
何も知らない人が見れば、きっと憐れみで胸を締め付けられるだろう。
たまらなくなって、茶々姫様の元に駆け寄って慰める人だっているに違いない。
なのに。
「……あなたの、せいじゃない」
「与祢姫?」
勝手に、口が動いていた。
紀之介様の声をどこか遠くに聞きながら、私は嫌悪を声にする。
「あなたがおかしなことを言ったせいじゃない」
杏の腕の中から、茶々姫様が振り向いた。
涙でいっぱいの眼差しに、堪えていたものが吹き出す。
「泣くくらいなら、殿下に取りなして来れば!? 香様は無実だって訴えて来なさいよ!!」
何が、かわいそう、だ。
茶々姫様が変な話をしなければ、秀吉様が香様の不貞を疑うことはなかった。
加藤様も斬られなかったし、古満殿だって殺されなかった。
丸く収まるはずだったのに、茶々姫様がダメにした。
全部、全部。全部!
「全部あなたが悪いのよ!」
弾けた怒りが口から飛び出す。
喉が焼けそうなほど痛い。息が乱れて、立っているのもやっとだ。
それでも渾身の力で紀之介様の腕を振り切って、震える体を動かした。
杏を押しのけ、ほとんど倒れ込むように、茶々姫様に体をぶつける。
小さな悲鳴を無視して、淡い桜色の襟を掴んだ。
「自分のせいで香様が酷い目に遭っているんじゃない! わかってるの!?」
「ご……ごめんなさい……っ」
「謝るなら殿下の誤解を解いてあげて! あなたにならできるでしょ!?」
「そんな……む、無理よ。寧々様のお言葉さえも届かないのに、茶々の言うことなんて……」
「やってみなきゃわからないじゃないっ」
掴んだ襟を揺さぶった拍子に、茶々姫様の瞳から零れた雫が散る。
私の頬に当たったそれは、ほのかな温もりを持っていた。
優しい温度が、無性に腹立たしい。
こんなの、茶々姫様が流していい涙ではない。
「どうして、あんなこと言ったの……」
ほろほろと泣く茶々姫様に、問いかける。
「私の髪飾りのことを持ち出すなんて……殿下を……っ、止められもしないのに、どうして……っ」
髪飾りの話が、決定打だった。あの発言で、香様と兄君の関係を秀吉様が誤解した。
私は紀之介様を愛していて、紀之介様も私を想ってくれている。
特別な仲の証しである髪飾りと、香様の笛が同列に語られた。
だから、香様と兄君も恋情が絡む仲であるというミスリードが起きたのだ。
あれさえなければ、秀吉様は正気を失わなかった。
香様が窮地に陥ることは、なかったはずなのだ。
「言ってはいけないことだったの……?」
茶々姫様が呟いた。
知らぬ間に俯いていた顔を上げる。
あどけない表情で茶々姫様が、私を見下ろしていた。
「何を、言ってるの?」
「だって、誰も髪飾りに触れる与祢を咎めないわ」
問い返す私に、茶々姫様はそう答える。
「みんな、どなたかを想う与祢を見ていたわ。とっても好ましげに、まばゆいもののように、見守っていたのよ」
「は……?」
「殿下も、寧々さまも、みんなみんな、そうだもの」
桜の唇が、だから、という言葉を形作る。
「赦されぬことだなんて、思わなかったの」
ああ、でも! と、茶々姫様が顔を手で覆った。
「茶々、間違えてしまったのね! 茶々が、悪いことだと気付かなかったばかりに!」
ごめんなさい、と繰り返す声は、頼りなく震えている。
溢れる涙をそのままに謝り続ける姿は、とてもかわいそうに見えた。
「夢にも思わなかったの、殿下があれほどお怒りになるなんて。みんなが与祢を咎めなかったから、ちっとも気づかなかったの」
しゃくりあげながら、茶々姫様は後悔を紡ぐ。
「まさか……与祢には赦されることが、香には赦されないなんて」
同じ奥の女なのに。
茶々姫様の襟を掴んでいた手が、自然と離れた。
一歩、二歩。よろめくようにして、距離を取る。
支えを失った茶々姫様は、その場に崩れ落ちて泣いていた。
香様への謝罪を口にして、薄紅の袖を大粒の涙で濡らしている。
そのさまは、汚れを知らぬ天女のように美しくて。
ただただ、美しくて────悍ましかった。
凍てついた恐怖が、背筋を駆け降りていく。
怖い。恐ろしい。気持ち悪い。
あらゆる嫌な感情が、私の内側でぐるぐると渦巻く。
「ぁ……っ」
後ずさる私の背に、温かいものがぶつかった。
「与祢姫、我々も行こうか」
いつのまにか、私の真後ろに紀之介様がいた。
険しい面持ちでこちらを見下ろしている。
「紀之介、さま……」
つい零した呼びかけに、返事はない。
紀之介様はただ、痛ましげに眉を顰めて私の頬に手を添えた。
薄布越しの体温が、優しく頬に触れる。
そうして手は滑るように頬から離れ、肩へと降りてきた。
「だめっ!」
肩を抱かれる。その寸前に、私の口から悲鳴が迸った。
止まった手を振り払い、転びそうになりつつ逃れる。
手が届かない位置まで離れて振り向くと、紀之介様は唖然として私を見ていた。
その表情に胸が軋む。あんな顔、させたくはなかった。
でも同時に、紀之介様に触れられることが怖い。
私はずっと紀之介様の優しさに甘えて、その手に身をゆだねてきた。
目の前の幸せに夢中になるあまり、周囲の目に気が回らなかった。
だから────この、致命的な誤解に繋がったの?
「あ、わ、わた、わたしの、せいじゃ……」
紀之介様の視線から逃れた先に、茶々姫様がいた。
揺れる水面のような瞳と、目が合う。
涙でしっとりと濡れた睫毛が、ゆっくりと瞬いていた。
見られている。茶々姫様に。
そう思ったら、もう、限界だった。
「うぁ、ぁぁぁ、ぁぁああああああああっっっ!」
暗い罪悪感が、押し寄せる。
潰れかけの心を抱えて、私は座敷から飛び出した。
この物語はハッピーエンドになります。
ほんとだよ。ほんとにほんとにほんとだよ。
あと2話くらいで地獄の香様編が終わります。
執筆の励みになりますので、感想やブクマ、評価をいただけると嬉しいです!
 






