城奥の幽霊(6)【天正17年4月下旬】
それは今月の初め。
私が緊急里帰りをしている間の出来事だったという。
秀吉様に誘われて、香様と茶々姫様は歌舞伎を鑑賞した。
歌舞伎、と言っても、令和に存在した伝統芸能と同じものではない。
出雲大社の巫女を名乗る阿国という女性が主催する、女性オンリーの華やかなミュージカルだ。
きらめくようなジェンヌたちが華麗に演じる某歌劇に近いそれは、数年前から京阪で熱狂的な人気を博している。
会場がある四条の河原は、毎回大型ライブフェスのような大盛況らしい。
ファン層は庶民中心だが、近頃は流行に敏感な大名や公家にも好む人が増えている。
その筆頭格が秀吉様。
天下人になられてすぐの頃から、女歌舞伎のパトロン代表をやっていらっしゃる。
派手なもの大好き、女の人も大好物だからね。当たり前だよね。
まあ、そういった縁があるから、女歌舞伎は時々聚楽第でも上演されている。
今回の公演では、新作の演目が披露されたようだ。
ハイライトは、主演の阿国さんによるソロの舞。
BGMに使われた笛の音が印象的で、気に入った茶々姫様は大はしゃぎしていたらしい。
城奥に帰ってからも興奮が冷めなくて、自分も久々に笛を吹きたいと言い出したそうだ。
「あたしも、笛には少し覚えがあるのです。だから、その」
「笛合わせでもしようか、となったのですね?」
香様が少し尖ったおとがいを引く。
「阿国から、譜を譲ってもらって。茶々様と、一緒に吹いて。楽しかったのですけれど……」
異変があったのは、笛合わせの日の夜だったという。
香様は就寝前に笛の手入れをしようと思い、笛を収めた箱を開けた。
しかし箱の中の笛袋を解いてみると、出てきたのは見慣れぬ笛筒。
取り違えだ、とすぐに気づいたそうだ。
香様は笛合わせの後、少し疲れて茶々姫さまと一緒にうたた寝をしたらしい。
笛の後片付けは、寝ている間に女房たちが済ませてくれていた。
おそらくその際に、取り違えられてしまったのだろう。
困ったことだと思ったが、香様はこの時は特に焦らなかった。
笛筒が茶々姫様のもとにあると、思っていたからだ。
大切な物は大切な物だが、親しい友人の手元にある。ならば、慌てて探す必要はない。
明くる日に、取り違えたと伝えて交換すれば良いだけだ。
「朝を待って、茶々様の屋敷に行きました。でも、茶々様の元に笛筒はなくて」
「なかった? なくされたのですか?」
「茶々様の笛は、殿下からお借りした物だった、そうです」
茶々姫様は、昨日のうちに秀吉様へ笛を返してしまっていた。
秀吉様付きの女房に渡したので、どこに笛一式が仕舞われたかはわからないという。
しかも間の悪いことに、この日の朝に秀吉様は政務の都合で大坂城へと移動していた。
取り違えをお伝えして、保管場所を教えてもらおうにもできない。
香様は八方塞がりな状況になってしまったそうだ。
「誰ぞに打ち明けなかったのですか?」
紀之介様が、疑問を口にする。
それ、私も気になった。すぐに自分の女房か誰かに相談したらよかったんじゃないかな。
人を巻き込めば大騒ぎになるけれど、探し物が見つかる確率は上がるもの。
一人であてもなく闇雲に探しまわるより、ずっと良い。
「できません、でした」
訝しむ私たちに、香様はゆるく頭を横に振った。
「しようとは思ったのです。でも、できなかった」
「何故ですか」
「それは……その、茶々様を謗ったことになるかもしれない、と、思ったのです」
硬さを増した面持ちで、香様が声を絞り出す。
白くなるほど両手を握りしめて、苦しげに言葉を繋げた。
「歌橋たちは、茶々様を好いてはいません。このことを言えば、声を大きくして騒ぎ立てる」
ああー……確かに……。
否定はできない。というか、あの人たちなら絶対やるな。
香様の乳母役である歌橋殿をはじめとした公家出の方々は、茶々姫様にあまり好意的ではない。
ぶっちゃけなくとも、すごく嫌っている。
茶々姫様の香様へ対する失礼寸前な距離感と、最初の印象が最悪だったせいだ。
取り繕ってはいるが、きっかけがあれば正面切って殴りに行くだろう。
「きっと笛筒のことを知れば、皆は北政所様や指月様へ大げさに訴えます。茶々様が故意に隠したと、讒言するかもしれない。そうしたら、殿下が……」
「殿下がご不快になるのではと、ご案じなされたのですね」
「はい……っ」
香様の目の端に、じんわりと涙が滲んだ。
ランプの青い光に照らされた頬には、はっきりと恐れや不安が浮かんでいる。
さいっっっあくだ。心なしか痛んできたこめかみを指で揉む。
茶々姫様、マジでトラブルしか起こさないな。
そういえばこの間、香様へのプレゼントだって笛筒を持ってたっけ。
あれって、無くした笛筒の代わりを用意しただけだったり?
これで許してねって香様に言っちゃったのか、もしかして。
だとしたら、あの時の香様の青い顔の理由がよくわかるわ……。
しかも、茶々姫様の方の笛は秀吉様の物なわけでしょ?
なんて面倒を起こしてくれたんだ、マジでさぁ!
「そやから、御方様はなんもお悪うあらしゃりませぬっ」
沈黙してしまった私たちに、不安を覚えたのだろうか。
古満殿が咳き込むようにして訴えてきた。
「御気色が優れないのに気づいて、わたしが無理にうかごうたんです。ならば夜にこっそり探しましょて申し上げたんも、わたしでおざりますっ」
「古満殿……」
「そやからっ、そやから、お咎めはすべてわたしが受けますからっ」
言いながら、古満殿が膝でにじり寄ってきた。
私の爪先の前で体を折り曲げ、額が付くほど頭を下げる。
「このとおりです……御方様に、酷いことせんといてください……っ」
引きつれた涙声で、古満殿が許しを乞う。
それを見た香様も、とうとう泣き出してしまった。
二人分の啜り泣きが、痛々しく響く。
「どういたしましょう?」
すばやく両隣の袖を引っ張る。
紀之介様と加藤様が、ますます眉間の皺を深くした。
彼らも盛大に困っているようだ。
城奥の女の戦いの臭いがぷんぷんしているもんね。
下手に巻き込まれたら、思わぬとばっちりを受けかねない。
勝手に城奥内で解決してくれ! 巻き込むな! と思うのもしかたない。
でも、この件は私に捌き切れるレベルを超えてるんだよね。
茶々姫様に単独で関わるのは、ちょっと避けたいところだ。
どうしても関わるなら、大勢で関わってリスク分散がしたい。
私のために巻き込まれてよ、二人とも。
ねえ。ねえったら、ねえ。
「夜が明け次第、包み隠さず殿下に申し上げよう」
掴んだ袖をぶんぶん振りまくることしばらく。
紀之介様が、ため息混じりに言った。
「殿下へ隠しごとはできないよ。あの方は、嘘を見抜くのが得意だから」
「ほ、他の手立ては、おざりませんか」
「無い」
紀之介様は、古満殿の問いをすっぱりと切り捨てた。
「下手に隠し立てすれば、かえって殿下があらぬ疑いをお持ちになりかねない」
「不実な振る舞いを殊に厭われますからねえ……」
そんな顔して食い下がってもダメだからね、古満殿。
秀吉様はミスそのものより、報連相を怠る人が大っ嫌いなのだ。
以前に中奥の侍女がお皿を割って隠していたのがバレて、秀吉様から直々にお仕置きを受けたのを見たことがある。
だが、大きなミスでもすぐに謝罪をすれば、わりと温情判決が出やすい。
もちろん程度にもよるけれど、正直者は認めてくださるのだ。
そんな内容を紀之介様の提案を補足するかたちで言い添える。
だが、まだ古満殿は不安を拭いきれないようだ。
私と紀之介様を怯えまじりに見比べている。
「まことに、まことでおざりますか?」
「たぶん大丈夫ですよ」
「たぶんて、内侍様」
「勝算はありますから」
今回の香様は、ある意味で茶々姫様の被害者だ。
情状酌量の余地がたっぷりある。秀吉様だって、そこまで激しくは怒らないはずだ。
悪くても、多少のお叱りをもらっておしまいになるだろう。
ついでに好き放題な茶々姫様に、大きい雷を落としてくれたら最高だね。
まあ、そこは運が良ければって感じだけれど。
「その前に、寧々様にお縋りしておこうか」
「あ、名案ですね」
紀之介様の提案に、思わず手を打つ。
寧々様に事前相談するのは大ありだ。
良い感じにフォローしてもらえたら、秀吉様が怒る可能性がぐっと下がりそう。
「あ、あのっ」
小袖の裾が軽く引かれる。
視線を下ろすと、いつのまにか香様が足元まで来ていらした。
「日根の方様?」
「このようなことを北政所様のお耳に入れても、まことに大事ない、ですか」
不安に染まった声を紡いで、香様は私を見上げる。
「ご、ご不興を招くことになったりは、しませんか。殿下も、先に北政所様へ申し上げたら、ご不快になられたりは」
「それは無いと思いますが」
「万が一にも、ですか?」
万が一にも、と言われたら素直に頷けないかなあ。
寧々様だって人間だ。自分のテリトリーの平穏を破られたら、きっと良い気分はしないだろう。
嫌な気持ちになって、苛立つかもしれない。塩対応をなさる可能性だってある。
場合によっては、香様へペナルティを下されても不思議じゃない。
秀吉様へ必要以上に悪く報告なさることは、ないだろうけれども……。
絶対に大丈夫、という保証はできない。
上手く返事ができないでいると、香様のお顔がくしゃりと歪んだ。
白い寝間小袖に包まれた腕が、古満殿を引き寄せる。
膨らんだお腹と一緒に守ろうとするように、不安を圧し潰そうとするように。
香様は自分の体ごと、大事なものを抱え込んで俯いた。
「寧々様は公平なお方だ」
静けさを踏み破るような、低い声が放たれる。
ずっと黙っていた加藤様が、香様を見下ろして口を開いていた。
怯まれても容赦せず、まっすぐに目を向けている。
「むやみに誰ぞへ肩入れをなさる方ではない。人並み以上の慈悲もお持ちだ」
「ですが、も、もし茶々様の……」
「浅井の姫だかなんだかの言を入れて、聞く耳を持ってもらえなかったらってか」
「は、はい」
怯えきった香様が、細く答えた。
加藤様の口元が不機嫌に曲がる。
だが、今回はそれだけ。わかった、と呟いて、鼻をひとつ鳴らした。
「じゃあ、そうなればオレがあんたを庇う」
「え?」
「こたびはあんたばかりが悪いわけじゃない。殿下がすべての責めをあんたに負わせようとしたら、道理に合わないと諫言してやる」
任せろと言うように、加藤様がどんと分厚い胸を叩く。
突然の申し出に、香様は涙を忘れたように目を丸くした。
そんな彼女の前に、加藤様が勢いよく膝を突く。
「あんたはただ、正直に申し開きしろ。顔を上げろ、胸を張れ」
線が太くて鋭い強面が、香様の鼻先に突き出された。
まんまるな目をまっすぐに見て、加藤様は噛んで含めるように続ける。
「そうすれば、あんたが人を謗ったなどと誰も思わない」
大きくないのにはっきりとした声が、強く言いきる。
香様のお顔が、くしゃりと歪んだ。
静かに嗚咽を漏らしながら、香様は頷く。
わかったと懸命に伝えようとするように、何度も、しっかりと。
空気が少し、緩んだ気がした。
「紀之介様……」
「なんだい」
「あの、このまま加藤様にお任せしてよろしいのですか」
屈んでくれた紀之介様に、背伸びをして耳打ちをする。
良い感じにまとまった流れになっているが、これでいいのだろうか。
秀吉様がブチ切れたら、加藤様で止めきれるの?
いくら二十万近い大名で、秀吉様のお気に入りの一人も、勘気に触れたら消し飛ぶよ?
正義感だけで突っ走るのは危ないんじゃないかなあ。
「虎は虎だから心配ないよ」
「真面目におっしゃってます?」
「大真面目さ」
可笑しげな色を帯びた目が、私から加藤様たちの方へ移った。
奥歯に納得が挟まったような気分で、私もそれに倣う。
加藤様は香様の背中をばしばし叩いて、古満殿に悲鳴を上げさせていた。
しかし不思議なことに、叩かれた香様は不器用にでも笑おうとしている。
その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃなのに、なんだか明るい。
さきほどまでの後ろ向きさが、見てわかるほど吹き飛んでいた。
「ね?」
隣の紀之介様が、頬のあたりに笑みを漂わせている。
素直に首が縦に動いてしまう。
納得してしまった。納得できてしまった。
加藤様が請け負うと言うならば、どうにかなる。
不可能と思えることだって、なんだって、加藤様ならなんとかしてくれる。
明確な根拠はないのに、そんな気持ちが自然と湧いてくるのだ。
リーダーとしてこれ以上ないほどの適性をお持ちとは、さすがというべきか。
気性が荒くて気難しくても、真っ直ぐ進んでぶち破るタイプでも、七本槍トップの出世頭は格が違う。
頼り甲斐がすごい。カンストしてる。
「じゃあ、そろそろ虎を止めようか」
「はいっ」
紀之介様とこっそり笑い合う。
上手く収まったし、あとは早く撤収して寧々様の御殿に戻らなきゃね。
すぐに事の次第を寧々様に報告して、秀吉様へもお伝えしなきゃならない。
香様の笛筒もちゃんと探して、できたら茶々姫様も絞ってもらいたいな。
やることがたくさんあるけれど、嫌な気分はあまりしない。
きっと誰にとっても、良い朝を迎えられる。
そう思えるから、夜明けは怖くなかった。
茶々が悪いのよ、茶々が。次回で香様の手元に笛が返ってきますように。
今回は加藤さんの謎カリスマを表現したかった。
子飼い組は4人揃うとすごい安定するように描写しております。
福島さん→総大将向き
加藤さん→前線指揮官向き
石田ァ!→後方支援向き
大谷さん→調略謀略向き
こんな感じ。ちなみに1人欠けると崩壊する。
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