二人のお腹様(1)【天正17年3月中旬】
「茶々姫様がご不在?」
「申し訳ございませぬ!」
畳をひっくり返す勢いで女房も侍女も女中も大騒ぎしている、茶々姫様の屋敷。
その玄関でぽかんとする私に、出迎えてくれた蕗殿が勢いよく土下座した。
えっ、ちょっ!? すごい音したな!?
「せっかく粧姫様方がお越しくだされたのに、この有様。
大変、大変申し訳ございませぬっっ!!!」
「ふ、蕗殿、頭をお上げくださいまし」
「どうか平にご容赦を!
我が姫様へのお怒りはもっともでございますゆえ、
どうかわたくしに罰を!!」
「罰とかそんな物騒な!!!」
なんで蕗殿を罰しなきゃならないねん!?
てか蕗殿、おでこ大丈夫ですか!?!?
何度もおでこで床を叩くのやめましょう!?
杏もドン引きしてるよ? ね?
まともに話せないから頭上げて!!!
「頼みますから! 頭を上げてくださいませ!」
「さ、左様ですわ、
そうされていては事情がわかりませぬしっ」
過激な謝罪に引きながらも動けば、フリーズの解けた杏も蕗殿を止めるのを手伝ってくれる。
両脇から二人掛かりで必死で引き起こして、土下座できないよう前から肩を掴む。
うっわおでこ真っ赤。血は出てないけど痛そうだ……。
「落ち着かれませ、怒ってないですから」
「ですが……!」
「与祢姫の申されるとおりですよ、
このくらい何の障りもございませぬ」
茶々姫様の自由さは百も承知だ。いちいち怒っていたらキリがない。
杏は青い顔の蕗殿のおでこを手巾で拭い、私も爪の食い込むほど握られた彼女の手を握る。
「それで、何があったのですか?」
「は、はい。半刻ほど前になるのですが……」
おずおずと蕗殿が口を開く。
朝食のあと、茶々姫様は朝寝をしていた。
妊娠中で悪阻もあるからか、最近は過眠気味だ。猫のようによく寝ている。
いつもどおりのことなので、蕗殿たちもいつもどおりにした。
茶々姫様の眠る寝室の前に侍女を控えさせ、他の者はそれぞれの仕事をこなしていたそうだ。
そして私たちの訪問予定の時間が近づき、蕗殿が起こしに行ってみたら。
「寝床がもぬけの殻だった、ですか」
「どうやら雪見窓からお出になったようです」
窓から脱走って、茶々姫様ぁ。
さすがの私でもしたことないぞ、そんな蛮行。
二十一歳女児の行動が予想外すぎて、空いた口が塞がらないよ。
「どちらへ行かれたか、心当たりは?」
「……ありませぬ」
杏に訊ねられた蕗殿が、力無く首を振る。
困ったなあ。目星がつかなきゃ、手伝おうにも手伝えない。
「どうなさいます?」
整えられた眉を軽く寄せて、杏が顔を寄せてくる。
どうするもこうするも、ねえ。
待ってもいいけど、どのくらい待てばいいかわからない。
こめかみに指を当てていると、あの、と蕗殿が声を発した。
「どうか、日根の方様の元へお行きくださいませ」
「よろしいのですか?」
「長くお二方をお引き留めしては、
あちらのご機嫌が損なわれましょうし」
そういえば先日、日根の方様──香様の側付きの女房さんからクレーム喰らってたな。
我が君を差し置いて殿下や御化粧係を独占するとは、どういう了見だって。
茶々姫様が泣いて引きつけを起こしかけたから、代わりに蕗殿が散々なじられてたっけ。
あれはかなり激しい修羅場だった。
もう揉めたくない蕗殿の気持ちは、痛いほどわかる。
「承知いたしました、
では日根の方様の元へまいります」
お夏たちに目配せをして、帰る準備にかからせる。
ほっとした様子の蕗殿に、杏が話しかけた。
「もし茶々姫様が見つかったら、
わたくしをお呼びくださいませ」
「ですが、杏様をお呼び立てするなど、
あちらの方々が」
「与祢姫がお相手していれば、満足なさるでしょう。
わたくしが中座しても気になさらぬはず」
そうだね。あっちの女房さんたちは、杏のこと好きじゃないからね。
香様が止めても、南蛮人混じりの遊び女の娘って内容の遠回しなイケズ言うくらいだしね。
気分が悪いので、杏の逃げ道として茶々姫様を利用できるなら嬉しいわ。
不安げな蕗殿に笑いかけてみせると、杏はほっとしたように自分の侍女を呼んだ。
「わたくしの侍女を一人残しておきます。
どうぞお使いください」
「いつも、気にかけてくださりありがとうございます…」
「かまいませんわ。
恐れ多いことでございますが、
わたくしも茶々姫様の御身内でございますから」
微笑みを浮かべ、杏は蕗殿の肩をさする。
とりあえず、これでよしかな。
こっそりため息を吐く私に、準備が整ったとお夏が告げた。
◇◇◇◇◇◇
「茶々姫様、どこ行っちまったんだろうな」
「さあねえ」
香様の屋敷へ向かいながら、私たちは本日何回目かのため息を吐く。
本当に茶々姫様、どこへ行ったんだか。
城の外へは出ていないだろうが心配だ。
季節は弥生。もうすっかり春だけれど、今日の風は少し冷たい。
妊婦さんが薄着でうろうろして良い日和ではない。
「日根の方様のご機嫌伺いをした後も見つかってなかったら、
寧々様に報告しよっか」
「そだな、万が一井戸に落ちてたらコトだし?」
ゾッとしない話だが、同感だ。
男の嫉妬も怖いが、女の嫉妬も怖い。
怨恨で何が起きるかわからないのが城奥である。
不幸にも井戸に落ちちゃう人は、たまに出るんだよ。すっごいよね。
茶々姫様は、城奥内で好かれているとは言いがたい人だ。
可能性が、無いわけじゃない。
「ご無事でも、コトでしょうね」
声を落として呟くと、さりげなく周りを見回してから杏が眉をひそめた。
「近々お前を日根の方様、
ウチを茶々姫様へって御指図が出ると思う」
秀吉様のお子を身ごもった、茶々姫様と香様。
二人のお世話は、御化粧係の重要な任務の一つである。
医療を含まない悪阻対策に、妊娠線予防などのボディケア、食事や運動に関するサポートなどなどだ。
毎日出向いてご機嫌や体調を確認し、直接お話をして不安や悩みなどを聞いて、細かく記録も付けている。
それに合わせて医療的な心配事を見つければ典医の先生方に協力を仰いだり、日常的な生活の注意点があれば女房さんや侍女に指示を出したりもする。
竜子様が懐妊中に私がしていたこととほとんど一緒だよ。
すでにある程度の経験値があるので、対応自体は難しくない。
竜子様の時と違って、今回の業務量は二倍だけどね。
事前の増員があってよかった。マジで助かったよ。
ここに杏がいてくれなければ、激務確定だった。
ほんのりとした死を感じる……。
だが、強力な増員があっても安心をしてはいられない。
道三先生たちに確認したところによると、茶々姫様と香様の出産予定日は見事に被ってしまうそうなのだ。
推定だが、現在どちらも妊娠五ヶ月らしい。
曲直瀬御一行の見立てでは、ご出産の予定日は六月から七月にかけて。
運が良ければ一ヶ月くらいの間隔を空けて、最悪の場合だと二人そろって同日中出産もありえるとのことだ。
また、茶々姫様と香様には竜子様に準じた待遇を与える、という方針が決まっている。
お二人とも聚楽第内に新たな屋敷を用意され、お産の際に使う産所も賜る予定だ。
奉行衆に確認済みなので、間違いはない情報である。
どこの城になるかはまだわからないが、候補地はいずれも洛外か大坂近辺だという。
どう転んでも私と杏が二手に分かれなければ、対応不可能なのだ。
竜子様の例に倣うならば、彼女らの産前産後には私たち御化粧係がお側に常駐することとなる。
どちらか片方にだけ、なんて絶対に無理。
揉め事の火種になることは、できるかぎり避けなくちゃならない。
大きな不安があっても、ストレスの気配があってもね。
なので、私たちは団体行動を諦めました。
都合の良い展開に望みをかけて立ち止まるより、都合の悪い展開になると想定してリスクヘッジを取った方が建設的だ。
ちょっとずつ、産所が決まったらどう行動するかの計画を進めて備えている。
おそらく産所が決まると同時に、お引っ越しとなるはずだ。
すぐ持っていけるように荷物を揃え、離れた後の連絡方法を決めておかないと無駄に忙しくなる。
竜子様の時の反省を生かさねば。
だが、私と杏どちらが、茶々姫様と香様のどちらを担当するか。
そんな一番肝心なことがまだ決まっていなかったりする。
上からの指示待ち中なんだよね。
勝手に決められない理由は、私の身分と知名度が高いからだ。
私のお世話を受ける御方が、竜子様に次ぐ地位に就くと周りに認識されることになる。
適当にしたら、奥の均衡が崩れると寧々様がおっしゃっていた。
秀吉様の寵愛という点では、明らかに茶々姫様に軍配が上がる。
けれども秀吉様は、茶々姫様を政治的に重く扱うかどうか決めかねていらっしゃる。
茶々姫様が、実家無しの親無しであるためだ。
しかも無くなっているその実家や親が、秀吉様に楯突いた浅井と柴田ですし?
一応叔父の織田様が後見人を務めているが、足元が安定しなさすぎる。
一方で香様は、寵愛では茶々姫様に劣るが、ご落胤の血筋とはいえ五摂家たる九条家の血を引いている。
来月には九条家の正式な養女になられる算段も付き、九条家はすでに香様の側に仕える女房や侍女を差し向けている。
その動きに影響されてか、諸大名や諸公家からの懐妊祝いは香様宛が圧倒的多数だった。
摂家ブランドの威力が、ここぞとばかりに発揮されている。
ご生家の方も、徐々に体裁が整えられつつある。
先月出家されていた香様の兄君が還俗を命じられ、秀吉様の直臣に取り立てられた。
奉行衆配下の吏僚として、検地などの業務のお役目を賜ったらしい。
石田様に振り回されるポジションは哀れだが、配置自体は適材適所で悪くない。
香様の兄君は大和の大寺院で、寺領管理の部署におられたと聞く。
吏僚のお仕事に慣れなくてストレスを抱える、ということはなさそうだ。
今後はそれなりの所領を与えられ、九条家ゆかりの正室を迎えるとの噂もある。
ゆくゆくは九条家の分家の武家、というポジションに落ち着くだろう。
このように、着実に香様の地盤は強化されてきている。
奥の竜子様と御側室方は、もうすでに香様推しだ。
万事控えめで驕ることなく、竜子様や先輩側室の皆様を立てる香様の姿勢が好印象だったようだ。
摩阿姫様以外は、茶々姫様を黙らせる対抗馬にちょうどいいとも思っているらしい。
秀吉様の心情を考えて、まだ誰も積極的に表へ向けて香様への支持を表明はしていない。
それでも、城奥内の雰囲気としては、香様歓迎ムードがしっかり伝わってくる。
竜子様は香様へなにくれとなく声を掛け、貰い物のお裾分けもよくしていらっしゃる。
摩阿姫様たちもそれに倣って、香様に優しく接して親しくしようとしておられる。
中立を表明している寧々様でさえ、それを黙認している状態だ。
表の秀長様も寧々様と同じく中立だが、支持に回るか考え中のようだ。
香様へ御機嫌伺いや贈り物をしがてら、いろんな手を伸ばして探りを入れている。
藤堂様の奥方であるお芳様名義で、私宛に手紙を送りつけてきたりとかね。
あくまで秀長様ではなく、藤堂様が独断で気を回して知りたがっている、というていの周到なやり口だ。
香様が羽柴の害にならない女かどうか気にする気持ちはわかる。が、そこまでするかと怖くなった。
他にも徳川様は旭様伝い、父様経由で近江中納言様、杏を介して織田様も香様のリサーチをしようとしている。
諸大名の目にも、あきらかに香様優勢と映っているのだろう。
どう接するかを見極めるため、情報を集めながら、静かに秀吉様と城奥の動きを見守っている。
そんな嵐の前の静けさじみた緊張感が、近頃の京坂を満たしている。
「正室に直されるのも日根の方様かしら」
「御出産までには三番目の北政所様だろうよ」
宮中の機嫌取りには持ってこいだしな、と笑う杏の口調は硬い。
「ゾッとしないわね……」
香様が秀吉様の正室に昇格したら。
考えるだけで、とても頭が痛くなる話だ。
九条家から差し向けられた香様付きの人たちの顔が、ますます大きくなるに違いない。
彼女らは公家ゆかりの人たちだけあって、凄まじく激しいプライドをお持ちである。
かつて茶々姫様を押し立てようとした袖殿たちの轍は踏まないにしろ、周りとの軋轢は不可避だ。
そんな状態で香様が男児を産んだらやばい。
香様を擁する人々は、必ず竜子様相手に勝負をしかけてくる。
香様に竜子様との対決の意思は無くとも、公家の権威を取り戻したい取り巻きや公家衆勢力の声は大きい。
竜子様も竜子様で、無抵抗で攻撃を喰らう人柄じゃない。
息子の幸松様を守り、武家としての羽柴を守るため、鬼となる強さと覚悟を備えた方だ。
いざ決断したら持てるすべての力を掻き集め、どんな汚いことに手を染めても勝とうとする。
そうなると、もうね。
血で血を洗う、次代の豊臣の氏長者争奪戦のスタートだ。
「日根の方様のお腹の御子、姫君だといいな」
「茶々姫様の御子も、姫君であってほしいわ」
茶々姫様が淀殿へ至る道は絶たれたのに、別方向から波乱の予兆が現れるとは。
嫡男を挙げた竜子様の地位が揺らぎかねない展開なんて、まったく想像をしてなかったよ。
どうあがいても、羽柴には問題しか起きないのだろうか。
仕えてる私たちはいつも緊張感に苛まれている。
そろそろ穏やかな日々に戻ってきてほしい……。
「粧内侍様! 杏様!!」
死んだ目で歩いていると、前から赤い袴姿の少女が足早に近づいてきた。
聚楽第では珍しい殿上眉風の眉で、歳の頃は杏と同じくらい。
香様付きの女童さんの顔色は、青いを通り越して白い。
「あっ」
「あかん」
嫌な予感がする。それも、十中八九で当たるタイプの。
つい素で口から訛った言葉を出す私たちの前に、青い顔の女童さんが辿りつく。
「助けてくださいっ、えらいことでおざりますっ!
御方様が、御方様がっっ!!」
縋ってくる声は、今にも泣きそうに震えている。
ううう、厄介な臭いがぷんぷんしてる。
一歩後ろへ下がろうとしたら、お夏に打掛の裾を踏まれた。
振り向くと、微笑まれる。逃げるなってことですか。お夏の鬼ぃぃぃっ。
「……そのように慌てて、いかがなされました」
私を置いて逃走を試みた杏の打掛の裾を踏んづけて、粧内侍の仮面を被り直す。
鍛えた表情筋を動かして柔らかに笑み、跪く女童さんの前にしゃがむ。
「お、御方様のもとにっ」
「日根の方様のもとに?」
しゃくり上げそうな女童さんの言葉を、ゆっくりと繰り返す。
とうとう丸い彼女の瞳から、大きな涙の粒がこぼれ落ちた。
「浅井の一の姫様がいらしゃったのでおざりますぅぅっ!!」
茶々姫は、アポなしで遊びにくるタイプ。
次回、ようやく香様ご本人が登場です。
【〜様】
御所言葉においては敬称として『さま』より『さん』を使う例がほとんどだそうです。
例えば、宮『さん』、御前『さん』、お父『さん』など。
『さん』がより良い敬称とされていたみたいです。理由はわからぬ。
そういうわけで、公家出の女童さんか目上の与祢を『粧内侍様』と呼ぶのは特に問題がありません。
でも、違和感が出るかなと思って『様』に『さん』とルビを振りました。
御所言葉もきちんと使わせたいのですが、やりすぎるとわかりにくくなるので適度に現代風にしております。
※参考文献:『尼門跡の言語生活の調査研究(Ⅰ~Ⅳ)』井之口有一・堀井令以知
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