セカンド・オピニオン(4)【天正16年9月15日】
「金物と煙草が、毒なあ」
道三先生の目の色が変わる。
後ろに控える丿貫おじさんたちもだ。
子供の戯言、とは思われなかったらしい。
変人集団でよかったよ。普通じゃないからこそ、私に取り合ってくれる。
「理屈は蕎麦粉と同じかと」
人体に備わっている免疫機能は、異物と認識した物に対して防御反応を示す。
例えばインフルエンザ。
代表的な症状の一つの高熱は、免疫による防御反応である。
ウイルスという異物は熱に弱いことを知っている免疫機能が、体内に侵入したウイルスの猛威を抑えるために発熱するのだ。
こういうふうに免疫が動いてウイルスや細菌と戦ってくれるから、人間は生きていられるというわけ。
そんなありがたい免疫機能ではあるが、異物ではない物に対して反応することがある。
理由は色々考えられるのだが、ちょっと簡単な説明が難しい。
ともかく、免疫機能は時々突拍子もない誤作動を起こす、と考えてもらえればいいかな。
食べ物、花粉、動物の毛、化繊。
温度、水、空気、日光。
人間の周りに存在するありとあらゆるものに対して、ある日突然免疫機能が異常反応を示すようになってしまうのである。
これがアレルギーと呼ばれる疾患。
じんましんや鼻炎という比較的軽いものから、アナフィラキシーショックのような命に関わる重篤なものまで症状は多岐にわたる。
運が悪いと命を失うヤバめな疾患だが、令和の日本ではわりと身近だった。
花粉症や食物アレルギーはほぼ国民病みたいなものだったしね。
天正の日本にはアレルギーという疾患の名こそないが、それっぽい疾患は認知されている。
蕎麦粉に被れるとか、雁瘡というアトピー性皮膚炎らしき病気とか。
統計なんてものがないから数は知れないが、少なくない人が何らかの軽いアレルギーを持っている様子だ。
軽度の人ばかりなのはたぶん、重症者はアナフィラキシーショックあたりですぐ死ぬせいだと思う。
突然死で片付けられている人の中にも、重症のアレルギー患者はいるんじゃないかな。
「煙草を嗜み出した頃と病の発症が同時やし、
考えられへんことでもないか」
「蕎麦は酷いと食べずとも触るだけであかんしねえ」
「煙草はともかく、
金物は普段からなぶるもんやしなあ」
丿貫おじさんが施薬院先生の言葉に頷く。
金属は天正の今でも身近なものだ。
男性、それも紀之介様のような上級の武家階級は特に金属を触る機会が増える。
大小二本の刀を常時携えているし、ほぼ毎日カミソリで髭を整えている。
屋敷の中の襖の引き手も金属製が多く、文房具にも文鎮や筆の装飾に金属が使われていることもある。
戦ともなれば、もっと金属に触れやすくなる。
常に金属板で構成された甲冑を身に付けるし、金属製の頰当てや兜を着用する人も少なくない。
金属アレルギーは、金属イオンとタンパク質の結合によって発症する。
戦闘で汗を掻いて、汗に触れた金属からイオンが溶け出し、擦り傷やあせもから体内に入り込めば……。
うん、アレルギーを発症する可能性が十分あるね。
「一応聞きますけど、金物被れのお心当たりは?」
施薬院先生が、紀之介様に訊ねる。
「……あります」
俯きがちになっていた紀之介様が、苦いものを吐くように呟いた。
五年前に秀吉様のお供で有馬温泉へ行った際、温泉に浸かって軽い湯かぶれを起したそうだ。
このこと以降、刀などの金属に触れると妙に痒くなることが増え、手が荒れやすくなった。
不思議に思って薬を塗ったりしてしのいでいるうちに九州征伐が始まって、甲冑や鎖帷子をまとう日が続いた末に炎症が全身に広がった。
特に頰当てを付けた後が、そのまま爛れたらしい。
手のひらや足の裏に膿疱ができ始めたのも、この頃から。
何をしてもおさまらないほど、症状は激化していった。
「お怒りになった殿下に押し込められるまで、
碌な休息を取らんからこうなったのだ」
石田様が横目で紀之介様を見て、機嫌悪そうに鼻を鳴らす。
紀之介様は前線を離れて治療しろと石田様や福島様たちに言われても、無視して働き続けたそうだ。
治療も積極的ではなく我慢でしのぎ、爛れた顔を隠し、結局熱を出して秀吉様の前で倒れた。
ここに至ってやっと深刻な病状がバレ、なぜ早く言わなかったとブチギレた秀吉様によって、紀之介様は戦線から外された。
そして終戦まで謹慎と称し、病気休暇を取らされたのだとか。
「面目無い……」
「殿下も某らも肝を冷やしたのだからな、反省しろ」
気まずげな紀之介様を石田様の狐のような双眸が睨む。
お怒りごもっともだよ。もっと怒っていいよ。
看病していて私も思っていたけれど、紀之介様は仕事中毒の気がある。
責任感が強いのか、平気で無理をするのだ。
熱が出ていてもふらふらで寝床から出て、机に向かおうとする。
ご飯を食べながら、横になりながら、書類のチェックをするなんてのもザラだ。
みるからにしんどそうな顔をして、時々咳き込んでだよ。
大人しく寝ていてくださいって、ガチで叱った記憶も新しい。
「そうであるなら、
蕎麦粉かぶれとは少々違う気もしますが」
休め休めと紀之介様に詰め寄り出した私たちを眺めながら、玄朔先生が眉を寄せる。
「あれはじんましんが出るだけで、
刑部様のような膿疹にはならへん。
発熱に至ることもそうあらへんし」
「熱は煙草が原因とちゃうか」
道三先生が口を挟む。
「煙が肺や喉にようないやろ、あれ」
「そういえば煙草で咳が増えて肺病みたいなって、
熱に悩まされとる患者は診たことありますわ」
思い出したように丿貫おじさんが言った。
九州へ行った折に、博多で煙草で呼吸器を患った人を治療したらしい。
「せやけど膿疹は出とらんかったな……」
「別の病の可能性もありますねえ」
「あの、そこは金物と煙草が組み合わさっているのかも!」
逸れかけた軌道を戻そうと、慌てて私は声を上げた。
丿貫おじさんが怪訝な顔をする。
「お与祢、どういうことや」
「金物の煙管で煙草を吸う者には、
稀に手足が膿む病を患うものがいると聞いたことがあるわ」
先に日本を去った宣教師から聞いた、と前置きして説明する。
金属と接触した肌が後から痒くなるアレルギー、と認識している人が多い。
確かに、金属アレルギーはIV型アレルギー。
発現が遅効性のアレルギーに分類されるので、ある意味では正解だ。
症状としても、接触部分に発生する炎症が有名すぎる。
でも金属アレルギーは、それだけじゃない。
肌に金属が触れたわけではなくても、全身に症状が伝播することがあるのだ。
要因となるものは、主に歯科金属や食物に含まれる金属。
これらが消化液である唾液や胃液で溶け、金属イオンとして内臓から体内に吸収されると起きる。
症状は全身に及ぶ皮膚炎に限らず、口内炎、歯肉炎、舌炎、咽喉の炎症からくる止まらない咳。
場合によっては、発汗しただけで汗に溶け出した金属イオンに誘発されて皮膚炎が発生する。
そんな軽く地獄な全身性金属アレルギーだが、やつの恐ろしさはこれで止まらない。
合併症を呼び込む危険性を備えているのだ。
その中でもとびっきり厄介な疾患が、掌蹠膿疱症なのである。
この病気は、主に手や足のうらに膿を含んだ水ぶくれがくり返しできる病気だ。
人によっては頭、腕の肘まで、膝やすねなどにも患部が広がる。
膿の中に細菌は入っていないので感染性はないが、とにかく膿疱ができては潰れをして、目立つことこの上ない見た目になる。
わかりやすく言うと、今の紀之介様と同じ状態になるってこと。
酷いと爪が歪んだり、関節炎が起きたりもし、しかもなかなか治りづらい。
難病と呼んでいい病気で、診断と治療がわりと難しい。
令和に生きていた頃、職場の喫煙所に集まる仲間だった同期が患者だったので知っている。
アトピーやただの手荒れ、乾癬、水虫。
類似する症状を持つ病気が多く、とある皮膚科で見抜いてもらうまで彼女はとても苦しんだ。
また、診断が下りてからも治療に苦労していた。
この掌蹠膿疱症、原因が不明であることが多いのだが、とある傾向がある。
どうやら喫煙者や金属アレルギー持ちの人は、発症しやすいらしい。
患者の多くがヘビースモーカーだというから、吸っていて発症したら原因はそれと見てもいいそうだ。
おかげで同期は地獄の禁煙治療を行うことになって、大変そうだった。
あの子、女性には珍しいレベルのヘビースモーカーだったし。
こんな例が側で起きたから、怖くなって私も一緒になって煙草を止めた。
「どういう理屈どすか?」
異国の貴族の話、として同期のことを話すと、施薬院先生が訊ねてくる。
瞳の奥の興味深げな光が、ぎらりとしている。
この人、病気の話が好きなんだな……。
「その宣教師の方の言ですが、
煙草にはそもそも肌の病を悪化させる作用があるようだ、と」
煙草に含まれるニコチンは血管を収縮させ、皮膚の代謝を下げる作用がある。
肌から浸透すると活性酸素を発生させてシワの原因になるし、活性酸素を処理するために体内のビタミンCを大量消費することで肌の免疫力が下がる。
だからアレルギーを悪化させるし、そうでなくとも肌荒れの原因になる。
メカニズムははっきりとしないが、掌蹠膿疱症を悪化させるのはこの性質が関係していると思う。
また、煙草は金属のニッケルを多く含む。
喫煙習慣があると、口から金属を体内に取り入れてしまうことになるのだ。
紀之介様の場合、金属製の煙管をかじりながら吸っていた。
ほぼ日常的に、金属イオンを経口摂取しているはずだ。
歯科金属ほどではなくとも、全身性の金属アレルギーの発症に至るには十分すぎる量を。
喫煙しながら治療しても、病気が悪化するのは当たり前なのだ。
「なるほどな」
聞き終えた道三先生が、にやりと笑う。
「おおかた理解でけたわ。
つまり、金物被れが煙草で悪化したってことやな?」
「おそらくは、ですが」
私はお医者さんではないから、正確な診断を下せる力量はないけれど。
それでも、持ちうるかぎりの知識や記憶を掻き集めれば、可能性が高いと言える。
不安で早くなる胸を押さえて、道三先生を見つめ返す。
室内が静まり返る。誰も口を開かない。
診断を受ける紀之介様も、石田様も、私も、固唾を飲んだように唇を結ぶ。
おもむろに、道三先生が弟子たちを見回した。
ふさふさとした眉が、器用に片方だけ上がる。
丿貫おじさん、玄朔先生、施薬院先生の視線が交差して。
三人は、是、と深く顎を引いた。
「決まりやな」
ぱちん、と道三先生が片手で弄んでいた扇子を閉じる。
「ほな刑部はん、
金物と煙草が毒と仮定して治療してみましょか」
「では、俺の病は治るのですね」
「断言でけへんけどね」
顔色を明るくする紀之介様に、にこにこと道三先生が近づく。
すとんと前に腰を下ろすと、紀之介様の手を掴んで。
握り締められていた煙管を、奪うようにむしり取った。
「まずは煙草を止めよか」
「えっ」
待って、紀之介様、なぜ驚く。
どうしてそんな、言われている意味がまったくわかりませんって表情になるんだ。
道三先生も意外だったのか、白い眉の下の目を丸くした。
「話、聞いてた?
煙草があかんかもって言うとったやん」
「金物の煙管を使わなければいいのでは?」
「ちゃうて、煙草自体もあかんかもって話やったやろ」
「なるほど、では量を減らすようにします」
「何言うてんの、あんた。
吸わんようにして、完全に」
「そんな殺生な!」
突然紀之介様が、悲鳴じみた声を上げた。
「無理だ! そんな急には無理だ!」
「なんでや」
「煙草が無いとだめなのです。
吸っている間だけは痛みや苦しさが和らぐから、
一日でも吸わずにいると堪え難くて。
少なくとも寝る前には吸わないとろくに眠れぬほどで……」
「我慢しいや、お武家さんやろ」
「関係ありますか、武家であることが」
あきれたような道三先生の言葉に、すかさず紀之介様が噛みつく。
ちょっと半ギレ気味な彼に、私はそっと頭を抱えた。
だめだ、この人。完全なニコチン中毒だ。
とんでもないヘビースモーカーのくせに、よく今まで私の前で吸わずにいられたな。
てか、寝タバコ危ないよ。何してんの、紀之介様。それは流石にやめようよ。
「紀之介、諦めろ」
道三先生相手に煙草を止めたくないとごねる親友の肩を、引き気味の石田様が掴んだ。
振り向いた紀之介様は、目元に殺気じみたものを漂わせている。
怖っ! 鬼気迫りすぎてない!?
「諦めて医者の言うことを聞け」
「佐吉殿まで俺を裏切るのか?」
「お前、煙草に魂を奪われたのか?
それとも煙草に知性を吸われたのか?」
「そんなわけないだろう!」
「じゃあ聞き分けろ! 煙草を止めろ!」
ガンッ、と苛立ちたっぷりに石田様が畳を殴る。
「あんな臭いものが体に良いはずないと思っていたのだ。
良い機会だから止めろ」
「……だが、臭いは言い過ぎだろう。
あれは慣れるとたまらなく良いものになってくるんだよ?」
「ああもう! おい、粧の姫も言ってやれ!」
食い下がる紀之介様にキレた石田様が私へ振ってくる。
ちょっと待て、ここで私に振るのか。
どうしようかと思っていたら、紀之介様が縋るような眼差しを向けてきた。
あ、可愛い。注射を嫌がる大型犬的な可愛さがある。
「紀之介様」
ため息を吐いて、彼の方へ向き直る。
微笑みかけると、紀之介様の目に期待が宿った。
信頼されているってことで良いのかな。
嬉しくなるけれど、ちょっと罪悪感を覚える。
にこにこしたまま道三先生から、煙管を受け取る。
返してもらえると思ったのだろう。
笑顔になった紀之介様が手を伸ばしてきた、が。
「ごめんなさい!」
「与祢姫っ!?」
私はその手から逃げて、立ち上がった。
そのまま縁側へ走り出る。
縁の縁で立ち止まり、袖から腕がむき出しになるのも気に留めず上げる。
後ろで大きな音がした。
振り返ると、紀之介様が石田様に捕まっていた。
私を追いかけようとして、畳に引き倒されたっぽい。
悲壮な、今にも泣き出しそうな顔で紀之介様はもがいていた。
与祢姫、待ってくれ、止めてくれと叫びながら。
どうしよう。想像以上の好きな人の半狂乱ぶりに立ちすくんでしまう。
「粧の姫! やれ! 早く!!」
上に乗っかって押さえ込んでいる石田様が、血走った目で促してくる。
そうだ、やらないと。ここで諦めさせないと、紀之介様は治らない。
私がやるしかないっ!
ごめん! 紀之介様! あなたのためなんだ!!
視線を切り離して、前を向く。
狙うは庭の池。
思いっきり煙管を握る手を振りかぶる。
甲子園球児になったつもりで、行ってみよー!
「せいっ」
煙管が指から飛び立つ。
午後の日差しを受けて、きらきらと。
美しい三日月のような放物線を描いて。
凪いだ池の水面へ、吸い込まれていく。
そして、控えめな音とともに、煙管は水の底へ沈んでいった。
……終わった。何もかもな。
肩で息をして、踵を返す。
座敷に戻ると、紀之介様と目が合った。
「禁煙、一緒にがんばりましょうね」
できるかぎり優しく這いつくばっている彼の手を握る。
「……わかった」
たっぷりと、一〇秒くらいの沈黙。
やっとのように力無い返事をした紀之介様は、がくりと項垂れたのだった。
掌蹠膿疱症の原因は色々あるのですが、喫煙者の発症率がかなり高いそうです。
もし喫煙者であった場合、煙草をやめると治りやすくなるのだとか。
次回、地獄の禁煙スタート。






