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北政所様の御化粧係〜戦国の世だって美容オタクは趣味に生きたいのです〜  作者: 笹倉のり
2章 聚楽第の御化粧係【天正15年9月〜天正17年1月】
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再会【大谷紀之介・天正16年9月1日】





 記憶よりも伸びた黒髪が、しなやかに揺れる。



「紀之介様、ですか……?」



 あでやかに彩られた唇からまろびでる、あどけなさの抜けきらない声。

 黒目がちな少女の双眸が、みるみるうちに丸みを帯びていく。



 体中の血が、凍りつく心地がした。



 考えるより先に、身をひるがえしていた。

 痛む膝を叱咤して、今の俺に叶うかぎり速く動かす。


 見られた。

 あの子に、与祢姫に見られた。

 この姿を、見られた。


 心の臓を鷲掴みにされたと錯覚するような感情が、瞬く間に思考を支配していく。

 隠し切れていたはずだ。

 佐吉殿には口止めをした。母とこや(・・)には話さなかった。

 与祢姫の遣いには姿を見せないようにしてきた。

 決して文の内容から気取らせぬよう、注意を払ってきた。

 なのに。

 なのに、なのに!

 どうしてあの子が、俺の屋敷にいる!?

 俺を呼ぶ声が追いかけてくる。

 与祢姫の声だ。

 恐ろしくて振り返ることなどできなかった。

 どんな顔をして与祢姫が、俺を呼んでいるのか。

 恐ろしくて想像できない。したくもない。

 みっともなく走って、幼い与祢姫から逃げる。

 ただひたすら逃げるなんて初めての経験だ。

 戦さ場でも、交渉の場でも。計略以外で相手に背を見せたことはないのに。

 たった一人の少女から逃げる日が来るだなんて、予想もしていなかった。



「ぅ、っ!」



 自室に飛び込んだ拍子に、前のめりに体が傾いた。

 咄嗟に手を突くが、手のひらと手首が体の重みに盛大な悲鳴を上げる。

 あまりの痛みに力が抜け、不恰好に倒れ伏してしまった。

 苦痛を噛み殺して足元を確かめる。

 畳の上に汚らしい足跡が残っていた。足の裏に滲んだ血膿で滑ったらしい。

 情けなさに噛む唇が裂けて、鉄臭い味が口に広がる。



「紀之介様っ」



 息を乱した声が飛んでくる。

 弾かれたように上げた視線の先に、与祢姫がいた。

 走って追ってきたのだろう。

 小袖の裾を乱し、戸口の襖に縋って肩で息をしている。



「近寄るな!」



 幼いかんばせに浮かぶ表情を確かめるより先に、怒鳴っていた。

 畳の縁を越えかけた傷一つない爪先が、ぴたりと止まる。

 細く息を飲む音に安堵して、部屋の奥へ這って逃げる。

 とにかく与祢姫と距離を取らなければ。

 軋む体を叱咤して、壁に背を付ける。

 こういう時に限って、側にあるのは莨盆(たばこぼん)と煙管だけ。頭巾も扇も手近に無い。

 間の悪さに舌を打って、爛れた顔を袖で隠した。



「き、きの」


「出ていきなさい」



 怯えを含んだ呼びかけを遮る。



「早く行きなさい。

 ここは君がいていい場所ではない」


「どうしてっ? 私、紀之介様に会いたくて、それでやっと」


「俺は君に会いたくなかったんだ!」



 振り払うように、あらんかぎりの力で声を張る。



「呼んでもないのになぜ来た!?

 俺は腐り果てた姿を君に見せたくなかったのに!

 どうして君はっ、どうして……!」

 


 大きく開いた口の端がまた切れた。

 血の苦さが、喉に落ちていく。

 言ってしまった。凍りつく少女の気配に、泣きたくなる。

 小さな子供に感情をぶつけるなんて、俺は心根まで腐れてしまったらしい。

 でも、もう。後悔しても遅いか。



「出て行ってくれ」



 荒げた声音をなんとか落ち着かせて、黙り込んだ与祢姫に告げる。



「もう二度と俺の元へは来てはいけないよ」



 いいね、と押した念に返事はない。

 代わりに、衣擦れが耳に触れた。

 聞き分けてくれたか。肩の力が僅かに抜ける。



「嫌に決まっているでしょうが!」



 甲高い怒声が空気を震わせた。

 想定外のそれに、思わず袖から顔を出す。

 それと同時だった。

 練色の塊──与祢姫の体が、俺にぶつかってきたのは。



「ぐっ」



 勢いで重みを増した体当たりを胸元で受け止める。

 息が一瞬詰まった。わりときつい痛みに気を取られる。

 耳元近くで派手な音が弾ける。

 驚いて、咳き込みながら目を開く。

 視界いっぱいに、与祢姫の顔が映った。



「与祢、」


「紀之介様」



 なめらかな頬に笑みはない。

 愛らしい目元を吊り上げて囁く声は、少女らしくない低さだ。

 満面の怒りを俺だけに向けて、けれども嬉しそうに俺の名を口にする。



「離れろ! 早くっ!」


「離れない!」


「言うことをっ、聞けっ! 病がうつるぞ!?」


「嫌! うつらないわ!!」



 何をしているのだ、この子は!

 与祢姫を引き剥がそうと手を伸ばしかけて、躊躇う。

 血や膿にまみれた手で、彼女に触れてはいけない気がした。

 触れずに離れようと必死でもがくが許されない。

 頭の横にあった与祢姫の腕が絡みついてくる。



「大丈夫」



 膨らみの兆しさえまだない小袖の胸元に、腐りかけた頭が抱き込まれる。

 


「大丈夫ですから」



 瑞々しい、花のような香りが濃く漂う。

 片手で手折れそうな与祢姫の首筋から香っているのだ。

 そう気づけるほど近くから、柔らかな声が落ちてくる。



「怖く、ないのかい」


「何が?」


「見てわかるだろう」


「ああ、お顔とか?

 これすごく痛痒そうですよね、薬要ります?」


「与祢姫、そうではなくてね」


「手もなんだか前より荒れ方が酷くなってますねえ」



 所在なく浮かせていた手に、白い手が触れてくる。

 しっとりとした手のひらが、膿を含んだ腫れ物と瘡蓋だらけの甲を撫でる。

 嫌悪など一切ない。労わりだけが込められた仕草に、ぎょっとしてしまう。

 こんなふうに誰かに触れられたことなど、いつ以来だろうか。



「紀之介様、固くなってません?」


「驚いているんだよ、君に」


「どうして?」


「俺の病について聞いていないのか」


「えーっと、業病でしたっけ。

 でも絶対それ誤診でしょ」



 ふん、と腹立たしげに与祢姫が鼻を鳴らす。



「来る前に曲直瀬道三様に色々教えていただきましたけど、

 業病の特徴は全然出てないじゃないですか」


「は? 待ってくれ、曲直瀬殿に教えを乞うたって?」


「はい、紀之介様のご病気を少しでも知っておこうって思って」



 返ってくる返事は、実にけろりとしている。

 爛れた指に与祢姫の指が絡んできた。

 指遊びをするように、握ったり擽ったりを繰り返す。



「手とか足とかの傷、痛いでしょ」


「あ、ああ」


「本物の業病だと、あまり痛くも痒くもないらしいですよ」


「そう、なのかい?」


「曲直瀬様の受け売りですけどね。痺れたようになるそうです。

 肌の爛れ方も聞いたのと違う感じがします、

 紀之介様のは……漆被れっぽくないですか?」



 言われてみれば、そうかもしれない。

 すとんと腑に落ちるものがあって、気が抜ける。

 軽やかな与祢姫の笑い声が降ってきて、抱えられた頭が撫ぜられた。



「ねえ、お顔を見せてくれませんか」


「気持ちの良いものではないから、止めたほうがいいよ」


「えー?」


「君の目にこんな汚らしいものを触れさせたくないんだ」


「何を変なこと言ってるんですか……」



 あからさまな呆れが込められた声が呟く。

 自分でも臆病極まりないと思うが、やはり恐ろしい。

 崩れたこの顔を、与祢姫に晒す自信がない。

 綺麗なものばかりを映す少女の瞳に映していいものなのか、不安でしかたないなのだ。

 今更だとは思う。与祢姫は爛れた肌に平然と触れてくれた。

 きっと怯えなどしない。幻滅などされないはずだとわかっている。

 なのに、怖気づいてしまう。なんて情けないのだろう……。



「しかたないなあ」



 そよりと柔らかなため息が、俺の前髪を揺らす。

 与祢姫の体が身じろぎをした。

 麻の小袖が、さやかな音を零す。

 花の香りが、更に近くなる。



「っ!?」



 あたたかなものが、額を掠めた。

 勢いよく顔を上げる。

 満足げな与祢姫の微笑みが鼻先にあった。



「引っかかりましたね」



 薄桃の唇から額へ移された熱が、顔全体に広がっていく。

 額に手を当てると、ますます楽しそうに与祢姫が笑う。



「……大人をからかうんじゃない」


「だって紀之介様が意地を張るから」


「業病ではないとしてもうつったらどうするんだ」



 病人の膿は病の元になるらしいと、どこかで聞いた覚えがある。

 俺は額も爛れているはずだ。口付けるなんて正気の沙汰じゃない。

 軽く睨むと、小首を傾げていた与祢姫はくるりと後ろを振り返った。



「湯浅殿ー、紀之介様の病気って御家中の方にうつったことあります?」


「ありませぬなあ」



 のんびりとした返答に、またしても俺の血は凍った。

 軋みを上げそうなほどぎこちなく、与祢姫の腕から顔を出す。

 戸口に、いつの間にかにやにやとした五助と、五助に捕まって口を塞がれてもがく佐吉殿がいた。



「おま、五助、いつからそこに!?」


「粧様が旦那様に抱き付いたあたりからです」



 ほとんど最初からではないか!

 一部始終を見られた羞恥にますます顔が熱くなる。

 耐えきれず急いで与祢姫から離れようとするが、彼女がそれを許してくれるはずもなく。

 ぎゅうぎゅうと細い腕の中に閉じ込められる。

 俺の慌てぶりを面白がっているらしい。どさくさにまぎれて、子猫のような頬ずりまでしてくる。



「良い顔ですね、旦那様」


「からかっているのかい?」


「いえいえ。久方ぶりに旦那様の明るいお顔を拝見して、

 五助は感激しておるのですよ」



 大げさに言う五助はにやけたままだ。

 後で覚えておけと、柄にもなく恨みがましい目を向ける。



「せっかく粧様のお側にいるのですから微笑まれては?」


「お前ね」


「怖いお顔をなさらないでくださいよ」



 くつくつと喉を震わせながら、五助は俺と与祢姫に目を細める。

 ……雇う人間を間違えたかな。

 思わぬ面を見せてきた側近に、目頭をつい揉んでしまう。



「紀之介様、誰にもうつってないんですって」



 俺と五助のやり取りを見守っていた与祢姫が口を開く。



「……らしいね」


「私にもうつるなんて心配もしなくていいですね」


「そう、いうことになるね」


「うふふ、よかったですねえ」



 嬉しげに彼女は頬を擦り寄せてくる。

 妙に人懐っこいところは相変わらずか。

 鬱屈としていた心が、ほんのりと晴れる心地がした。

 与祢姫に応えてやりたくなって、そろりと手を彼女の背に添える。



「ぷはっ! 紀之介から離れろ、粧の姫!」



 五助の手から逃れた佐吉殿が、大きな声を出した。

 反射的に、ほっそりとした背に触れかけていた手を止める。

 俺自身もわからないが、後ろめたさのようなものが刺激された、のだと思う。

 荒っぽく畳を踏み鳴らす足音ともに、佐吉殿が俺たちの元へ近づいてきた。

 無遠慮そのものの手が、与祢姫の帯をぞんざいに掴む。



「痛い痛い痛い! 内臓が出るー!」


「離れんか! 紀之介にべたべたするな!

 暑そうだろうが!!」


「紀之介様ぁ! 助けて、石田様がいじめるの!!」



 俺から引き剥がそうとする佐吉殿に、与祢姫は必死に俺にしがみつくことで抵抗する。

 鬼だの乱暴者だのという与祢姫の叫びに、佐吉殿の細面が本物の鬼のように険しくなっていく。



「慎みを持て! 寧々様に言いつけるぞ!?」


「別に構いませんけど?

 寧々様は子供であることを活かせって言ってたわ!」


「嘘吐くな!

 寧々様はそんなふしだらなこと言わない!!」


「落ち着きなさい、ふたりともっ」



 ぎゃあぎゃあと激しさを増す佐吉殿と与祢姫の言い争いに、たまらず割り込む。

 さすがにちょっと耳が痛い。この至近距離で騒ぐのは勘弁してほしい。

 思わぬ俺の参戦に二人が怯んだように黙る。



「静かにしてくれ、でないと出て行ってもらうぞ」



 語気を心持ち強くすると、どちらも口を閉じてこくこくと頷いた。

 聞き分けの良さに少しばかり可笑しくなる。容姿は似ていないのに、兄妹のようだ。

 笑いを噛み殺して、俺は膝に乗り上げていた与祢姫を降ろす。



「無事か、紀之介。体は痛めておらんか」


「このくらい大事ないよ」


「だがこの娘は重いだろうが。

 某も旅の途中で一度抱えたが腕がもげるかと」


「本当に大事ないから、

 今しばらく待ってくれないかな」



 洪水のように言い募る佐吉殿を押しとどめる。

 佐吉殿をしゃべらせると、長い。

 気遣ってくれるのはありがたいが、適度に止めないと一方的に聞かされる。

 せっかく与祢姫が逢いに来てくれた折なのだから、勘弁してほしい。

 五助に佐吉殿を任せて、与祢姫を側に座らせてみる。

 やはり彼女は、大きくなっていた。

 思い出の中の姿よりも、すらりとした若竹のような印象が強くなっている。

 たった二年足らずで、俺の予想をはるかに超える成長をしたようだ。



「紀之介様?」



 おずおずと見上げてくるかんばせには、化粧が施されている。

 ほんのりとまなじりを蘇芳のような色で縁取り、薄いまぶたがきらきらとしてあえやかだ。

 練色の小袖も化粧と相まって、大人びた風情を与祢姫に与えている。

 幼子の精一杯の背伸びと言ってしまえば、それまで。

 けれどもその精一杯がいじらしくて、胸がじわりとぬくもる。

 父親の心持ちというのは、こういうものなのだろうな。



「与祢姫」



 今度は気後せず、そのまろやかな頬に手を添える。

 水に映った月のように、少女の黒々とした瞳が揺らぐ。



「とても、美しくなったね」



 真珠のような雫が一粒、俺の傷だらけの指を濡らした。




君に、また会えた。

大谷さん視点は書いていて楽しい。

次回、医者を呼んでこい。


執筆の励みになりますので、評価やブクマ、感想をいただけると嬉しいです!

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― 新着の感想 ―
[良い点] 穿った見方で申し訳ないですが、与袮姫の言動を追っていくと何となくですが紀之介を見初めたのは 与袮姫の”本体”が先で、一歩引いた所で”私”が見守っていたように感じました。 それが紀之介の病気…
[良い点] よかったね(´;ω;`)ぶわわ 与祢姫Goodjob♪ [気になる点] 戦国時代は婚姻10-12が普通なんでしたっけ? Σ(`・ω・´) 昔の人って○リコンだらけ⁉︎ [一言] 佐吉さ…
[良い点] 湯浅さん、グッジョブ! 佐吉を押さえてたあなた、いい仕事しました! [気になる点] 青春? あれアオハルしてる? 「だがこの娘は重いだろうが。某も旅の途中で一度抱えたが腕がもげるかと」…
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