商売しましょ(1)【天正14年3月3日】
化粧水。
それは私が今、とてもほしいものである。
前世と今の生活を比べた時に、一番足りないものは基礎化粧品だった。
石鹸やシャンプーがないことはわかっていたが、スキンケアグッズが無さすぎるのだ。
洗顔や入浴をできても、顔や体は糠袋で拭うだけしかしない。
乾燥が気になるならちょこっと椿油を塗っておしまいだ。
お姫様の私や、大名の奥方様の母様ですらこれだけである。
美容と健康を考えるなら、かなりゆゆしき事態だ。これでは冬場の乾燥に肌が負けてしまう。
なんとしてもスキンケアの基本、化粧水と保湿剤は確保したい。
常々そう考えていたところに、この蘭引の登場だ。
蘭引で薬効成分を含むハーブを蒸留すれば、芳香蒸留水が作れる。
芳香蒸留水とは、ハーブの香りと精油成分が溶け込んだ蒸留水である。
古くから作られていたシンプルな化粧水の一つだが、効果が確かな優れモノだ。
蒸留するハーブの種類の数だけ得られる薬効も多岐にわたるのに、材料はハーブと綺麗な水の二つだけ。
安上がりなところも魅力の一つである。
しかも上手く蒸留できれば、精油の抽出も可能になる。
精油が手に入れば保湿クリームやヘアオイルにハーブの香りと薬効を添加することが容易になる。
水蒸気抽出にはハーブを大量に使う必要はあるものの、精油の方は芳香蒸留水よりも保存が利く。利用法もかなりのバリエーションがある。
商業的価値が高い品と考えられるので、与四郎おじさんが商売の幅を広げるチャンスになるはずだ。
蘭引、これを有効活用しない手はない。
私にとっても、与四郎おじさんにとっても、Win‐Winなものが作れるのだから!
「芳香蒸留水に香油、か」
熱を込めて語る私に、おじさんたちの視線が向けられる。
あれ? 思ったより理解が得られていない感じだ。
丿貫おじさんは小首を傾げているし、与四郎おじさんは考え込むように顎に手を当てて私を見ている。
この時代の男性には、美容品の重要性をわかってもらえなかったのだろうか。
前世では男性もスキンケアくらいする時代だったけど、今は違うようだし戸惑わせてしまったのかもしれない。
「お、おじさん?」
「……」
気まずくて声をかけてみるが、返事はない。
あれ、これ……戸惑いじゃなくて不審の目か?
よくよく見れば、特に与四郎おじさんの目が剣呑だ。
明らかにいつもと違う。よく見えない穴の奥を、冷たい金属棒で深く探るような目をしている。
探られている。
私の中を、私の正体を見透かそうとされている。
知らず、固くなった唾液が喉を伝う。
どうしてこんな恐ろしい目を私に、と思いかけてはっと気づいた。
六歳児がいきなり超珍しい舶来品の、聞いたこともない使用法を話し出す。
冷静に考えて、あやしすぎる。おじさんたちが不審がるのも無理はない。
ヤバイ、調子に乗りすぎた。
堺の大商人に妙な疑いを持たれたら、非常にまずい。
私だけでなく、山内家になんらかの不都合が発生しかねない。
「あっ、あの、与四郎おじさんっ、この話ね、前に私がいた長浜の港で、その」
焦って言い訳を考えるが、上手く思い付かない。
まずい、舌が回らない。頭が白くなってくる。
もっと気を付けるべきだった。思慮の浅い自分が嫌になる。
じわりと、涙が滲んだ。
「お与祢」
混乱が頂点に到達しかける私の頭に、あたたかい手が触れた。
はっと顔をあげる。丿貫おじさんが、ふんわりと笑っていた。
優しい、おおらかな笑みだ。いつもと同じ、私を見守ってくれている丿貫おじさんが、目の前にいる。
そう認識した途端、私の中の不安や恐怖がするりと解けた。
「与四郎殿」
丿貫おじさんは固まる私を抱き寄せて、与四郎おじさんに向き直った。
「そなたな、女童相手にそないな目ぇしたらあかんえ」
静かにたしなめる声が、茶室に染み渡る。
一拍置いて、与四郎おじさんの怖い気配が霧散した。
みるみる与四郎おじさんの表情から、険が取れていく。
ついで彼の顔に表れたのは、しまった、とでもいうような感情だった。
「お、お与祢ちゃん! 堪忍な!」
与四郎おじさんが、突然がばりと頭を下げた。
「堪忍! 堪忍な! 小さいおひぃさんに凄んでもて、ああもう、わて、なにやっとるんやろ!」
「お、おじさん、顔を上げて!」
おそるおそる、といったふうに与四郎おじさんが顔を上げた。
その顔はもう、すっかりいつもの与四郎おじさんだった。
表情が豊かで、裏表がない。そんな楽しいおじさんに戻ったと確認して、私はほっと胸をなでおろした。
「怖い顔してほんま堪忍なあ。あんまりにも珍しやかな話やったもんで、つい商人の血が騒いでしもてな」
なるほど、私の話が与四郎おじさんの商売心をくすぐったのか。それもうっかり理性を吹っ飛ばすくらいに。
半分理解できたような、できないような。
違和感ともいえない何かはあるが、とりあえず頷いてみせる。
あきれたように目をすがめている丿貫おじさんの腕から抜け出して、与四郎おじさんに訊ねる。
「香油や芳香蒸留水のこと、商人さんから見ても興味深い話だった?」
「もちろんや! 作ってみんとわからんけどな、ええもんができたら売れると思うで」
与四郎おじさんが、にっと楽しげに笑う。
「ええと、その香油を作るには、水も薬草もぎょうさん要るんやな?」
「うん、たぶん水だけで一斗(約18リットル)くらいは必要だと思う」
「ほんならこの蘭引だけでは、香油は採れへんっちゅうこっちゃなあ」
その通りだ。
芳香蒸留水を得るだけなら小さい蘭引で十分可能だが、精油を採取するには容量不足だ。
しかし、何リットルも水やハーブが入る大きい蘭引はない。
技術的に無理なのか、ただ輸入されていないのか。
お金持ちの与四郎おじさんも、そういう蘭引は見かけたことがないそうだ。
これはもう、大きな蘭引を作るしかない感じか。
日本の職人さんの腕は良いから、見本さえあれば作れないことはないはずだ。
蘭引の構造は、そこまでややこしいものでもないしね。
でもそうすると、それなりに製作に関する時間がかかりそうなんだよね。
それが私や与四郎おじさんにはもどかしい。できるだけ早くエッセンシャルオイルを作って試してみたいのだ。
なんとか待ち時間を解消する方法はないものか。
「与四郎殿、蘭引やけど数はあるんか?」
うんうん頭を抱える私たちに、ぽつりと丿貫おじさんが呟いた。
「数? 好事家に売り付けたろ思て、五つほど仕入れたるで」
与四郎おじさんが、眉を寄せながら答える。
無精髭を撫でて、丿貫おじさんが天井を見上げた。茶釜から上る湯気を目で追っている。
何かを吟味するような仕草をすることしばらく。丿貫おじさんが、ぽんと膝を打った。
「ほんなら、五つの蘭引で同時に薬草を蒸留したらどないや」
「「!」」
私と与四郎おじさんの目が、限界まで開く。
驚きを隠せない私たちに、丿貫おじさんがにっと口の端を持ち上げて続けた。
「これ一つに入る薬草と水は、一升かそこらやろ。それが五つあったら五升。
一斗には半分足らんが、試してみる価値はあるんやないかいな」
「……確かにのう。考えてみればそうやな」
本当にだよ。こんなに簡単なこと、なんで思い浮かばなかったんだろう。ちょっと恥ずかしい。
「じゃあ、与四郎おじさん。手持ちの蘭引、全部貸してもらっていいかしら?」
気を取り直して、与四郎おじさんに向き直る。
返事はすぐ戻ってこない。おじさんはこめかみに指を当てて、なにやら考えているふうだ。
ややあって、半分に落ちたまぶたがぴくりと動く。
何を思い付いたのだろうか。大きな瞳に、鋭い光が一瞬宿る。
「お与祢ちゃん。貸すのはやぶさかやない」
与四郎おじさんが、顔を上げる。
そうして、片頬だけを持ち上げて、ひたりと私を見据えて言った。
「ただし、貸し賃を用意できたらや」
その言葉に、ぴたり、と私は固まった。
「貸し賃……?」
「せや。高価なもんやからな。無料で貸したら損やんか」
そんな殺生なと思ったが、笑う与四郎おじさんを否定できない。
蘭引は高級品で与四郎おじさんがわざわざ輸入した商品だ。
高価な商品をほいほい無料でレンタルできるわけがない。
使用したいという人に与四郎おじさんがレンタル料を請求するのは、当たり前の権利だ。
私がお姫様でも関係ない。だってこれは豪商が行う商売の一環なのだ。
たかだか二万石の大名の姫が無理を通せるはずがない。
「……ちなみに貸し賃はおいくら?」
ぐうの音も出ない正論にしょんぼりしながら、とにかく聞いてみる。
山内家に出せる額なら母様にねだろう。
ちゃんと説明すれば、好奇心旺盛な母様のことだ。絶対にOKしてくれると思う!
「ふむ、そやなあ。蘭引五つ合わせて、銭で百貫でどうや!」
にんまり笑顔の与四郎おじさんがやたら元気に提示してきた。
は? ひゃっかん? 幾らよ、それ。高いの? 安いの?
まったく百貫の価値がわからない。だってお金なんて、与祢になってから触ったことも使ったこともないんだもの。
困って丿貫おじさんに視線を送る。
こういう時に大人を頼っていいのが子供だ。ちょっと高いかどうか判定してくれい。
「丿貫おじさん?」
しかし丿貫おじさんの反応がない。
え、うそ。おじさん、なんか固まってるんですけど。
なにごとにも動じない人にしては珍しい反応に、嫌な予感がする。
もしかして高いのか、百貫。不安になって丿貫おじさんの袖を引っ張る。
それでようやく我に返ったおじさんが、くわっと目を剥いた。
「与四郎殿、そなたそれはぼったくりやろ!」
「そうかあ?」
「百貫やで、百貫! どう見積もってもそないするかいなっ」
「ちょっとちょっと、百貫ってそんなに高いの!?」
やいやい言い合う老人二人に割って入る。
一瞬ふたりとも、不思議そうな顔で私を見た。居心地の悪さをごまかして、じとりと睨み返す。
どちらも何かを理解したようにため息を吐いた。
え、いきなりなん。私、変なことでも言った?
「あんなあ、お与祢。銭百貫て言うたら、石高に直してだいたい四百石やねんで?」
「へえ、そうなんだ。で、丿貫おじさん、それって高いの?」
「……山内家の奉行殿の俸禄とおんなしやで」
え? 奉行って言ったら、うちでもかなり偉い家臣の役職だよね?
俸禄ってなんだっけ、年俸って言葉に似てるから年俸のことかな?
つまりそれって……ちょっと待って。
え、ちょっと……え、まじで?
与四郎おじさんに、視線を移す。おそるおそる、確かめるように。
私の眼差しに、与四郎おじさんは笑みを崩さない。
そうして、すごく、すごく。実に面白そうな顔で、ゆっくりと頷いた。
「は、はぁぁぁぁああ!?」
気づいたら、お腹の底から声が出ていた。
蘭引五つのレンタル料が重役レベルの家臣の年収と同じ!?
あり得ない! 買い取るわけでもないのに!? 絶対納得がいかない!
「与四郎おじさん、ふざけてふっかけてる?」
「わて、ふざけてへんもん。そのくらいの価値があると思てるもん」
だったらふざけた口調をやめろ。
口を尖らせた顔面にパンチを叩き込みたいような気持ちに駆られるが、強く拳を握りしめて抑える。
殴ったらダメだ。腐っても目の前のじじ、いや、おじさんは堺の豪商だ。VIPに手を出したら後が怖い。
「いやでも、貸し賃だよ? 買い取り額じゃないよ? ちょっとは勉強してくれない?」
「ええー? せやけどなあー」
「そこをなんとか! ねっ!?」
お願い! と手を合わせて与四郎おじさんを拝む。
そんな金額は払えるわけない。絶対に母様が出してくれないと思う。
必死に頼み込むと、与四郎おじさんは視線をちょっと天井に向けた。
ちょっと考えてくれてるのかな? 仏心を出す気になってくれ、マジで。
祈るような気持ちで、与四郎おじさんを見つめること、しばらく。
おじさんの唇が、ゆっくりと開いた。
「ほなら、銭以外の物を貸し賃にしてもええということにしよか」
「物納可……ってこと?」
「物やのうて、知恵でもええで」
「知恵?」
どういうことだろうか。首をかしげると、与四郎おじさんが頷く。
「お与祢ちゃんは、なんやえらい博識やな。
せやったら、面白くて商売の種になりそぉな知恵もまだあるんとちゃうか」
「それは……なくも、ないけれど」
「ほな、それをわてに教えとくんなはれ」
悪戯少年のような光を目に宿した顔が、ぐいっと私に寄せられる。
「蘭引の貸し賃は、銭百貫に値する知恵──これで、どないや」
さあ、商売しまひょ。
笑いを含んだ与四郎おじさんの声が、茶室に響いた。






