御化粧係の朝
御化粧係の朝は早い。
夜明け前から眠い目をこすって起き出して、自分の身支度もそこそこに部屋を出る。
向かう先は私専用となっている厨だ。戸口から覗くと、すでに女中たちが忙しく立ち働いていた。
私が中へ足を踏み入れると、気付いた女中たちが一斉に手を止めてこうべを垂れる。
「皆、おはよう。準備は整っている?」
「はい。万事滞りなく」
「よろしい。では今日もよろしくね」
私の言葉と同時に、女中たちが行動を再開した。
まずは朝一番の大仕事、大量のお湯を沸かす作業だ。
ずらりと一列に並ぶかまどへ、赤ん坊が一人入りそうな大釜が掛けられていく。釜へ水がなみなみ注がれ、すぐさまかまどへ薪がたっぷり焚べられた。
さすが天下人の城だ。薪の質がすこぶる良いから、苦もなく強火力を得られる。
そんなことを考えている間にお湯が沸く。次はお湯を、各部屋用に分ける作業だ。
並べた洗顔用の角盥へ、それぞれ手のひらほどの布袋を一つ二つと入れていく。
袋に詰めてある物は、丁寧に炒って挽かせ、一度煎じてから乾かしたハトムギだ。
ハトムギは肌の新陳代謝を促進する効能を備えている。特に保湿と美白への効果は抜群だ。
熱々の湯で淹れて蒸気を顔に当てつつ、ほどよく冷まして顔を洗うと実に良いスキンケアになる。
袋を入れた角盥から順に、女中たちが静かにお湯を注いでいく。
独特の香ばしい匂いが、ふわりと厨に立ちこめた。
「おはようございます、御化粧係殿」
見計らったようなタイミングで、軽やかな声が戸口から響く。
振り向くと、色鮮やかな小袖も眩しい側室方付きの女房たちの姿が見えた。
毎朝ながら、みんなオフィスメイクがばっちり決まっている。
「皆様、おはようございます」
「今朝は良い日和よねえ」
「ええ、ようやく春めいてきましたね」
入ってきた彼女らと、口々に気安い挨拶を交わし合う。
城の女房の中でも最年少に近い私だが、彼女らの態度はおおむねフレンドリーだ。
御化粧係の元締めという立場のおかげもあるが、せっせと試供品のコスメを配って人付き合いをしてきた成果でもある。
「でも、あともう少し温くなってくれればいいんだけど」
「わかる。練白粉が緩みにくくて嫌になっちゃうわ」
「艶紅もさぁ、毎朝冷えていて困るのよね」
ぽろりと誰かのこぼした愚痴に、みんなそろって頷いた。
確かに外気温が低いと、練白粉の伸びが落ちる。
艶紅も固まりやすいし、冬場はお化粧の時間が長くなりがちだ。
「御化粧係様、どうにかなりませんの?」
「んー、そうですねえ……」
顎に手を当てて宙に視線を投げる。頭の中の知識を漁ると、いくつか思い浮かんだ。
その中の一つ二つは、すぐ揃えられる材料で試せたはずだ。朝の仕事の後で時間があったらやってみようか。
「いくつか思いつく方法はございます。良い物が出たらお知らせいたしましょう」
「まことにできますか?」
「お任せくださいまし」
集まる視線を受けて、まだ小さい胸を軽く叩いてみせた。
「私は御化粧係でございますから」
不敵に笑って、自信満々に言ってのける。
化粧に関する諸事万端は、私に任された仕事だ。最善を尽くし、最高を作り出す義務がある。難しいことも、必ずやり遂げてみせよう。
返事を聞いた女房たちの顔に、満足げな笑みが漂った。
「よろしくお願いしますね、御化粧係様」
「はい。朗報をお待ちくださいませ」
私たちが笑み交わしたところで、女中のまとめ役が支度が整ったことを告げた。
話を切り上げ、角盥と化粧箱をそれぞれ渡していった。
側室方は皆競って趣向を凝らしたお道具を用意している。扱いには神経を使うが、区別しやすくてありがたい。
黒漆塗りに蒔絵の御所車紋様が豪奢な一式は竜子様。
透漆塗りに朱の梅鉢紋を配した清楚な一式は摩阿様。
朱塗りに金銀箔で桜の花が散る可憐な一式は茶々様。
それぞれの角盥には熱いハトムギ茶が入っているが、茶々様のものはできたてのハマナスの芳香蒸留水を入れてある。
茶々様はお腹に赤ちゃんがいるのだ。解毒作用があるハトムギ茶はお勧めできない。
だから代わりの芳香蒸留水だ。柔らかな甘さの芳香で、妊娠中の気鬱も少しは晴れるだろう。
各々の道具を持たせた女房たちを送り出してから、螺鈿で上品な花鳥文様を施した角盥の用意にかかる。
ハトムギの茶袋を三つ入れて湯を張り、特製のぬか袋を添える。
昨冬に仕込んだ柚子の芳香蒸留水も、たっぷり瓶子に入れて封をした。
これらは私が仕えているお方の物だ。万端に支度を整える仕事は、誰にも任せられない私の務めである。
「お与祢様」
角盥に蓋を被せたところで、山内の実家から連れてきた侍女が声をかけてきた。
「お支度、整いましてございます」
侍女の後ろで女中が、私愛用の赤い化粧箱を捧げ持っている。化粧道具の点検が済んだようだ。
ひとつ頷いて、女中から化粧箱を受け取った。
準備完了。お仕事開始だ。
「では、参りましょう」
先頭を切って厨を出る。小気味の良い衣擦れを零し、私の後ろに侍女たちが続いた。
私の厨は表と奥の境目、中奥にある。
仕事場になる奥までは、ウォーキングにちょうどいい距離だ。
朝の心地良い空気を楽しみつつ、足取りも軽く主人の居室へと向かう。
あっという間に辿り着いた艶やかな牡丹が咲く襖の前には、同僚の女房が控えていた。
にこりと彼女と笑み交わして、朝の挨拶をする。
「おはようございます、おこや様」
「おはよう。ちょっと遅かったわね」
「申し訳ありません。今朝は少々支度に時が……北政所様はお目覚めでしょうか?」
「ええ。あなたをお待ちよ」
すっとぼけながら襖の方へ向き直り、私と侍女たちが平伏する。
くすくす笑いを噛み殺しながらおこや様が、部屋の中へと声を掛けた。
「お与祢殿が参られました!」
凛とした呼びかけに、するすると襖が開く。
ふんわりと白檀の香が室内から溢れてくる。これこそ私の職場の香り。敬愛する主の薫香だ。
「おはよう、お与祢」
女性にしては低めの柔らかい声が聞こえてくる。面を上げよ、と促されて平伏を解いた。
もたげた視界が広がる。障子越しの柔らかな光が満ちる部屋の最奥に、寝間小袖の女性がいた。
黒々とした長い髪に、柔らかな色合いの白い肌。品良く鼻筋が通ったうりざね顔の輪郭は、実に優美な曲線を描いている。
しかし彼女の容貌で最も印象的なのは、目元だ。
すっきりとした切れ長の奥二重で、まっすぐ前を見つめる瞳は理知的な輝きを宿している。
年の頃は四十路ほど。娘と呼べるほど若くはない。
けれども、老女と呼べるほど老いてもいない。
絶妙な年齢特有の魅力を、彼女は最大限に発揮していた。
そんな百花の王たる牡丹がごとき、威厳と豊麗さを備えた彼女こそが私の主人。
ほどよい緊張感を体にみなぎらせ、私はゆっくりと口を開いた。
「北政所様におかれては、今朝もご機嫌うるわしゅう存じます」
姿勢を伸ばして表情を緩め、彼女から賜った大切な化粧箱を捧げ持つ。
「お待たせいたしました、御化粧をいたしましょう」
今をときめく天下人・豊臣秀吉の北政所──寧々様は、今日も今日とて美しく微笑んだ。
時は天正十七年。
ここは京の都、天下人が築いた都の華たる聚楽第。
私の名は、与祢。
山内与祢という。
父は近江長浜二万石の城主である山内対馬守一豊。
母はその正室である千代。
功名が辻を夫婦二人三脚で駆け抜けて、戦国の果てに土佐二十万石の礎を築いた彼らの娘が私である。
本来ならとうに夭折したはずの私は今、数え一〇歳にして史実ではありえない人生を歩んでいた。
───聚楽第の女たちの頂点、北政所様の御化粧係として。