不老不死
あなたは、デジタルツインというものを知っているだろうか。
NET上に存在し、あなた本人が知るよりも、あなたを正確にコピーしているあなたのデータのことだ。
すでにそれとAIを組み合わせることで、故人をデジタル空間上に甦らせることができるところまで、技術は進んでいる。
これは、そんな技術がもう少し進んで、特に特殊なものではなく日常的になった少し先の未来のちょっとしたエピソードである。
ジャックは血まみれのナイフを手に持って、床に転がって虚ろな目をしたチェンの死体を眺めていた。
まずい——。まずいことになった・・・。
脅すだけのつもりだったのに——。
呆然としたのは数秒だけで、ジャックはすぐにナイフをその場に捨て、返り血を浴びた上着もその場に捨てた。
証拠もへったくれもない。
誰の仕業かは複数の監視カメラがしっかり捉えているし、そのデータはすでにNET上に「共有」されてしまっていて、決して削除はできない。
このまま警察が来るのを待って、殺人罪で判決を受けるか——。
それとも限りなくゼロに近い「自由」の可能性を求めて逃げるか——。
ジャックは一瞬の逡巡の後、外へ向かって駆け出した。
コンドミニアムの玄関ホールを飛び出すと、外の通りはすでに人通りがほぼ無くなっている。
端末で無人タクシーを呼び、それが到着するまでのほんの2分少々の時間を、地団太を踏むような心持ちで待つ。
無人タクシーが到着して、客用座席のドアが、夢の中みたいにゆっくりゆっくり上がってゆく。
早く!
は・や・く! 何分かかるんだ!
実際の時間では、ドアが開くのには2秒もかかっていない。
ジャックは全開するのを待ちきれず、すべり込むように乗り込むと、行き先を告げた。
「自然公園前!」
『自然公園はすでに閉園時間を過ぎております』
タクシーのAIがわかりきったことを「親切」に告げる。
「構わない。そこに用事があるんだ!」
タクシーは走り出した。
市街地から遠く離れた「圏外」を目指すのだ。
電波圏内ぎりぎりの「公園前停留ポイント」でタクシーを止めると、端末をかざして支払いをすませた。
幸いまだ口座は止められてはいなかったようで、タクシーのドアが開き、外に出られた。
とりあえず、ここまでは無事に来られた・・・。
ジャックは肩を大きく動かして、安堵の息をついた。むせるような初夏の緑の匂いがジャックの鼻腔の中に充満した。
街の中ではけっして嗅ぐことのできない森林の体臭だ。
ここまでの行動は完璧に把握されているだろう。それはデータとしてNET上に残っており、すぐに警察が手に入れるはずだ。
その場所でGPSの入った端末を捨て、着の身着のままで公園を抜け、山へと入る。
逃げる——とすれば、あらゆるデジタル監視の圏外に出るしかない。ジャックは、その「自然保護エリア」の奥へ奥へと足を進めた。
水は、沢にある。
問題は食べ物だった。
ポケットには食べかけのチョコレートの箱がある。4〜5粒ほど残っているはずだった。
もちろん、街に買い出しに戻るわけにはいかない。いたるところに防犯カメラがあるし(だいたい、あんなモノあったって、それで思いとどまるような理性の残ってるヤツにしか効き目はないのに——)そもそも、支払うための端末は捨ててしまった。
もちろん「現金」など持っていないが、たとえ持っていたとしても、そんなものを受け取ってくれる店は犯罪に絡むダークな店しかない。
下手すれば、警察などよりはるかに危険な連中に目をつけられかねないのだ。
原始人のようにして、この山の中で食うものを見つけていくしかない。
大丈夫——。人間はもともと、こういう山の中で暮らしていた生き物なんだ。
しかし、実際に食べ物を見つけようとすると、ジャックは自分がいかに知識をNET検索に頼っていたかを思い知らされた。
端末のない今、何一つ確実な知識を持たないジャックが、この大自然の中で食べるものを見つけることはほとんど不可能に近かった。
食べられそうに見える草の若葉などを恐る恐るかじってみるだけで、あとは水を飲むばかりの生活では、3日もするとモノを考えることすら億劫になるほど体力が萎えてきた。
チェンとはなんで言い争いになったんだっけ——?
そうだ———、あいつは、今のデジタル社会システムをもっと進めることで、人類にとってのユートピアが訪れるとかなんとか言いやがったんだ。
僕は、人間は自然の肉体を持ち、自然とつながる自由を持たなければ、人間じゃなくなる——って・・・。
それで2人とも激昂して・・・。
ははは・・・。何が「自然とつながる自由」だ——。とっくにそんなもん、無かったじゃないか。
このザマを見ろ。
どうする?
街に下りて捕まる?
それともいっそ・・・
いっそ、どうするって——?
あいつは今頃、あいつの言ってた「デジタルツイン」として甦ってるんだろう。
僕は・・・・僕は、どうしたいんだ?
5日目になると、もう何でもいいから口の中に入れた。そして、下痢をして、いよいよ体力を失った。
ジャックは沢に頭を向けたまま、水を飲む気力も失ってうつ伏せになっていた。
眠気が襲ってくる。
うつらうつらしているうちに、いつの間にか意識を失った。
眼が覚めると、真っ白な部屋の中にいた。
「あ、目を覚ましたよ。」
「ほんとだ。」
白い壁の前に5人の立体映像が存在していた。
「でもよく見つけたわね。」
「そりゃあ、『自分』だからね。どこへ行って何をするかは一番分かってるよ。」
そう言って笑っている1人は、まぎれもなく自分——。隣にチェンがいて、「早くデジタルツインになった方がマシ」と言って自殺したガールフレンドもいる。残り2人は知らない人物だった。
なぜ、まだ生きてる僕のデジタルツインがいる?
僕が殺人犯だからか?
「さて——」と見知らぬ1人が言った。
「ジャックさん。今、あなたは2人存在してしまっています。どちらかを消去しなくてはいけませんが——、どうします?」
「そりゃあ、決まってるでしょ。今さら、あの古い愚かなままの肉体に戻って、『殺人犯』として終身刑で肉体の機能が停止するまで檻の中で暮らす——?」
デジタルツインのジャックが、肉体を持ったジャックを見下ろして言った。
「せっかくこうしてチェンとも分かり合えたのに、また1からノロマな思考をあの肉体の中でやり直せって?——あり得ないでしょ。」
「あはは。君ならそう言うと思ったよ。」
仲良く和んだ雰囲気の旧知の3人と、技術官らしい2人の立体映像は、そこで途切れて消えた。
「ま、待てよ!」
ジャックは、今しがたまで立体映像が投影されていた白い壁に突進した。
「おまえにそんなこと決める権利があるのか!? 僕がオリジナルだぞ!」
ジャックは白い継ぎ目のない壁を叩き、何かの手掛かりを探そうとその辺りを闇雲にまさぐった。
天井付近で、シューッという音が聞こえると、ジャックの頭の芯に鉛の塊が入れられたように、猛烈な睡魔が襲ってきた。
眠い。
めちゃめちゃに眠い。
くそ! 負けるもんか!
これは『眠り』なんかじゃないだろが——!
しかし、ジャックの身体からは急激に力が抜けてゆき、白い手掛かりの無い壁にすがるような格好で膝を折った。
朦朧としたジャックの意識が最後に捉えたのは、床に顔が近づくほど甘い匂いが強くなる——ということだった。
あとがき
2013年、エドワード・スノーデンは、本人の知らないところであらゆるデジタルデータが収集されている事実を内部告発し、警告を発した。
彼は2019年、「スノーデン独白」という本の中で、こう主張する。
データの管理権は本来、基本的人権であり、それを収集した者ではなく、それが発生する自然人としての個人に帰すべきものである——と。