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『今どきの魔王子』の処世術  作者: ディアス
14/20

国民の祝日『ラッキースケベの日』



俺が即位したら、100連休だ!






 女性が多いとその集団の雰囲気は柔らかくなると聞いたことがある。これが極端に女性ばかりになるとがさつになるという話だ。

 後者については霊血の同胞(シストレン)を見ていれば充分に納得できる。


 そして、俺たちを保護してくれたナロウ星雲騎士団は前者に該当した。良識的(まとも)な女騎士が多く、そのためか本隊の野営地もハーデンの森で見た星辰騎士団と比べ、落ち着いた印象だった。


 ま、それも聖エピスと戦端を開くまでのことに過ぎないのだろうが。


 現在星雲騎士団はナロウの南境(みなみざかい)で聖エピスに対する警戒任務にあたっている。

 モーブとの戦いでは後方支援が主な任務だったため、聖エピスの動きに合わせてこちらへ動員されたそうだ。


 敵軍の侵攻に即応できるよう見晴らしのよい小高い丘に陣を構えていた。そこでは防御柵が控えめに言っても城壁と呼べそうなほどのものが設えてあり、小屋も多く、単なる野営地というより砦の様相を呈していた。

 また国境沿いにも簡易な砦を幾つも建設して斥候が絶え間なく砦間を行き来している。


 その警戒体制のおかげで俺たちはすぐに発見してもらえたのだ。


 星雲騎士団の女騎士たちは警戒しつつも衰弱したイスファルやモリルを木々に隠れるようにある傷病者テントへ連れていってくれた。


「レイリス様、お休みになれるテントをご用意しました。セイヴィニア殿下とジェジェ殿には別のテントをご用意したので、こちらへ」


 セイヴィニアを案内に来た騎士たちは完全武装で、まるで凶悪な囚人を護送するかのように彼女らを連れていった。そこまで警戒することに違和感を覚えたが、いやいや、と思い直す。そーいや、あいつらは最凶の部類に入る捕虜だったな。


 ま、とにかく、三人は二組に別れてカーキ色のテントへと案内されていった。

 魔術と魔力を使い続けたせいもあり、レイリスは足元がおぼつかない様子で、目の回りなどは人間界にいる狂暴な猛獣パンダのようになっていた。相当頑張っていたから、あとで褒めてやることにしよう。


 で、男の俺はその場に残された。

 まさか野ざらしかと心配したが、それは杞憂で、すぐに別の星雲騎士が迎えにやってきた。最近は魔王子らしい扱いを受けることが少ないので、自分の価値を見失いそうでいけない。


 騎士によって軍議用の大型テントへ丁重に案内されると、そこには星雲騎士団団長と剣光騎士が待っていた。


「アマリア・グレイス?」


 思わず名を呼ぶ俺へ頭を深々と下げるアマリア。


「はい。殿下がご無事で何よりでした」


 見知った人物がいて、俺の顔はほころんだ。ナロウ陣営だからといって全員が必ずしも味方とは限らないことは、これまでの経験でよくわかっている。

 彼女と一緒にいる団長は直尖角をもつエルフ族の中年女性で、兜をかぶるためであろう、長い金髪を編み込んでお団子頭にしていた。名前は知らない。


 俺は団長に促されてテントの中へ足を踏み入れた。


 ここには諸将と激論を交わす長いテーブルがおかれ、木製の薄汚れた丸椅子が等間隔に並べてあった。団長席と思しきところはさすがに背もたれのあるやや上等な椅子だった。


 卓上に目をやると、この付近の地形を描いた地図が広げてある。なるほど、軍議をする際にはこの地図を睨みながら、あーでもない、こーでもないと考えてるふりをするのか。それぐらいなら俺でもできそうだな。

 また、地図上には描かれた地形に合わせて兵や砦のミニチュア模型が設置してあった。

 それら模型は意外に形が凝っていて、特に兵隊の駒にはアマリアや団長など騎士団の主要人物に似せた駒が多かった。わかる! わかるぞ、そのこだわり!


 つい模型に見入っていると、団長が咳払いをして俺の注意を惹いた。顔をあげると、二人と目が合う。


 アマリアも団長も兜を除いたすべての甲冑を身につけていて、決してリラックスした雰囲気ではないことが見て取れた。俺たちが聖エピスから脱したことを考えれば、当然のことだ。南から攻められる危険度は極めて高まったと考えていい。


 ナロウ星雲騎士団の団長は手近な椅子に俺を座らせてから膝まづき、恭しい口調で俺の無事を喜んだ。


「このたびはポオ殿下が聖エピスにさらわれたと聞き、国境線を厳に警戒しておりました。殿下のご無事が確認できて、星雲騎士団一堂ホッとしています」


 本当かよ。どうせならレガートの奴が国境を越える前に見つけてくれればよかったのに。そう思ったが、俺は如才なく彼女の手をとって答える。


「ありがとうございます。あなたたち、星雲騎士団がいてくれて大変助かりました。感謝しています」


「いえ、ナロウ騎士としての本分をまっとうしたまでです。それより、殿下、殿下の魔王位継承を問う長老会議の開催日が迫っています」


 驚いて団長を見返す俺。バッツの話ではそれなりに時間がかかるとのことだったが、俺がさらわれてから、せいぜい一週間ぐらいしか経っていないはずだ。


「それはどういうことですか?」


 そちらの事情はアマリアが説明してくれた。


「殿下がさらわれてから急に動きが早まりました。スリザール伯爵からの書簡によると、それまでザックスリー公爵派閥の魔貴族が出欠の回答をのらりくらりと遅らせていたのですが、殿下がさらわれたとの噂が流れるや一斉に出席の回答を出したそうなのです。そのため、殿下が見つかり次第、早急に王都へ移送するようにとの強い要請をスリザール伯爵より承りました」


 長老会議では所領をもつ多くの魔貴族が集まり、一家門一票の投票をおこなう。そこで提起された案件については、半数の賛成票が集まれば承認される。

 逆に言えば、参加者がその半数に満たなければ、長老会議そのものが開催できないことを意味している。


 ザックスリー公爵はそれを理解して自派閥の魔貴族の参加表明を遅らせて多数派工作の時間稼ぎをしていたのだろう。

 ところが、俺がさらわれたために逆に急いで開いて、当人不在のうちに俺の魔王位継承を否認させようと企んだ、ということだ。ナロウで一番の大魔貴族がなんともセコイやり口じゃないか。


 とは言え、有効な手段には違いない。


 団長の話では、長老会議は今日を入れて三日後に開催されるそうだ。急いで戻るとしても馬では間に合わない。ここから馬で五日の距離らしい。

 彼女自身やアマリアは任務があって参加ができないため、代理人を立てることになっているそうだ。


 さすがに俺自身の欠席が相当な不利をもたらすことは想像に難くない。


 俺の顔色が真っ青になったのを見て、アマリアが意気込んで進み出た。


「殿下、私によい考えがあります」


 マジか。彼女も俺の中では脳筋カテゴリなので、提案されるアイディアの想定はゴリ押し。例えば、都まで全力疾走を続ければギリギリで到着できる、とかさ。


 現実的に最速な手段は、この陣で一番の駿馬とその乗り手を仕立ててもらって、俺だけでも一足先に都へ向かうことか。

 だが、そうすると、凶悪囚人セイヴィニアをおいていくことになる。俺の味方をするとは限らない星雲騎士団の連中に彼女らの管理を委ねるわけだ。それは出来ない。


 百歩譲ってアマリアが俺の指示に従うとしよう。で、明日いきなり聖エピスとの戦端が開かれたら、セイヴィニアの監視兼警護などやっている余裕はなくなる。

 また、レイリスにそれを任せることも出来ない。彼女は博識な魔姫であり、ガリ勉タイプの虚弱な女の子にすぎない。筋肉隆々なジェジェの隣に立たせただけであのミノ娘の精気にあてられ、倒れてしまいそうな気がする。


 実に悩ましい。俺は頼るように彼女を見た。


「よい考え?」


「はい、私にお任せください。この陣の近くに小高い山があり、ヒッポグリフが生息しています。ヒッポグリフの翼なら一日もあれば都につくでしょう。三時間ほどいただければ、このヒッポグリフを捕まえて参ります」


 と硬そうな甲冑の胸を叩くアマリア。甲冑の形状から察するにあまり豊かではなさそうだな。

 いやいや、そんなことに注意を払っている場合じゃない。思ったよりまともなアイディアだった。いや、ごめん。バカにして悪かった。


 他によい手も思いつかないので、俺はその申し出を受けることにした。ヒッポグリフの体は馬より一回り大きい程度なので、乗れるのは二人がせいぜいだ。

 しかし、何はともあれ、俺が長老会議に参加することが先決である。捕虜の扱いはそのあとの話だ。視線を胸から外して頭を下げる。


「わかりました。お願いします」


「ハッ。つきましては、殿下、お願いがあります」


「何でしょう?」


「先日拝領いたしました『手ぬぐい』を、ぜひ我がグレイス家の家宝にするお許しを」


 俺は、うっ、とのけ反った。まだ言っているよ、こいつ!

 洗わずにとってあるとか言うなよ。あんなクソ汚れた手ぬぐいしか与えられないなんて、俺が恥ずかしいわ!

 俺は自然とへの字口になるのをこらえてコケティッシュに微笑んだ。


「もし、あなたが私の窮地を救ってくださるのなら、もっといい物を差し上げましょう。剣光騎士にふさわしい品です。だから……あの手ぬぐいはちゃんと始末してくださいね。ウフッ」


 剣光騎士にふさわしい品、というフレーズにサキュバスの瞳は輝いた。かしこまりした、と言うやアマリアは矢のような勢いでテントを走り出ていった。あのやる気、グレイス家の栄誉のためなら、俺の風呂の残り湯すら家宝にしかねない。


 エルフ族の団長が首をかしげつつこちらをチラリと流し見る。手ぬぐいが家宝、との疑問符の見えそうな呟きも聞こえた。この上なく有能なサキュバス族の戦士を手ぬぐいごときでどうやってたらしこんだ、と問いたげな顔をしている。

 そうだよね。俺だってそう思うよ。でも、あれは彼女が勝手に言ってるだけなんだよ。頼むから、そんな目で俺を見ないでくれよお。ヨヨヨ……。


 その後、俺は軍議用テントに残された。面識のないもの同士となり、沈黙の帳がおりる。だから、こういう空気は俺のもっとも苦手とするところなんだって。

 俺がモジモジしていると、小さくため息をついた団長は俺がさらわれてからの宮廷の状況を教えてくれた。


 予想したとおり、さらわれたことで宮廷での俺の信用はガタ落ちしたらしい。モーブの軍団長を捕虜にした英雄から一転、やはり頼りない魔王子に過ぎなかったと。

 俺がモーブ軍の陣地でもの凄く辛い経験をしてようやく得た信用はちょっとした油断で失うことになったのだ。


 俺の舌打ちを聞いて団長は再度ため息をついた。それから、アマリアが戻るまでこのテントでゆっくり休んでほしいと言って外に出ようとした。


 ちょうどそのときだ。入り口に人影が見えた。それはオーク族の騎士見習いの青年だった。オーク族ながら鋭杭角と立派な体格をもち、星雲騎士団に入団できることからもエリートであることは明白だ。

 その彼は表情を緊張に強張らせ、視線が不自然に泳いでいる。自分の背後をものすごく意識しているようだった。震え声で訪い(おとない)を告げる。


「し、失礼します。だだだ団長、よろしいでしょうか」


 見習い騎士の怯えっぷりを訝しみつつ団長は言葉を返した。


「いったいどうした?」


「は、はい。ポオ殿下とお話したいと言われたため、お連れしたのですが……」


 と言い淀む。少し要領を得ないのは恐怖のせいだろう。上ずった声から、俺は何となくその理由を察した。


「ポオ、私だ。入るぞ」


 案の定、その青年の背後から現れたのは、恐怖の軍団長セイヴィニア・ガラテインだった。


 ま、名乗らずに名乗ったも同然とする傲慢な輩は、俺の知り合いでは彼女だけである。イスファルへの前代未聞の大手術がすんでからというもの、何やら考え込む彼女の姿を見ることが増えた。

 当初は何か不穏な真似を計画しているのではと危惧していたが、そんな素振りを見せることもなく、これまでのところおとなしくしていた。ただし、油断は禁物だ。


 モーブの魔皇女は着替えを済ませており、星雲騎士団のものらしい深い藍色の制服姿で颯爽と入ってきた。そのくせ星雲騎士団団長については一顧だにせず、奥までずかずかと入る。それを見て、騎士見習いは逃げるように他の仕事に戻っていった。


 セイヴィニアはここで一番上等な団長席に座った。そして、さらりと言う。


「そこのエルフ、席を外せ」


 プラチナブロンドを軽く後ろに反らし、下々を見下すような仕種が高慢なことこの上ない。

 呆気にとられた一瞬が過ぎると、団長の表情は剣呑なものに変じた。


 彼女の怒りはもっともだ。今回の戦を最初に仕掛けてきたのはモーブ皇国であり、ナロウの国土の十分の一が奴らによって制圧されたのだ。

 しかも、それにつけ込んで聖エピスが南から迫るという未曾有の危機がナロウを襲っている。その元凶たる軍団長が捕虜の身になりながらも傍若無人に振る舞っているのだ。ナロウ国民なら怒りも湧こうというものだ。


 それでも団長はこらえて言った。


「私はこのナロウ星雲騎士団の団長だ。モーブの魔皇女に指図されるいわれはない」


「ごたくはいい。さっさと出ろ。私は魔王子ポオに話がある」


「何だと……」


 低い声が洩れでた。表情を険しくした団長の視線は素早く動き、捕虜が寸鉄も帯びていないことを確認した。さらに籠手をはめた手が腰に伸びて、長剣の柄頭を撫で回し始めた。上から見下ろすその顔は憎いモーブ皇国の魔皇女に一撃喰らわせる理由をくれと言っているようだ。


「ここは我ら星雲騎士団の評定(ひょうじょう)の場だ。敗軍の虜囚が我が物顔で勝手のできる場所ではないのだ。その椅子から立てッ。ここはモーブではない!」


 その台詞は鼻で笑われた。


 団長から殺気が迸るのがわかった。その気配の向く先はもちろんセイヴィニアだ。団長の腰が沈み、柄をもつ利き手がバネのように弾ける。


 が、その剣は半ばまで抜かれることもなく止まった。


 というのも、団長の殺気を遥かに凌駕する恐るべき気配が発せられたからだ。その気配は一軍を率いる団長だけではなく、端で見ているだけの俺すらも凍りつかせる凄まじいものだった。


 驚いて気配の発生源たる魔皇女を見ると、彼女の美貌は実に凶悪なものへと変じていた。しかし、美しさはいささかも損なっておらず、そこにあるのは怒りではなく、罰を与える支配者の風格だ。これが格の違いというやつか。


 俺が固唾を呑んで見守っていると、唐突にセイヴィニアから魔力が解き放たれた。その魔力は不意に生じて爆風のような勢いを伴い、丸椅子や卓上のフィギュアを吹き飛ばした。


 俺は目をパチクリさせながらも魔力で防御を固めて何とか耐えた。セイヴィニアの螺旋角は光っておらず、どうやら、今のはただのパフォーマンスで神霊力による攻撃ではなかったようだ。

 あの銀と赤黒い光の力は俺たち魔族を害するものだ。そんなものが放出されたら、聖エピスとの戦いの前に星雲騎士団は壊滅の憂き目に遭うだろう。


 さすがにモーブの魔皇女も最低限の分別というものを筋肉製の脳に装備していたらしい。

 ただ、その圧迫感はデズモードの比ではなく、斬りかかってこいと言わんばかりの薄ら笑いが団長を眺めた。これだからマッチョ思考は困る。


 団長は踏みとどまることこそできたが、この強烈な圧力には耐えかねて片膝をついた。その顔面は蒼白ですっかり怒りが消えてしまった。

 もし、噂の神霊力が今と同程度の出力で発現されたら、この陣地がどうなるかを悟ったのだろう。


 頭の高さが逆転したセイヴィニアの表情が満足げなものに変化した。捕虜になりながら敵陣でここまでできるのだから、まあ、確かに凄い奴だよ、コイツは。

 しかし、自由にさせるのもここまでだ。この次に何を言うつもりなのかの想像ができる。取り返しがつかなくなる前に止めに入ろう。


 な~に、デモンストーカーや異世界の覇王、あるいは魔人と対峙するよりは気楽な仕事だ。


 俺はセイヴィニアの放つ気配からするりと脱け出して二人の間に入った。そして、あえて目上がたしなめるように言った。


「セイヴィニア殿下、今の態度はひどいのではありませんか。星雲騎士団は私たちを保護してくれた方たちです。貴女は助けてもらった感謝を述べることもできないのですか」


 セイヴィニアの両目がスゥッと細められた。まぶたが半分以上閉じたが、逆に眼光は倍以上に強くなった。それは、殺人光線と呼んで差し支えがない。

 再び一触即発の気配がふくらんだ。


 だが、逆に俺の瞳は冷めた感を漂わせてだらしなく座る魔皇女を見下ろした。


 セイヴィニアは間違いなく俺より強く、その強さはアマリアがいる状態で星雲騎士団が総力を結集しても勝てるかわからないほどだ。しかし、俺はそこまでの恐怖は感じなかった。


 むしろ、恐怖なら聖エピスの奴らのほうに感じる。生理的に怖いのだ。拷問を楽しみでやるような奴らは、俺とは倫理観、価値観が異なるだろう。

 そういう相手と相対するとどこまでも平行線をたどることになる。つまり、どこまでも理解しあえず、争い続けなければならない。


 その点、彼女は理解できる。なぜなら、聖エピスで酷い目に遭っていたイスファルを救い出したからだ。そういう気持を持てる奴となら共感できる。


 それに何より、こいつの中身は外面(そとづら)より幼い。


 俺は彼女の前で腰をかがめてセイヴィニアと同じ高さに頭を揃えた。わざと呆れたようにため息をついて、いかにも仕方ない奴だなあと子供扱いするところがポイントだ。


「ナロウの魔王子として申し入れます。イスファルたちを介抱してくれたことに礼を述べ、他の椅子に座るなら、許してあげましょう」


「許して()()()だと?」


 言いながらプラチナブロンドの美貌の凶悪さが倍増した。相当怒っている。ごめん、前言撤回、やっぱりこの人怖い。さすがは軍団長、サシで対峙すると迫力が違う。


 こういうときこそ、妄想力と鈍感力だ。

 俺はしばし目を閉じ、聖エピスの万魔王殿(パンデモニウム)で不安そうにしていた彼女の顔を思い出した。


 魔王戦に先発登板しなくてすんだときのあのホッとした顔。そのくせ強がりだけは欠かさない。


 うん、あれはもう少し改良すればツンデレ妄想に使えそうだな。

 所詮は奴も俺の妄想のオモチャに過ぎない。つまり、俺の掌の中の存在と言うことだ! そう考えると、そんなに怖くないな。


 ここでハタと気がついた。これが我が闘争のバイブル不良マンガでいうところの『舐められたら終わり』というやつに違いない。俺も気をつけようっと。


 さて、ここからもうひと演技だ。俺は目を開いてさらに頭を近づけた。不審そうにこちらを見る魔皇女にボソッと呟く。


「魔王戦のときはあんなにかわいかったのに……」


 途端にセイヴィニアの顔面は塗料で染めたように赤くなり、掌でバンと机を叩いた。そして、立ち上がる。さほど強く叩いたようには見えなかったが、硬い天板にくっきりと手形が残っていた。


 挑みかかるような大声が俺の耳をつんざいた。


「部下の世話、ナロウの星雲騎士団に謝意を述べる。以上だ!」


 怒鳴りつけるような言い方だが、礼は礼だ。

 それからセイヴィニアは怒りの矛先を俺に変えて睨みつけてきた。覚えてるがいい、とのたまう声には屈辱を晴らすための決意が込められているようだ。怒らせたかな。


 お礼を言を言わせて席を立たせただけのことだが、大変な難事業を成功させたような達成感を味わうことができた。まあ、上出来だだろう。


 俺は酸っぱい表情で団長に言う。


「セイヴィニア殿下は私に御用があるようです。魔王候補同士の非常に高度な政治的交渉になるでしょう。ところで団長、お名前は?」


 名前を問われて団長は我に返った。


「……はい、私はカレル・バンと申します」


「わかりました。カレル・バン団長、二人だけにしてもらえますか」


 団長は無表情に頷くと素直に従った。


「かしこまりました」


 かくして ナロウ星雲騎士団の団長は呆けた顔で出ていった。去り際にその顔で俺に向かって会釈した。助かったと言っているように見えた。


 二人になるのを待っていたかのようにセイヴィニアが詰問調に尋ねてくる。


「で、私はどこに座ればよいのだ?」


 なぜ俺に尋ねる。傍若無人の化身なら好きに座れよ。


「もう二人っきりだから、団長席でもテーブルの上でも好きなところに座っていい。なんなら地面に寝転がってもいいぞ。だけど、ナロウ国民には自国民同様に敬意を払え。それだけだ」


 そう答えて俺も自分の座るところを探した。団長席は机に引っかかって無事だったが、礼儀を説いた手前そこには座れない。

 たくさんの丸椅子はコロコロと転がって隅に散乱していたが、その近くに傍聴席らしい粗末なベンチがあった。俺はそこによっこいしょと腰を下ろした。


 憮然とした表情でテント内を見回していたセイヴィニアだが、不意に相好を崩して近づいてきた。その表情は先程とは打って変わって雪解けを迎えた春のような微笑を浮かべている。ああ、嫌な予感が……。


「ナロウの都に戻る前におまえと話をしたかった」


「奇遇だな。俺もおまえに相談したいことがある」


 えっ、と戸惑う軍団長閣下。そして、どもった。


「な、何の話だ?」


 何故うろたえる。


「まあ、座ってくれ」


「わかった」


 神妙に頷いて彼女もベンチに腰を下ろした。しかも俺の側面にぴったりとくっついて。やけに密着しているのは喜ぶべきなのか、それとも新手の精神攻撃なのか。


 目下警戒中の俺は当然離れる。すると、奴は再びくっついてきた。ベンチの端まで移動したら、奴もついてきた挙げ句、俺の服の裾をつまみやがった。その上で俺が落ちそうになるぐらいに押してきた。


 俺は股を開いて押し返し、何とか姿勢を保持する。それでも尻がジリジリと横ずれを始めた。やばい、早く話しかけて、少しでも相手の気を逸らさないと。


「むぅ……。なぜ、俺を確保する」


「まだ個人的な同盟の回答を聞いてない」


 その答えを聞くだけなら、密着しなくてもいいだろう。


 正直なところ、この個人的同盟とやらには乗り気ではない。しかし、断るのももったいないと思っている。


 ところで、たまに入る唸りや意味のない間は、俺のささやかな抵抗の証左のため、気にしないでくれ。


「ああ、同盟だな。あれはだな、そう、顧問や側近にしてから……」


 その必要はない、と彼女はかぶりを振る。頭が近いので立派な螺旋角が俺のこめかみをかすっていった。ひええッ……。


「個人的、と言ったはずだが」


「でも、ど……同盟だろ?」


「これは、いずれ孤高の大魔王となる我々だけの話しだ。余人を差し挟むな。おまえが考えて答えるんだ。私も私人として申し出ている。この想いを理解しろ」


 届け、この想い! ハイ、残念、届いてない。


 で、この想いってなんだよ。前に説明された以上のことは理解できねーよ。

 正直なところ、この個人的同盟自体は俺にとって不利な要素はないので、受けてもいいのだが、俺がわかっていないだけで、何か秘密がある可能性がある。


 魔王子としての嗜みであるマンガや深夜アニメの世界ではうまい話には必ず裏があり、切羽詰まった主人公は大抵それに引っかかって、後でひどい目に遭っている。


 だからこそ、おいそれと話に乗ることができない。人、これを深謀遠慮という。


 セイヴィニアは至近距離から穴が開きそうな力強さで俺の顔面を凝視している。やっぱり、これは圧迫面接と言う名の精神攻撃じゃないのか?

 俺は少し考える余裕がほしくて、一心不乱に押し返しながら別の話を振った。


「な、なあ、てっきり、このどさくさに逃げる作戦なんだと思ってたんだけど……クッ」


 ビクともしねー!


「それは当初の話だ」


「そうか。だけど、どうやってついてくる許可をとったんだ? 俺なら絶対に許可しないぞ」


 それはな、とセイヴィニアは悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「レイリス姫に聖エピスの恐ろしさを説いたら、二つ返事で連れていくと許可したぞ。どうしてもおまえを助けたかったらしい。そのためにリスクよりもより確実な手段をとったわけだ。私としても今回色々と見聞して考えを深めることができた。ポオ、おまえは信用に足る男だ。もう少しナロウで時間を使うことになっても同盟を結ぶ価値があると考えている」


 捕虜の期間を延長してまでとは、しつこいね。つーか、まったく押し戻せないんですけど! 尻がデカイせいで摩擦力が強いのか!?


「ヌンッ、いつでも逃げ出せるという意味か?」


「フフン、好きに受け取るがいい。それで同盟はどうなんだ」


「まあ、今回助けに来てくれたこともあるし、同盟を結ぶにやぶさかではない。ただ……気になっていることがある。グウウ……」


 そう。どうしても腑に落ちないのだ。むこうも俺が何を気にしているかはおおよそ見当がついているはずだ。

 言葉を切ると、先を促されたので、俺は気になっていることを口にのぼせた。


「お、俺のメリットはいくらでも思い付くんだが、そっちのメリットがあまりにも少ないんじゃないかと思ってね。ングッ……先行き安泰なそっちは、俺の状況次第でこの同盟が足枷になるんじゃないのか?」


「まあ、ナロウでおまえが魔王になることは相当困難だろうな。勢力、立場、資産などを総合的に考えて」


 セイヴィニアも言葉を切ると身を寄せてますます圧迫を強めた。切れ長の涼しげな目元が俺を覗き込む。青い宝石のような瞳で反応を窺っていた。俺が黙って押し返すことに集中していると淡々と話を続けた。


「おまえは私にはメリットがないと言ったが、私にもモーブ国内に競争相手がいる。二人の兄と一人の姉だ。姉上は魔王の地位に興味をお持ちではない。しかし、独房でおまえの言ったとおり、長兄、次兄はともに優れた資質を持ち、魔王位継承に意欲を示している。父上が、どうして女である私を後継者に選ぼうとしているのか、わからないぐらいにな。しかし、それとは別に、私は魔王にならなければならない。そして、大魔王にも……」


 そう言った彼女は決意を秘めた瞳で俺を見つめた。その表情は凛々しく、おそらく俺ではなくその遥か彼方に広がる将来を見据えているのだろう。

 モーブ皇国の魔王に将来を嘱望される彼女の資質とは、まさにこの大魔王を志す気持なのだろう。


 俺はしばし彼女の美しい顔に見とれていた。そして、思い出したかのように言葉を返す。


「つまり、あれか、その競争相手と対決するにあたって、隣国の次期魔王、あるいは魔王が味方なら、お兄ちゃんズへの牽制になると」


「そうだ。それに、聖エピスとはいずれ決着をつけねばならん。そのためにもナロウは必要だ」


 結構正直に話したな。つまり、同盟を結べば、洩れなくモーブ皇国の大変な後継者争いが俺を待ち受けているということだ。当事者じゃなくても。そういうしんどいのはパスだな。


「それなら、ザックスリー親子で充分じゃないか。ムカつくけど、あいつらがナロウ最有力の魔貴族であるのは事実だ」


 そう言った途端に、俺の頭に固いものがゴチンとあたる。セイヴィニアがさらに圧力を強めて頭をぶつけてきたのだ。そのままグリグリと押しつけた。

 息のかかるほどそばに迫る顔は不愉快さに染まり、その捌け口を俺の頭へ求めているようだ。


 それを証明するように悪感情剥き出しの声で彼女は吐き捨てた。


「私があんな連中を信用すると思うのか? 自国を裏切るような奴らなぞ、信頼に値しない。モーブの宮廷勢力図を眺めて、どうせ最終的には二人の兄のどちらかの派閥に入るに決まっている」


「だけど、ヒラルドのバカ、いやザックスリー子爵はおまえを狙ってるじゃないか。ヌ、ヌゥゥゥゥ……」


 し、尻が……。ヘイ、(シリ)! クソッ、他に言うことが見つからん。


「それは私を支配下におくことで、後々二人の兄のどちらにも取り入ることができるようにするためだ。純粋な好意からではない」


 おろろ。こいつも思ったより味方が少ないねえ。てなわけだからして、俺が見事にナロウの魔王となることで、存続が風前の灯な小国であろうとも、彼女の盟友は隣国の魔王となる。俺の実力はともかく、確かに魔王の地位は有効な切り札となるはず。


 なるほどと得心がいったとき、セイヴィニアは体をぶつけるようにして詰め寄った。俺は限界を越えてさらに押される。ついに 尻の下でベンチがサヨナラを告げた。


「お、おい、押し過ぎだ! どぅわっ!」


 ドンガラガッシャーンと俺は椅子から転げ落ちた。男のプライドをかけて踏ん張っていた俺はもろに後頭部から落ちる。目から火花が出たぞ。バカになったらどうしてくれるんだ、コノヤロウ。


 文句をぶちまけてやろうと目を開くや、俺の心は素早く変わり身を果たした。俺の目の前にあるものが、この痛みを光速でブッ飛ばしてくれたからだ。それは、たわわに実る96点のふくらみ。

 同様に落ちたセイヴィニアは四つん這いの姿勢で俺に覆いかぶさっていた。星雲騎士団の制服を押し広げるような二つの連峰が、身じろぎするたびに俺の眼前で揺れている。俺は人間界に数限りなく存在するという神に感謝した。


 こ、これがオタク文明お約束のラッキースケベか!?


 俺は即座に否定する。いや、まだラッキーとスケベが合体していない。

 なぜなら、サイズのわからないほど豊満なバストが俺を誘うように眼前にぶら下がってこそいるが、これはラッキーなシチュエーションであっても、スケベではない。それなら……。


 己が手でスケベを引き寄せるのみ!


 俺は急いでセイヴィニアの腰と背に手を回すと、全力で引き寄せた。鯖折り、ベアハッグ、なんでもいい。とにかく俺はそのときすべてのしがらみを忘れて全力を両腕に込めた。

 俺より遥かに強いはずの彼女だが、さすがに突然のことの対応できない。


 俺はこの隙に胸のふくらみの谷間に顔面を埋め、自分のものではない匂いで肺を満たした。なんか凄くいい匂いだ! よくわからないけど、満たされる~。


 頭のすぐ上で切ない声がないた。


「あ、あァン……」


 これだ! これがスケベだ! ラッキースケベだ! 俺は自分の手でラッキースケベを引き寄せたのだ! 今日はなんてイイ日なんだ。

 俺が魔王となったあかつきには、今日という日を毎年の祝日に制定するぞ! 記念日の名はもちろん『ラッキースケベの日』!


 物理的にも精神的にも幸せに包まれた俺は遠慮なく豊満なバストにグリグリと顔を押しつける。ああ、この柔らかさと(ぬく)もりがたまらない!


「や、やめっ……ああっ……イッ、いぃ……」


 この世の天国~、そう思っていられたのも束の間。地獄の底から響くような恐ろしい声が轟いた。


「……いい加減にしろ!」


 俺の左右のこめかみが錐でもまれたようにキリキリと痛んだ。こ、これは両拳で繰り出される格闘技の中で最高峰とされる伝説の必殺技グリコ!


 そのあまりの痛みに脱力した俺は両腕をほどき、セイヴィニアの手首をつかむ。わかっちゃいたけど微塵も動かない。


「痛い痛い痛い痛い!」


 セイヴィニアはそのまま俺を挟み上げるや流れるようにグリコからアイアンクローへと技を移した。無理矢理立たされる俺には抵抗する余力など毛筋ほどもない。

 魔武技によってかすかに光る右手がこめかみを万力のように圧迫した。骨が砕かれてすでに指先が脳に達しているのではと錯覚するほどの激痛が走る。


 あまりの痛みに俺はジタバタとあがいたが逃れることはできなかった。や、やめろー! 光って唸る右手に頭部を破壊されたら失格になるぅ!


 真っ赤に染まる俺の眼下でセイヴィニアがやはり真っ赤な顔で怒っていた。


「は、破廉恥な奴め! 羞花閉月と名高い私を押し倒そうとは、貴様、死にたいのか!」


「ぐぁああ……。土下座でも何でもするから、放してくださいぃぃぃ」


「そんなものはいらん! 同盟を結ぶか、それともここで頭を砕かれて死ぬか、選ばせてやる! さあ、どちらだ!?」


 俺の頭はさらに高く上がり、足が浮くほどの高さとなった。いや、マジで頭蓋骨が軋んでるんだけど!


「ギブギブ! 痛くて話せない!」


「今話してるじゃないか」


 なぜ今ボケる!?


「いいから、放して! 放してくれたら答えるから!」


 そう言って、ようくやく哀れな頭は解放された。どさりと地面に落ちた俺は息も絶え絶え。痛むこめかみにそっと手を触れるが、幸いなことにへこんではいなかった。ああ、生きてるって素晴らしい。


「さあ、答えろ」


 と腕組みをして怖い目で見下ろしてくる青い目のナイトメア。俺はこめかみをさすりながらへの字口で目を逸らした。


「長老会議の後で答えるよ」


「貴様、たばかったのか!?」


 セイヴィニアの全身が魔力による輝きを帯び、瞬時に魔武技によってさらなる強化がおこなわれたことを知った。マジかよ。たぶん、今なら俺、ワンパンでやられる自信がある。


「ま、待つんだ! 慌てる乞食は貰いが少ない。これはおまえのためなんだよ。ちゃんと説明するから、とにかく落ち着いて」


 俺は手足を縮めて怯えながらも自分の発言の真意を説明した。


 まず、三日後に長老会議というものが開かれて、そこで俺の魔王位継承の是非が問われるということを伝えた。すると、彼女は興味深そうに話を聞く姿勢をとってくれた。やれやれ。

 そして、もし、そこでザックスリー親子に敗れるようであれば、俺が魔王になることなど夢のまた夢だということを説明した。だから、長老会議を無事に終えてからであれば、セイヴィニアにとっても充分にメリットのある同盟となる可能性があるわけだ。


「つまり、現時点でザックスリー公爵に対する勝算がないわけか」


「そうだよ。だから、ずっと言ってるだろう。メリットがないぞって」


 腕を組んで深く頷く魔皇女。


「うむ。私としては、もう充分観察してきたつもりだったが、お前自身はその長老会議を試金石として、自分がこの私にふさわしい男なのかを見定めようと言うのだな」


 なんか不自然なくらい(いびつ)に拡大解釈されている気がする。


「そうじゃない。結論を飛躍させるな。魔王になれなかった非力な俺様がおまえの苦難の道に同行したところで何の役にも立たないから、もう少し様子を見たほうがいいって言ってるの」


 すると、今度は力強く掌を打った。


「なるほど。わかった。少し誤解していたようだ。おまえはその試練を乗り越えて、私にふさわしい相手として成長しようというのだな。ううむ、殊勝な奴め。期待しているぞ。見事勝利して、後顧の憂いなく私と個人的に同盟を結ぶがよい。それで、どうやって都まで帰るつもりだ」


 さよけ。男には男の世界があるように、彼女には一筋の流れ星のような彼女の世界があるのだ。その妄想を邪魔すると悪いので、それについての言及はやめておいた。訂正する気力が湧かなかったということもある。


 俺は疲れた顔で素直に帰路の手段についてはすでに手配済みだと告げた。

 アマリアが近くに生息するヒッポグリフを捕まえに出ていることまで聞くと、セイヴィニアは顔を輝かせた。それから、何も言わずに勢いよくテントを飛び出していってしまった。

 どうせ暴れ足らないから、ヒッポグリフいじめにでも出かけたのだろう。


 俺はようやく静かになったとベンチに戻って溜め息をつく。そして、横になった。自分の腕を枕にしたあたりで、俺は自分の話がまったくできなかったことに思い至った。


 い、いろんな意味で頭が痛いからから、しばらく寝ようっと。




 小半時後、俺の耳元で自慢げに声を張り上げる馬鹿者が現れた。


「ポオよ、感謝するがいい! 貴様の足を調達してやったぞ!」


 この偉そうなもの言いはセイヴィニアしかいない。彼女は俺が目を開けるより先に腕を引っつかんでテントの外へと引きずっていった。それほど歩くこともなく地面に放り出される。

 俺は下生えに足をとられてつまづき、四つ這いになった。もう、乱暴に扱われるのには慣れたよ。くそぅ。


 倒れた場所はやや広い空き地のようなところで周囲がやけに騒がしく、多くの兵士が武器を手にこちらを遠回しに見ていた。まあ、騒ぎの元がセイヴィニアなら、とりあえずここにいるから問題なしだ。


 何はともあれ俺は地面から手を離し、よっこいしょと膝立ちになって魔皇女を見上げた。


「何だよ。気持ちよく寝てたのに……」


 彼女は晴れやかな笑みとともに頭上を指差した。晴天がどうかしたかと見上げる俺。

 すると、そこにはトパーズのような黄褐色の冷たい瞳と硬い緑色の鱗をもつ凶悪な爬虫類の頭部があった。それも成人男性をもひと呑みできそうなほど巨大なやつで、牙は大人の太腿ぐらいの太さだ。奴は自分の体より大きな翼を広げて俺を威嚇する。


 俺は、うっ、と声をつまらせて固まった。これが何かと言うと、飛竜とも呼ばれるドラゴンの一種ワイバーンであった。


 さて、まずは訂正しよう。この陣地が物々しいのはこいつのせいだ。いつの間にかワイバーンの取り囲むように長柄の槍を手にした星雲騎士が輪になっている。


 まあ、深夜アニメなら、こういった強力な魔物は当たり前のように上級魔族に従い勇者を襲う役回りなのだろうが、残念ながら大魔界ではそんな関係性を養うには時間がかかる。調教師がそれなりの時間をかけて教育する必要があるのだ。

 であるからして、野生のドラゴン種が餌を求めて村や町に現れて家畜や魔物のみならず魔族を襲う事件はナロウでも実際に起きている。


 人間界でこれを例えると、装甲戦闘車両以上の能力を有する十メートル級の超巨大熊が人里に下りてきたようなものだ。しかも高速飛行能力まであるとくれば、騒ぎにもなるわな。


 俺は極力平静を装い、ゆっくりと移動した。悲鳴を上げようものなら怖がってると思われて、襲ってくるかもしれない。

 強張った無表情を維持して、そろそろとその顎下から脱する。お、俺は餌じゃないよ~。お願いだから、口を開けないでね~。


 少し離れてから見上げると、このワイバーンがいかに大柄な個体であるかがわかった。俺の知る飛竜は馬込みの二頭立て馬車程度のものだが、こいつはその倍以上はある。


 ここで久々に説明しよう!

 ワイバーンは鱗体門に属し、ドラゴンの一種とされている。見た目は四足の竜とは異なり、細くしなやかな二脚と大きな翼を有する。平地より空と高地を好む飛翔属である。一般的なドラゴンより長時間の飛行が可能と言われており、ドラゴンの中では体躯は小さい種であるとされている。


 が、こいつは規格外だ。ワイバーンは俺から目を離さず、まるで餌を逃がさないよう慎重に監視しているようだ。


 俺はワイバーンを刺激しないようにゆっくりと振り返って尋ねる。


「この仔、どしたの? この辺りに生息しているのはヒッポグリフのはずだけど」


「ワイバーンは肉食で、特に好物はヒッポグリフでな。ヒッポグリフの生息地には大抵ワイバーンがいる。ヒッポグリフを捕まえる飛竜の飛行速度なら、半日で都に到着できるぞ」


 実に得意げな話しっぷりだが、その速度が魔族の人体に与える影響を、俺は心配するぞ。乗るであろう身として。


「へえ、それは凄いな。だけど、アマリアがヒッポグリフを連れてくるって言ったよね、俺」


 それなら、とセイヴィニアはニヤニヤしながら頭を上に振る。俺の頭上のさらに頭上、つまり飛竜の頭の上から歯を食い縛って唸る声が聞こえた。


「くっ……むっ……!」


 恐々見上げると、飛竜の後頭部に人影があった。それはそれは苦労しながら手綱を引くアマリアである。ワイバーンの顎と首に頑丈な革ベルトを巻き、鉄棒を馬銜(はみ)の代わりに噛せて、馬のように操っていた。


 普段涼しげな彼女の顔が見たことがないほど悔しそうにしていた。こりゃ、セイヴィニアに捕まって、否応なく連れていかれたな。

 想像するに、ヒッポグリフは順当に捕獲したが、セイヴィニアが強引にワイバーンを釣る餌にしてしまったのだろう。大きな口に白い鳥の毛と血がついていることからもあきらかだ。


 そう思うと、アマリアがちょっと可哀想だな。あれだけ勇んで出ていったのに、丸太並みの剛槍で横槍を入れられたんだから。 


 だが、これで俺が都にいくだけではなく、セイヴィニアとその手下もまとめて連れていく算段ができたわけだ。


 かくして俺は心置きなく長老会議に間に合うよう都へ帰れることと相成った。




 ワイバーンの背に搭乗した俺たちは即席の鞍に革ベルトで体を固定し、空中で振り落とされることのないよう対策を施した。大柄なワイバーンだったが、さすがに六人も乗ると重量オーバーだったらしく、途中で四回も休憩するはめになった。

 俺は恐ろしくて飛行中の大半を目を閉じて過ごしていたが、意外なことにレイリスが高空からの景色に感銘を受けたと詩をしたためていた。人は見かけによらないね。


 この飛竜の飛行速度はなかなかのもので、半日こそ無理だったが、翌日の昼にはフェイド湖と呼ばれる湖のほとりに到着することができた。ここからなら歩いて二時間という距離だ。

 ワイバーンはこの湖畔で解放してやった。不用意にこんな乗り物で都が見える位置まで行こうものなら、野生のワイバーンの襲撃と間違われてしまうからだ。

 最初はひと飛びに王城前に乗り付けてやろうと思ったのだが、一同から反対された。無用な騒ぎはマイナスイメージになると。捕らわれの身が脱出してからの帰還なら、颯爽と帰るというのは相当カッコいい演出のはずなのだが。解せぬ。


 ところで、飛竜のことだが、馬具を繋ぎ合わせた飛竜用搭乗装具を外してやるなり、俺に襲い掛かろうとした。しかし、ジェジェに段平で横っ面をはたかれて後ずさりしたところに、セイヴィニアのひと睨みを受けて尻尾を巻いて飛び去っていった。う~ん、哀れな奴め。


 都の南部に位置するフェイド湖には南西の山々から流れ出た水が注いでおり、北に伸びる川がその先に続いている。その川は十メートルを少し超える程度の川幅で大きなものではなかったが、都の西のすぐ脇を通過していて、流れに沿って歩けば都に着くというわけだ。しかし、衰弱しているレイリス姫が徒歩では長く歩けなかったため、川沿いの村で水上馬車に乗ることにした。

 河川沿いの集落では運輸業が盛んで、ケルピーを引き馬にした馬車が水上を交通している。そのあたりは水棲のクラーケン族であるレイリスの顔が利き、俺たちは大型水上馬車で都の入り口が見えるところまで運んでもらうことができた。


 到着した川港から使いを走らせて魔王子の帰還を宮廷に知らせた。


 川港ではこのあたりの運輸業の元締めに歓待された。緑が繁茂したのどかな景色の集落があり、とても居心地がよかったので、そこで迎えを待ってもよかったのだが、長老会議での立ち回りの準備をすべきだと早く帰ることをレイリスに強く勧められた。

 そのため、休息もそこそこに出発することになった。レイリスはジェジェに背負ってもらい、都の正門に通じる道を歩いて帰ることにした。俺たちは川に沿って家の建ち並ぶ集落を離れ、都の南正門へと続く街道を歩いた。


 すると、幸いなことにものの十分とかからず迎えの一団が現れた。ただし、魔王子への、ではなかった。


 俺に土埃をかけて騎馬が止まる。それに続いてグリフィンに牽かせた豪奢な馬車が停車した。

 馬を疾駆させていたのはナロウの誇るイケメン子爵ヒラルド・ザックスリー。奴は下馬すると、俺には目もくれず、セイヴィニアに歩み寄った。自分をよく見せるイカしたポージングだけは忘れない。


「ご無事でしたか! このヒラルド、御身を案じ、夜も眠れませんでした」


 そのわりに血色のいい顔をしてるな。俺が憮然とした顔で横に立っているのだが、奴の目には自国の魔王子の姿は写らないらしい。敵国の魔皇女の姿はくっきりと写るくせに。

 ヒラルドはセイヴィニアに思いの丈を存分に述べた。王城の特別牢での態度と比べて大きく下手に出ているところが小物感を倍増させているな。


 その後、奴はレイリスとも挨拶を交わし、それから、手持ち無沙汰な霊血の同胞(シストレン)にも無事の帰還と喜びを伝えた。もちろん俺のことはガン無視。


 いい加減頭にきたので、大きく響くように咳払いをしてやると、奴はようやく俺を見た。


「いたのか、クサレ殿下」


 予想した通りの歓迎ぶりに自然とため息が洩れた。セイヴィニアらモーブ陣営からは俺に対して憐れみの眼差しが注がれ、レイリスの怒りの眼差しはザックスリー子爵に向けられた。


 いつもなら純真な子犬の演技でやり過ごす場面なのだが、俺に味方してくれるレイリスの期待、長老会議でのザックスリー公爵との対決を思うと、こんな情けない役回りを続けてはいけないような気がした。

 いや、絶対にいけない。このクソ雑魚ごときに卑屈になっては、聖エピスにまで俺を救出に来てくれた彼女の想いに背くことになる。


 俺は立ち位置を横にスライドすると、セイヴィニアを押し退けて奴との間に入った。にこやかな笑顔で返す。


「いやいや、そんなに持ち上げないでくださいよ、ヒラルド」


 いつもと異なる反応に奴は戸惑いつつも見慣れた冷笑とともに答えた。


「誰がおまえごときを持ち上げるか」


「もう、相変わらず素直じゃありませんねえ」


「なんだ? 聖エピスで拷問されて気が狂ったか」


「拷問みたいな暴力は受けましたが至って正気ですよ」


 あっけらかんと言ってやると、奴は気持ち悪そうに鼻の頭にシワを寄せた。それから、まあいいと呟き、俺の眉間に向けて指を突きつける。


「モーブ皇国からの賓客を身勝手な理由で聖エピスへ送り込むとは言語道断だ! ポオ、もはや貴様に皆を貴様の手に預けておくことはできない。セイヴィニア殿下とその部下はこの私と父上の保護下におく」


「それは許可できない。彼女らは私の捕虜です」


「だから、何だ。おまえの管理下でありながら、牢獄を抜け出ているのだぞ! あまつさえ自分を救出させるために敵国の聖エピスへ侵入させるなど、監督の不行き届きにも程がある!」


「それは私が……」


 とレイリスが言いかけたが、ヒラルドの高笑いにかき消された。


 さすがに管理し切れなかった事実を指摘されると、反論の余地はない。この場でこのまま抗弁してもレイリスが自分のせいだと気に病むだろう。


 もし、引渡しを拒絶すれば、ザックスリー陣営は明日の長老会議までに俺が筋の通らないことをしたと言い触すに違いない。

 その場合、外野からこちらを見ている事情を知らない魔貴族連中に悪印象を与えることになる。日和見の奴らは締め付けを嫌うので、ワンマンタイプと思われることは好ましくない。


 では、セイヴィニアたちの身柄を奴らに委ねた場合はどうか。

 間違いなく、ザックスリー公爵一派は錦の御旗を手に入れたと勢いづくだろう。それを見てなびく奴らもいるに違いない。勢力争いはバッツにお任せなので、どれくらいの数がなびくか計算ができない。俺も面会して多くの有力者相手に顔をつくってきたが、所詮は浅い付き合い。不利になっても味方である保証などない。


 後者のほうがダメージがデカそうだとざっと考えたが、拒否するにしてもうまく言わなければ揚げ足をとられて悪評を流されてはかなわない。


 そのとき、ふと思いついたことがあった。いっそのことセイヴィニアからはっきり言わせればよいのではないか。錦の御旗に面と向かって拒否されれば、ヒラルドも大きなダメージを受けるだろう。これはよい考えだ。


「待ってください、ヒラルド。今回、モーブ皇国の方には聖エピスからの脱出にお力添えをいただいて、私も今は一概に敵視するような気持ちはありません。どうですか、ここは、セイヴィニア殿下の意向に従ってみてはいかがでしょうか」


 ほう、と声を発すると、ヒラルドは頷いた。


「その貧相な頭のわりにまともな考えだな。私に異存はない。ま、ザックスリー家をお選びになることはわかりきっているがな」


 ほざけ。あとで吠え面かくなよ。俺は横に退いて、魔皇女に顔を向ける。


「セイヴィニア殿下、あなたはどうなされたいですか?」


 すると、それまで退屈そうにしていた美しい顔がニヤリと笑った。背筋に悪寒が走るほどの冷酷な笑みだった。想像と異なる反応に俺は凍りついたように彼女を見続けた。

 その笑みは狡猾で悪意すらこもっているようだった。


「そうだな……。この国の魔王子のもてなしは最低だった。しかし、ルビーアイド=ナイトメアである公爵の屋敷ではよい待遇が期待できそうだ」


 よい待遇が期待できる?


 どういう意味だ?


 確かに部屋が変わるだけでも待遇改善だ。だが、それは俺の管理下から出るということか?


 予想していない返答に頭がついていかなかった。これまでの彼女の発言にザックスリーに同調したものはなかったはずだ。国を裏切るような奴には組しないとも彼女自身が言っていた。

 それに個人的利益の観点からも裏切るはずがない。大魔王候補という特殊なポジションを与えられた者同士、手を結ぶつもりなのだから。


 だが、先行きの不安な俺はその回答を延期し続けてきたのだ。彼女は痺れを切らしたのだろうか。


 狼狽する俺を尻目にヒラルドは相槌を打った。


「もちろんでございます、我が君」


 俺の不安と比例して奴の言葉遣いはさらに丁重なものへと変わった。


「ザックスリーはこのナロウで最高の財と力をもつ家門です。きっとセイヴィニア殿下のご満足のいく歓待を約束しましょう」


「うむ。無事に目的も果たしたし、そろそろ粗末な寝床を去るべきときが来たか。ザックスリー子爵、期待しているぞ」


 俺の顔面から血の気が引いた。目線は下がり、見つけられないものをあてもなく探すようにさまよう。


 目的。それは言うまでもなくイスファルの救出である。


 もしかすると、セイヴィニアはそのために俺に協力的な素振りを見せつつ、虎視眈々と子飼いの部下を救い出す機会を伺っていたのではないか。

 そして、魔王子誘拐騒ぎに乗じ、言葉巧みにレイリスを丸め込んで外へ出たわけだ。


 外に出てしまえば、彼女を止められる者などナロウにはいない。目的を完遂した今、自分に媚びへつらう裏切り者の元へも悠々と移ることができる。


 この変節はもともと計画されていたものなのか?


 セイヴィニアは裏切ったのか?


 そもそも彼女は味方なのか。いや、元々敵だ。


 いまだ確信はもてないが、俺の頭の中では疑心暗鬼の鐘が大きな音で打ち鳴らされていた。俺は震え声で尋ねた。


「あの同盟話は嘘だったのか?」


「愚かな魔王子よ、あんな子供だましを信じるとは、人生経験が足らなかったな。私はモーブにとって利のあることしかせんよ。それにあんな破廉恥なことをする奴にも組するはずがなかろう」


 セイヴィニアは冷ややかに微笑むと、俺の横を通り過ぎ、ヒラルドの隣に並んだ。


 破廉恥なこととは星雲騎士団のテントでのハプニングのことか。考えてみれば、当然だ。あんなものは単なるセクハラだ。


 それまで袖にされ続けてきたヒラルドは勝ち誇った顔で肩を小突いて俺を遠ざけた。


「では、参りましょう。こちらの馬車へお越し下さい」


 誘導に従うセイヴィニアを俺は黙って見ていることしかできなかった。


 彼女は最初からモーブの魔皇女であり、裏切り者が内通した相手だった。俺はそれを信用したおめでたい頭をしたバカにすぎなかった。

 また、さらに彼女のことを誤解していた。力を頼みとする単純な考え方の持ち主で、不正義をよく思わず、信頼には真剣に応えることを身上とするタイプ。そう思い込んでいた。

 だが本当は、目的のためなら俺やレイリスの信頼を裏切ることなど厭わない女だった。脳筋だなんてとんでもない。周囲を騙し、たぶらかし、敵も味方も欺く演技派だったわけだ。


 俺はセルフプロデュースなどと自慢げにぬかしていたが、モーブ宮廷で地位を築き、老獪な政敵に揉まれてきたセイヴィニアのほうが一枚も二枚も上手だったのだ。


 セイヴィニアが首を振ってみせると霊血の同胞(シストレン)たちは贅を凝らした馬車へと足を向けた。だが、そこに乗る前にこちらを振り返る。

 その視線の向く先は、俺ではなく、その背後。白いシーツをまとったイスファルだった。どうして主人の下に馳せ参じないのかわからなかったが、彼女は先ほどから一歩も動かなかった。


 セイヴィニアの問うような眼差しが彼女を見た。そこに表情はなく、ただ見返すイスファルの顔には苦悩の色が見えた。そして、二人はしばし見つめあったまま動かなかった。

 しかし、その凍りついた時間が融けるには長くかからなかった。イスファルは悩ましくも一度うつむくが、すぐに顔をあげる。そこにあるのは思い極めた表情であり、決意を秘めた何かであった。それに対してセイヴィニアは軽い頷きで返す。俺には意味のわからないやり取りであった。


 不自然な間に不信感を覚えたヒラルドは険しい顔でイスファルを見やる。


「その魔力の欠片もなさそうな女は何者だ?」


 裏切りの衝撃に俺は理解が追いつかず呆然としていたが、そこで我に返った。


 イスファルが馬車に向かわない理由はわからない。セイヴィニアのことも、イスファルのことも何もわからない。思いの外ショックが大きく考えがまとまらなかった。


 ただ、イスファルについては、とある考えがあった。それはセイヴィニアに相談しようと思ってできなかったことでもある。放心状態の俺の頭脳は奴の質問に短絡的に反応し、イスファルについて考えていたことが溢れかえった。


 人間のことは知らないが、どんな魔族であっても人生で姿形がこれほど変わることはない。そこで俺は考えた。


 もし今、名前も変えたら、彼女は新しい人生を送ることができるのではないか?


 今回の騒動で俺は彼女と一緒に過ごし、いろいろと話をする機会があった。彼女があまりにもむごい仕打ちを受けてきたことを知った。

 オーパルド共和国では政敵の執拗な攻撃を受け、聖エピスとの戦争では筆舌に尽くしがたい悲惨な境遇におかれ、そして霊血の同胞(シストレン)となってからはセイヴィニアの競争相手と対峙して危険な人生を生きてきた。義理堅い彼女のことだから、受けた恩義以上のものを返してきたはずだ。

 ならば、ここで、その人生を精算してもバチは当たらないのではないか。そして、少しぐらい幸せになってもよいのではないか。そんなことを俺は思ったのだ。


 セイヴィニアが裏切った今この状況で俺が考えるべきことではないが、そんなことを考えた頭ははっきり言って混乱していたのだろう。

 答えられずにいると、前触れもなく背後からふくらはぎを蹴られた。それにつられて反射的に答える。


「か、彼女は、私の……新しい侍女ピカリンです」


「フン、角なしか。それになんだ、そのふざけた名は。貴様、相変わらずのクズっぷりだな。自分より下位の者と比べて優位に立つことでしか自己実現できないとは」


 もはやこの悪口に腹も立たなかった。俺の立場や自己満足などどうでもよくなった。

 他人を欺く演技とはセイヴィニアがしたようなことをいい、俺のセルフプロデュースはただのお遊びだったのだ。ならば、今さら奴にいちいち猫をかぶってやる必要もない。


 俺は放心状態の残滓に促されるまま虫を追い払うように手を振った。


「はいはい。バカルド、俺ちゃん忙しいから、また今度ね」


 ヒラルド・ザックスリーは一瞬硬直した。思いもよらない言い方に面喰らったようだ。理解するまで数秒を要し、その後イケメンを怒りで軽く歪めた。激昂しなかったのはセイヴィニアたちの目を意識したからだろう。


「こ、このクズ王子が偉そうに。犬が一匹死んだときに泣きわめいていたくせに」


 もうこの場を去りたくて無意識に踵を返しかけていたが、その言葉が俺の頭に目覚めの一撃を与えてくれた。

 足を止めた俺は再度振り返る。こいつは俺の大切な侍女のことを犬と言ったか?


「お? このクソザッコスリー、今なんつった?」


「ザッコ……。き、貴様のような惰弱な奴には付き人にも犬がお似合いだ。きっと、その新しい侍女のスカートの下にも尻尾があるんじゃないのか?」


 この台詞にヒラルドはしてやったりと得意げな顔で俺を見据えた。俺のいきり立つ反応を楽しむ腹だ。

 が、その目論みは、俺のものではないドスの利いた声に粉々に打ち砕かれた。


「おい、そこのクソザッコスリー、行くぞ。案内せい」


 それを言ったのはセイヴィニアだった。彼女のもの凄い怒気をはらんだ視線がザックスリー子爵の顔面を直撃する。


 奴は問答無用の悋気にうろたえたが、なんとか取り繕って三人を馬車の中までエスコートした。

 その怯えはわからないこともない。だって、おまえの父親と比べてもひけをとらない眼力だったからな。


 グリフィンは雄々しく翼を羽ばたかせてウォームアップすると、馬車は静かに前進し始めた。ザックスリーは箱馬車に同乗し、自分の乗ってきた馬には従者が乗っていった。

 俺はぼんやりする頭を振った。衝撃覚めやらぬ俺の意識ははっきりとしているが、まるで水でいっぱいとなったような満杯感で麻痺したままだ。


 また、レイリスはすでにこの場を去っていた。ザックスリー家の馬車が走り出す前にダーゴン伯爵の寄越したお迎えが到着し、こちらも有無を言わせない迫力でお嬢様を新たな水殿馬車に乗せ、連れていったからだ。


 俺とイスファルはその場に残された。そして、俺の迎えは来なかった。






スケベが原因かな、やっぱり。



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