1-2話
自分は今夢を見ているのだとそう思った。
真っ白な空間に自分が立っているのか横になっているのか分からない。
何の夢だろうか。
そう考えているうちに下半身のあたりが温かくなってきた。
…こういう時はあまりいいことがない。
目を覚まそう。
意識を無理やりに覚醒させた。
ぼんやりと目に映っていた物が徐々にはっきりとしてくる。
白い天井だ。
辺りを見回すとさらに白い壁に白い掛布団。
視覚が蘇って次は嗅覚。スッとする臭いがした。
直感でここが病院だと思った。
それなら何故自分は病院で横になっているのか。
体を動かそうとしてみても動かない。寝ているのはベッド…だろうか。軋んだ。
ケガか病気か。思い出せなかった。
どころか自分が何も思い出せない事に気付いた。
名前や年齢、性別すらもどこかあやふや。
何も何も何も。
私、僕、俺、自分が何かわからない。
ここはどこだろう?今はいつだろう?自分は何だろう?
「おーい」
出た声は小さく聞いたことのない声だった。しばらく待っても返事はこない。
…寝よう。
諦めてもうひと眠りしようとした時だった。カラカラとカーテンレールがゆっくり鳴った。
「目が覚めたか」
カーテンを開け入ってきたのは白衣を着た背が高めの男性だった。たぶんお医者さんだろう。やっぱりここは病院のようだ。
「あの…」
「ちょっと待って」
白衣の男性が掛けられている布団をめくった。
自分で目を見開いたのが分かった。…驚くというのはこういうことなのだろう。
動こうとしてもビクともしないわけだ。自分の体がボロボロの包帯の様な布でベットに縛り付けられていた。
「動かないで」
その手には真っ黒なメスが握られていた。声を上げる間もなくメスを持った手が振り下ろされると縦一線に包帯が裂けた。
反射的に胸に手をやって確かめていた。体はもちろん着ているジャージにも傷一つついていない。
手を目の前にかざし何度か握って触覚が無事なことを確かめる。
横向きになり両足をベットの外側へやった。
ゆっくりとベットから降りて立とうとした瞬間、下半身に違和感を覚え膝が抜けた。
立つのが初めて。そんなはずはないのにそんな感覚だった。
ベットに捕まりながら再度立ち上がる。足は震えていた。
歩くのも初めてな気がした。一歩を踏み出す。…大丈夫。
足の裏で感触を確かめるようにゆっくりと歩きながら白衣の男性に近づいていく。
裸足で歩いてペタペタと足音がする。震える足で白衣の男性の前に立つ。
「あの…」
男性は眉をひそめている。
「何か?」
…。
……。
………。
「トイレは…どこですか」
我慢の限界だった。
「…出てまっすぐの突き当り」
何度かつんのめりながらも歩くから走ることをこなす進歩が何とか間に合った。
ズボン下ろして用を足す。
自分は僕だった。
手を洗い手柄杓で水を飲む。
顔をあげると鏡に知らない顔が映っていた。
驚いて振り返っても誰もいない。
恐る恐る顔に手をやると鏡の中の誰かも怯えた表情で顔に触れていた。
(…この人は誰?)
鏡にゆっくりと顔を近づけてみると鏡の中の誰かの顔も徐々に大きくなる。
茶髪は栗色で耳にかかるくらいの長さ。耳が少し尖っていて目は猫っぽい。
「…あなたは誰?」
鏡の向こうの誰かの口も動いた。返事は帰ってこなかった。
トイレから出て冷たい床を見回しながらペタペタと音を立てて歩いていく。
エントランスと言えばよいのか広いところに出た。
右手のかんぬきの着いた扉が玄関で左手は両開きの扉。2階へ続く階段がある。どうやらここは広い屋敷のようだ。勝手にうろつくと迷子になりそう。飛び出してきたままドアは開いたままだった。とりあえずさっきの部屋へと戻ることにした。
「失礼します…」
先程の男性は背もたれの着いたイスに座っていた。
見回してみると白を基調とした部屋で手前には机と背もたれの着いた椅子と丸椅子。
奥の方にはさっき寝ていたベットと仕切りのカーテン。
机にはフラスコの使われたコーヒーか紅茶のサイフォンが置いてある。
下から上がってきたお湯がフラスコの中で噴出し中を満たしていく。
くずかごには縛っていた包帯が放られていた。
横の棚にはよく分からないラベルの貼ったビンがいろいろ。部屋の臭いもこの薬によるものだろう。
床は木でよく分からない模様が見慣れない以外は診察室のような部屋だった。
やはりここは病院でこの男性はお医者さんで間違えないだろう。
お医者さんの顔をじっと見てみたが覚えのない人だった。
「どうぞ」
勧められたので背もたれのない丸イスに腰掛けた。
「うちにはどのようなご用件で?」
覚えはなかった。
「えっと…僕は何でここに入院を?」
「入院?」
「…違うんですか?」
「うちに用があって来たんじゃないのかい?」
目は合ったまま沈黙が流れる。
「ここは病院…ですよね?」
「まぁそうとも言えないこともないが…ここは私の住まい兼研究所だ」
白衣の男性はシクステンと名乗った。職業は錬金術師。名前も職業も聞いたことがなかった。
様々な薬を作るのを生業にしているので医術の心得もあるそうだ
話によると僕は少し前にこの家の前に倒れていたそうだ。
それをシクステンさんがここに運び込んだ。
目に見える外傷は無いので特に処置はしていない。
拘束してたのは念のため。何の念の為なのかは詳しくは聞かなかった。
シクステンさんに何にも覚えていないと自分の状況を伝える。
「自分の名前も何も覚えていないと?」
鏡で見た自分の顔すらも見覚えがないのだ。自分のことで説明できるのはそれしかなかった。
「ふうん」
どこか納得のいかない表情でシクステンは2つの取っ手の着いたビーカーにお茶を注ぐ。
「ええ…んっ…」
湯気を吹き消し一口啜る。口がゆがむような味だった。…つまり苦い。
「確かここに…あった」
シクステンは引き出しから木の箱を取り出す。
ふたを開けると白い粉。ずいぶん高そうな砂糖だと思った。
ひとさじ入れてもらいかき混ぜてもらった。うまい。
「お代わりは?」
「いただきます」
ゆっくりと味わいながら飲み干しさらにもう一杯もらった。
「どうしよう」
口からつい漏れていた。そして腹の虫が鳴った。
「まず朝食にしないかい?」
シクステンは微笑みながら言った。
「えっ?」
「今丁度支度しているから君も食べるといい。食堂はそこの両開きのドアだ。私はここを片付けてから行くから先に行っててくれ」
「…いいんですか?」
好意に甘えさせてもらう他ない。僕は食堂へ向かうことにした。
◇
ドアが閉まってから数秒、シクステンはそっと隙間を開け覗いた。
少年が食堂の扉を開けて中に入っていくところだった。
シクステンはそれを見届けてから少年が飲んでいたカップを手に取った。
「全部飲んだか」
そう呟くシクステンの手元のビーカーは減っていなかった。