1-1話
ため息をつくと幸せが逃げる。
…誰が言い出したのだろう。そう思いながらも白衣を着た男はため息をついた。
深夜の深い森の中にある研究室の中。唯一の光源は透明な液体の入ったフラスコのかけられたランプ。その火に照らされた男の顔にはこけた頬や目の隈といった疲れが映し出されていた。
男は舌打ちをした。炎が揺らぎその色が微かに変わったのだ。自身の黒い髪を掻きながらまたため息をついた。ランプの目盛りをミリに満たないほどで調整すると火が小さく揺れまた元の色へと戻る。
男は側にあったビーカーをマドラーでかき回した。マドラーの雫を取るのにビーカーのふちを2度叩いた。眠気覚ましが出来上がった。それを半分ほどゆっくりと飲んだ。はばかることもなく大きなげっぷ。効き目はなかった。ここ数日で何杯飲んだか覚えていないほどに飲んでいた。あとは反応が始まるの見届け、火の始末をするだけで終わる。それだけで終わるのにとまた大きくため息をついた。
男の名はシクステン。職業は”錬金術師”である。
彼の祖父はその腕は歴代最高とまで謳われた程の”錬金術師”だった。
彼は祖父に憧れて錬金術師となった。祖父のようになりたいと死に物狂いの努力を続けた。その結果ついに名実ともに一流と呼ばれるまでに至った。満足はできなかった。どうしたら祖父のようになれるのか。彼なりに考えた結果、その為にはまず一人では無理だという結論に至ったのだった。
祖父には優れた仲間がいた。
祖父が仲間たちとクランという形で共に過ごし、活躍する姿は今でも瞼に焼き付いている。
いつかあの場へと。自分も祖父のクランに入るのだとそう夢見ていた。
しかし彼が入団する前に祖父は亡くなった。
それを機にクランは衰退していった。
祖父の仲間たちは引退や自らの分野の後進の育成と各々の道へと進んでいった。
誰もいなくなったクランは名前が残っているだけになった。
シクステンはギルドに直属するフリーランスの姿勢を取っている。
”錬金術師”として今まで正式にクランに属したことはない。
祖父のクラン以外に入るなど考えただけで虫酸が走ったのだ。
しかし個人での限界を感じたシクステンはある計画を立てている。
祖父のクランの再興だ。
今は名前が残っているだけのクランだが全く問題ないと考えていた。
ギルドに直属していた為、多少の伝手もコネもある。
落ちぶれたとはいえ多少の歴史もある。
元々は祖父とその仲間であった一流の職人たちが使っていた拠点だ。生産活動を行う設備は整っている。
基盤は十分にできていると言っていいだろう。
しかしただ一つだけ問題があった。
人が足りないのだ。クランとして活動するのには最低三人必要だった。
一人は修行で出かけている弟が協力してくれることになっている。
あと一人。とりあえず誰でも良い…そう言いつつも結局は誰でもいいというわけにはいかないのである。
ぼこっ。
フラスコの中で大きな泡がたった。
透明だった液に徐々に赤みが増していく。
それを見て安堵のため息を吐いた。やっと一息つける。
懐中時計を見ると午前三時を少し過ぎたあたりだった。
明かりがあるうちにと机の上を最低限片付ける。
ランプに蓋をかぶせて唯一の光源を消した。
手探りで椅子を見つけ深く腰掛けると足を机の上に乗せた。
もう寝室まで行くのも面倒だった。
着ていた白衣は脱いで腹にかける。
続きは寝てから考えよう。
そう思うが早いかシクステンは眠りに落ちていった。
三時間と少しが過ぎる。
寝返りを打って床に落ちた痛みより頬に伝わる冷たさでシクステンは目が覚めた。
立ち上がり口元のよだれを拭う。
フラスコに目をやるとまだ反応は終わっていない。
一日以上は寝ていないと分かった。
懐中時計を見ると6時を少し過ぎたあたり。
時間的にはメイドが朝食を作り始めている頃だ。
口の中が渇いていた。残っていた眠気覚ましを一気に飲み干す。
あくびをすると口の端が切れた。
…ここの所こもりきりで味気ない栄養だけの食事が続いていた。
そういえば最後に固形物の食事を取ったのはいつだったかと指折り数えた結果十日前だった。
(…たまには食うか。)
台所を覗くついでに外の空気でも吸うかと白衣を羽織る。
廊下に出ると朝の寒さが染みた。
裸足で床の冷たさを直に感じながら食堂まで移動。ちょうどメイドのバニラが食堂に入るところだった。
「…マスター?お久しぶりです」
メイドの挨拶は朝のではなくしばらくぶりの挨拶であった。
「おはようバニラ。朝食はこれからかい?」
「はい、マスター。本日は召し上がりになられますか?」
「ああ、頼むよ。パンといつものスープかい?」
「はい。用意ができましたらお呼び致します。どちらでお待ちになられますか?」
どこか嬉しそうだ。いつも一人で食べているとたまに私みたいなのとでも一緒に食べると嬉しいのだろうかとシクステンはそう思った。
「そうだな…。医務室にい…」
覚えている限りベットが整っている部屋を言いかけたところで、出来上がるまで絶対に起きている自信はないことに気付いた。
「いいや、適当な時間になったら行くから呼びに来なくていいよ。もし出来上がった時に私が来なかったらすまないが一人で食べていてくれ。少し多めに作っておいてくれ。起きたところで勝手に食べるから」
「…承知致しました。ご無理は…なさらないでくださいね」
「なぁにまだ若いから大丈夫さ」
そう言ってシクステンは台所を後にした。
その言葉が出てくること自体がもう若くはない証拠だと理解しているつもりだった。
メイドの戸を閉める音を背に外の空気を吸うかと玄関で外履きを履く。
それだけでも彼にとって十日ぶりの外出だった。
かんぬきを外し玄関の戸を押す。
「あれ?」
開けようとすると何かに引っかかっているようで戸が開かなった。
ただ試しに内側に引くと簡単に開いた。
開けてみると戸の開かなかった原因はすぐにわかった。
人がそこに倒れて引っかかっていたのであった。
「おい」
何度か呼びかけても返事はない。
横向きで丸まるような姿勢で顔を見ることはできない。
足で突く。反応がない。少なくとも質の悪いものではなさそうだ。
足で乱暴に仰向けにさせた。。
胸は上下に動いてるから死体ではない。
再び呼びかけても軽く頬を張っても目は覚まさなかった。
手首に手を当てると温かみと鼓動が確認できた。
ただ体の中の魔力が一切感じられない。
毒や麻痺などの状態異常までは正確に確認してないが特に命に別状はないだろう。
さてどうするか。
ここを訪れる客は少ない。薬の取引はギルドを通してシクステンが相手先に出向いている。ここに用があるとすれば大体泥棒で、ごくたまに患者、大穴で暗殺者。
とりあえずは知らない顔だ。中性的な顔だが骨格からして少年で間違いない。
歳は12~16ぐらいだろうか。耳はエルフだが顔に獣人の特徴が見受けられる。珍しい。一度会ったことがあればそうそう忘れないだろう。
しばらく考えてまたため息をついた。少年がどうやってここまで来たのか見当もつかなかったのだ。
見たことのない青い上下の服装で裸足。足の裏が殆ど汚れていないところを見ると、ここまで歩いてきたわけではないだろう。
目立った外傷はなく汚れも服に土ぼこりが多少ついているだけ。周囲を見ても道具の類は無く何かに乗ってきたような痕跡もなかった。
風が吹いてシクステンは身震いをした。
このまま放って置いても死にはしないだろうが…。
仕方ないとまたため息をついた。
用もなくここまで来る奴はいないだろう。
この少年が逃げた分の幸せを取り戻してくれるかな。
そう思いながらシクステンは土ぼこりをはたいて少年の脇に腕を入れるとずるずると家の中に引きずり込んでいった。