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昨夜は、一睡もできない夜であった。夕方から夜半にかけて魔物の出現量が急激に増加したことにより、迷宮内の各防御陣地への補給回数が増加したためである。幸いなことに出現した魔物の群集団の大半は第1階層から第3階層に常駐する小型の魔物であったことから、脅威と呼べるほどのものではないものではなかった。
しかし、迷宮に住む者にとって脅威ではないとしても、地上に住む者の安全のためには対処しなければなならない。迷宮外へ出すわけにはいかないため、魔物が雨後の筍のごとく湧いて出てきたとしても例外なく叩き潰さなければならない。
そんな事情もあって、各所の戦闘回数は大幅に増えることになり、俺の仕事である補給の仕事も増加することとなったのだ。
不足するのは食料や薬品、矢玉の類といった消耗品が主であるが、特に問題となったのは真水の不足であった。
真水の主な用途は飲料としての使用が大半だが、それ以外にも魔物から受けた創傷の治療するために、傷口を洗浄する目的で使用される。創傷は回復魔法や水薬を使用すれば容易に治癒することが出できると思われがちではあるが、模倣というものはそこまで万能なものではない。
野外で負った怪我というものは、泥や小石などのゴミが傷口に付着してしまうものである。この状態で治療を行うと、再生した肉体がそれらの不純物を取り込みながら再生してしまい、治ったはずの傷口が化膿してより酷い損傷となる。
そんなことにならないようにするため、清潔な真水は大量に用意する必要があるのだ。
真水の用意は難しいものではない。商店街には迷宮周囲を通過する地下水脈から湧き出た溜池が存在するため、商店街の住民が馬鹿みたいに消費して空となった酒樽に水を詰め込めみ、荷車で運搬することによって、容易に大量の水を運搬することができた。
その結果、問題が発生ることなく朝を迎えることができたのだ。頑張った自分とカリンを頑張ったとほめたやりたい気分だ。
明け方にかけて魔物の出現数は減少しており小康状態で飛べる状況であるため、本部にある会議用の円卓といすを借りて体を休めている。さすがに多少の体力は消耗はした。年齢だと思いたくはないが、もう少し若いころはもっと働けたような気がする。
医師に体重を預けるように深く座りながらぼんやりとした頭で、本日中に運搬予定の物資目録を見つめる。作業手間は昨日とほとんど変わらないものであるが、昨晩のように魔物の動きが活発になれば、さらに働かなければならないだろう。
少しでも手間を減らすため、運搬ルートを頭の中で再考する。自分一人であれば最も効率の良いルートを通ることができるのだが、カリンがいるため、最短よりは再安全なルートを構築したい。どんな魔物が来てもアイツをも守る自身はあるが、万が一ということもあるし、慢心は不測の事態を生む。
「大丈夫ですか?」
ぼんやりと考え事をする俺に、心配そうな口調で俺に話しかてくる人がいた。そちらの方へと視線を移す。そこには不安そうな表情をしたシアン立っていた。
こんな表情をさせてしまうなんて、俺はそんなに辛そうな顔をしていたのだろうか。そういったものはなるべく他人に見せないようにしていたつもりだったのだが、まぁ、普段から一緒に暮らしている家族同然の存在には見破られるしまうものなのか。
心配させないようにするため笑顔を浮かべて大丈夫だよと頷いてみせるが、シアンは疑いの視線をじっと俺に向けた。
「……わかりました。 でも無理はしないでくださいね。 あと、私にできることがあれば何でもおっしゃってください」
「ああ、わかった。 無理や無茶はなるべく控えるようにするさ。 お前やカリン、その他商店街の住民の命が危険にでもならない限りはね」
その言葉に安心したのか、シアンはにこりと微笑んだ。心の底から誰かに心配されるというのは悪くないものだと思う。かつての手ひどい仕打ちを受けて以来、そういったものはすべて否定していた頃の自分に教えてやりたいものだ。
「しかし、できることなら何でも、……か」
先ほどのシアンが言った言葉をつぶやく。何でもという言葉にだからといって下種なお願いをするつもりはないのだが、せっかくの申し出である。
一晩中働いて擦り切れた精神と、疲労を回復することのできる一杯が欲しい。
「シアン、ブランデーを一杯くれないか」
「お茶ならありますけど」
「……シアン、お茶程度の飲み物では眠気を覚ますのには役不足だとは思わないか?}
「わかりません。 ですが、黒茶を濃い目に淹れれば、眠気覚ましには十分だと思います」
「味だけで言えばはそうかもしれないけど、お茶だと活力が満たされないというか、士気が上がらないというか……」
「そんなの気の持ちかたひとつです」
仕事中に飲ませたくないというシアンの気持ちは十分に理解できる。しかし、いつまで戦いが続くかわからない状況で気を張り詰めすぎた状態を続けることは難しいし、何よりも人仕事終わった後の一杯は何よりも勝る報酬なのだ。
そんなことを考えながら視線を投げ掛けて訴える。しばらくお互いの視線が空中戦を繰り広げたが、シアンのほうが折れてくれた。諦めの感情が籠ったため息をふうと吐き、仕方ないですね、一杯だけですよと苦笑混じりに言った、
ブランデーの瓶を取りに行くシアンの後ろ姿を眺めながら、感謝の言葉を口にした。やはり持つべきものは理解のある同居人だなと思う。
「シアン、これはどういうことだ? 持ってきてほしいとお願いしたのはブランデーだけであって、馬鈴薯のような頭をしたおっさんを連れて来て欲しいとはお願いしていないのだけど」
戻ってきたシアンが持ってきた盆には水晶椀と黒茶のティーセットをしか載っていなかった。俺が所望した物は、呼んでもいないのにやってきたヴォルフが右手に抱え込んでいる。
「随分とご挨拶だな。汗水たらして一生懸命働く労働者に飛び切りの差し入れを持ってきてやったというのに」
「へぇ、何を持ってきてくれたのか?」
「眠らなくても一晩中元気に働ける薬だ」
そう言いながらヴォルフはどこかで見たことのある形をした薬瓶を胸のポケットから取り出した。
「そっちかよ! いらない、その薬を飲んだ被害者の姿を見ると絶対に飲もうとは思わん!」
笑い声をあげながら元気に走り回る配達人の姿を思い出して拒否をする。ノイマン謹製ということもあり効果が十分にあることは理解したが、効果が強すぎる。
「アットが異様に元気になったのって、やっぱりそれが原因か。あの不良少年が熱心に仕事をしているのにはそう言ったわけがあったのか。ならばなおのことお前さんに飲んでほしいのだがね。そうすればこんな案件なんて、一晩で解決するだろうし」
首を横に振った。一晩で迷宮変動が終わってくれるのであれば、休業期間が短くなるので商売的にはありがたいことが、早く終わらせてもあの薬の副作用で数日間寝込むとなれば、何の意味もないし下手すれば余計な損害を被りかねない。
「そうか、ならば、こっちだな」
そう言ってヴォルフは右腕に抱えていた瓶を机の上に置く。瓶の中にある液体は透明度の高いきれいな琥珀色をしていて、照明の光に照らされてキラキラと輝いている。それに合わせてシアンが水晶椀を机の上に置く。
「一杯だけですからね」
シアンがその液体を椀に注いで手渡してくれたので、口に運んだ。強い香りとそれに負けない酒精が口と喉を灼くようにして滑り落ちる。眠気など一瞬で吹き飛ぶ強ような強烈なものであった。
「スレイレス醸造所のブランデーだな。ずいぶんと香味が強い。20年物か?」
その言葉にヴォルフがにやりと笑い、酒瓶に残ったブランデーを飲み干した。
「惜しいな、25年ものだよ。 市場じゃあ、めったに見かけない最高級品だぞ」
ほぅ、と思わずため息が漏れる。
「役所のお偉いさんがな、景気づけにさしれてくれたんだ。王室御用達の逸品だぜ。一般人が逆立ちしたって飲めない代物さ。 気付けには十分すぎる代物だろう」
「なるほどね。こんな時でもない限りは得ることのできない役得か」
ともかく酒は旨かったが、どうしてヴォルフがそんなものを持ってきたのだろうか。一つ言えることとは、この男が高価で貴重な持ってくる時はそれに見合った厄介ごとも同時に持ってくるということである。
「それで、なにか厄介ごとでもあったのか?」
ため息を吐きながらヴォルフに訊ねる。それと同時に机の上にある瓶をとって勝手に酒を注いだ。シアンが一杯だけと言ったのにと怒った視線を俺に向けたが、気付かないふりをした。あとで怒られるだろうが、めったに口にすることが出来ない高級酒の誘惑には逆らえないし、何よりもやこれをダシにして厄介ごとを頼まれるぐらいなら、なるべく呑んでおきたい。
「厄介ごとというほどのではない……、ちょっと気になることがあるというぐらいの話さ」
「気になること?」
その言葉に答えうようにヴォルフは一枚の紙きれを手渡した。簡易的な迷宮の地図であった。手書きで描かれていたそれは地図と呼ぶよりも子供のいたずら書きと呼んだほうが近いもしれない。しかし、それは仕方のないことであった。迷宮は現在進行形で変動している。時間をかけてまともな線を引いたとしても薬には立たなくなるの分かり切っていたからだ。だから時間をかけず最低限なものになることはおかしな話ではない。そしてこの手書きの地図には迷宮の位置関係を示すための図のほかに、いくつかの文字と数字が書き込まれている。
「文字が汚くて読めない」
「そんなはずないだろう。これよりも汚い文字で帳簿を書く人間が、この程度の文字解読できないわけがない。 ……ああ、そうか、高級酒だからな、酔いも早いのか。シアンちゃんや酒瓶を片付けてくれないか」
その言葉にシアンが笑顔で頷いた。シアンに取られないようにあわてて酒瓶を抱え込む。
「酔ってない! 酔っていない! この数字は、魔物の出現個所と回数だってことぐらいわかるさ」
「そうだ。各所から報告された魔物の出現位置と規模をすべてまとめている。誰が一番魔物と多く戦い商店街の防衛に貢献したかを調べるためにな」
どうしてそんなことをと訊ねるとヴォルフは市長からの頼みだからと答えた。迷宮内各所で働いている子爵所職員と嘱託冒険者たちの士気を上げるため、一番活躍した者に感状と金一封を与えるということになっているらしい。
へぇ、と驚いた声を上げる。感状はどうでもいいが金一封の褒章は気になる。市長直々の取り組みであれば、額はそれなりにあるのではないだろうか。
「言っておくが、あくまで対象は市役所連中であって、俺たち商店街の住民は対象外だぞ」
「なんだぁ」
その言葉にため息を吐く。今まで知らなかったということを考えれば当たり前のこともあるのだが、ちょっと期待したのに落とされるとその落差に余計にがっかりした気分になる。
「そう腐るな。これからお前さんの頑張り次第では、個人的に謝礼の一つぐらいなら出してもいい」
「へぇ、それは魅力的な提案だね。 ……それで、俺に何の仕事をさせたいのかな?」
個人的にという部分が気になるが、一応話は聞いておこうと思った。それから先ほどヴォルフから手渡された地図へと落とす。そこには魔物の出現時刻とおおまかな規模が書かれている。ちょうど半刻ごとに、大規模か小規模の魔物が交互に出現しているようだ。
まるで誰かの意思が介在しているように、規則正しく。
「気付いたか。 今回の迷宮変動は何かおかしい。 というわけで、だ。 迷宮最深部に降りて地下の状況を探ってきてくれ」




