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「日取り?」
「迷宮の調査だよ。ちょーさ」
当たり前のことだろうという口調でスピカは言った。しかし、いきなり調査と言われても何の話だが身に覚えのない話でさっぱりと理解できない。
特大のハテナマークを浮かべている俺の態度を見たスピカは、何か思い当たる節があるようで渋い顔を浮かべながら再び訊ねた。
「おっかしいなぁ、ハゲから説明することになっていたはずなんだけど……」
スピカの言うハゲとは商店街の会長のヴォルフの事である。確かにヴォルフは光り輝く頭をしているが、それをあだ名にしているのはこの商店街の中にはスピカしかいない。
「まったく身の覚えがないなぁ。というよりもここ数日間はヴォルフのおっさんに会っていない」
記憶をたどりながらスピカに返事をする。最後にヴォルフにあったのはカリンの歓迎会だったような気がするが、あの日の出来事は思い出したくない。心の奥底へ封印しておきたい出来事である。
「あのハゲ説明しなかったのかよ……」
頭を掻きながらスピカが呟く。ソファーから降りるとテーブルの上にあったか革袋に手を突っ込みごそごそと何かを探し始めた。
皮袋は先日報酬としてヴォルフから受けとったもので金貨が十数枚以上まだ残っている。店の営業に必要な仕入れ分の硬貨だけを取り出して残りはそのまま地下室の机の上に放置していた。不用心と怒られるかもしれないが、地下室には許可を出した人間しか入ることが出来ないように扉に固定化の魔法が施されており、いわばこの部屋事態が巨大な金庫のようなものである。そのため、貴重品が杜撰な状態で置かれているのだが。
スピカが革袋から一枚の紙切れを取り出し、視線を滑らせて中身を確認する。書かれてある内容に納得したのか、首を縦に振り手に持っていた紙切れを俺に手渡した。渡された紙に見覚えはあった。
「明細書だろ。これが何だって」
「そっちは裏だ。表を見てみろ、表を」
「表?」
スピカに言われるがまま紙切れをひっくり返した。表紙には金文字で契約書という表題が書かれており、細かい文字でびっしりと契約条項が書き込まれている。その中には迷宮管理局が受注者に対して、必要に応じて追加の調査を行うことが出来ると書き込まれている。
嫌な予感がした。確か先日に報告書を書いたときに受け取りにはサインが必要だからと言われて何かの様式に書いたような気がする。
おそるおそる書類の下方に目線をやるとそこには、見知った名前である『チハヤ=ユゥズル』という名前が書き込まれ、俺が経営する雑貨屋の社印が押されていた。
「ほう、このチハヤって人間は調査課の職員と迷宮の調査をしなければならないのか。変動が発生しそうな時期にご苦労なことで……、それじゃあ、俺は店の準備があるから。ああ、今日も忙しいなぁ」
ソファーから立ち上ろうとする。しかしそれよりも早くスピカの腕が俺の肩を掴んだ。
「そうだな、頑張ろうぜ」
「おう、頑張ってくれや。ああ、そうだ。回復薬とか迷宮内で使消耗品が必要であれば安く譲るぐらいの協力は……」
俺の肩に乗っていた指がめりめりと深く食い込いこむ。どうやら誤魔化すことはできないようだ。
「ははは、現実を見ようぜ」
「ははは……、畜生。やりやがったな! あのハゲ野郎!!」
この場にいない犯人の顔を思い浮かべながら吼えた。何が頑張って報酬を増やした、だ。余計な仕事をもらってきて俺に押し付けただけじゃないか。畜生め、次に顔を見たら顎鬚をむしり取って髪の毛として移植してやる。
仕事を押し付けられた怒りに腕を震わせていると、スピカが肩をたたいて慰めてくれた。
いろいろと腑に落ちないがこうなった責任は契約書をろくに読まずにサインをしてしまった自分にもある。行政手続きが面倒臭いといっても自分でやらなきゃ駄目だなと心の中で反省した。
仕方ないと諦め、他に見落としている事項は無いかと契約書の細部事項に視線を移す。調査場所は3階層から4階層。内容は迷宮変動の兆候の有無と現況の確認。依頼者は迷宮管理局調査課。
調査課が動き始めたということは行政も本腰を入れて調査を開始するつもりのようだ。本格調査を行うということは、行政が迷宮変動の発生は確実だと判断したということにはかならない。
視線を契約書からスピカに移す。赤みをおびた頭髪がランプの光に照らされて煌めいた。
「それにしてもなんでお前が何故ここにいる? 玄関の鍵は閉めているはずだけど……」
戸締りの確認はシアンの仕事である。真面目なシアンがやり忘れたとは考えにくい。
「風呂場の窓だぜ」
スピカが無い胸を張りながら自慢げに答える。
「開いていたから勝手に入った」
「……確かに換気のため常時開け放しにはしているけど」
額を手で押さえながら言う。それは世間でいうところの不法侵入にあたるのではないかと思ったが、それについては何も言うまい。
「子供かよ!ちゃんとノックして入口から入りなさい」
「そんなの、つまんない」
「そんな理由で……」
「うるせーな! そんなことよりも飯だ、飯! 朝食を用意しろ」
「はぁ? 飯?」
突然の要求に驚く。確かに朝だから朝食を食べるのは自然なことだと思うが、何故こいつに用意する必要があるのだろうか。その疑問についてスピカが答える。
「美人が冴えないおっさんをわざわざ起こしに来てくれた。それに感謝して朝飯ぐらい出すのは当然の理屈だろ」
「いや、その理屈はおかしい」
なんで頼んでもない暴力的目覚まし行為を感謝しなければならないのか。そして美人とは誰なのか。スピカの言葉にはいろいろと突っ込みたいところがあって頭が混乱する。ひょっとして、いろいろと問題を提起して思考能力を奪うとか、そういう高度な交渉手法なのかもしれないと一瞬だけ疑う。
「作れ!」
「嫌だ!」
「作ってくれないなら、嫌がらせをするぜ!」
スピカが漠然とした子供じみたことを言った。
何をするつもりだと聞こうとしたが、それよりも早く俺に向かって飛びかかり、俺を再びソファーの上に押し倒す。ちんちくりんな見た目に反してスピカは力がとても強い。抵抗するもなすすべなくマウントをとられてしまう。
スピカが俺を見下ろしながら不敵に笑った。スピカであることが少しだけ不満だが美人に押し倒されて見下ろされるというのは存外に悪くないものだと思う。ああ、本当にスピカでなければこのまま身を任せたくなるのに。
なんとかその手から逃れようと必死に抵抗する。お互いに乱雑に動くものだからボロソファーはギシギシと悲鳴を上げ、家具はガチャガチャと激しく振動した。
「朝からうるさいわよ!」
唐突な怒声とともに勢いよく出入口の扉が開いた。そこには寝間着姿のカリンが鬼のような形相で佇んでおり部屋にいる俺を睨み付けた。賑やかにし過ぎたせいで起きてしまったようだ
俺の上にもう一人別の人間がいるとこに気が付くと、驚きの表情を浮かべ固まる。
少しの沈黙の後、鬼のような形相でカリンが俺を睨む。
そりゃ、怒るよな。
俺の今の姿はシアンに近い年恰好をした女の子に押し倒されているのだもの。朝から何をしているのだと思われるのは仕方ない気がする。まぁ説明すればわかってくれるだろうし、たとえ話が拗れたとしてもシアンを呼べば説明してもらえるだろう。
そんなことを考えながら冷静にカリンに説明しようと口を開く。
「テメェ、なに女なんかを連れ込んでんだ! このスケコマシ野郎が!」
なぜか怒り始めたのはスピカだった。スピカはその細い腕で俺の首を押し潰すように握りしめる。ちょうど気管支を押し潰す見事な首絞めであった。
「説明するがら! てを、で、ばな……」
「早く説明しやがれ!」
スピカの手にますます力がこもる。
朝の始まりがにぎやかなのは嫌いではないが、これはやりすぎだなぁと薄れゆく意識の中でぼんやりと考えるのだった。




