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主人の居室は館の最上階にあたる場所にある。階段を上るのが面倒くさいから1階に居室を構えてくれないかとお願いをしたことがあったが、高いところから下々の人間を見下ろすことが出来なくなると一蹴された。
俺のすぐ後ろを一歩遅れて歩きながら、そこを左側です、そこは右側です、階段を上ってくださいと案内をする。
素直に案内に従うが、内心では正直なところ主の部屋までの道のりはおおむね把握できているため案内など不要だと思っていた。
しかしそれを断るつもりはない。俺が断ってしまえば、メイドは主人からなぜ仕事をしなかったのかと責められるかもしれないと思ったからだ。主人は温厚な人間だが真面目に仕事をこなさない人間には少し厳しい。
そして、二人並んで目的地にたどり着く。メイドは派手に装飾された扉を叩いた。
「ベアトリクス様。お客様をお連れしました」
「どうぞ」
少女のように細くて綺麗な響きを持った声が室内からあった。
主人からの言葉を確認すると小さな腕で大きな扉を開ける。それからメイドは俺の方に向き直ると頭を下げた。
主人は窓辺の近くにある椅子に腰を掛けながら外の様子を眺めていた。テーブルの上にはワインの瓶とグラスが二つ置かれている。
「お久しぶりね」
扉のしまる音が部屋に響くとの同時に、主人は俺の方へと視線を移して頬笑んだ。
見慣れている顔のはずなのに、その仕草にはいつもドキリとさせられる。整った顔立ちは美の象徴と呼べるほど美しく、陽光を浴びて輝く銀髪は芸術品を思い起こさせるものである。年の頃は30手前ぐらいだったはずだが、白く美しい肌のため、それ以上に若くも見える。
しかし、それらの外見的特徴をよりもさらに印象に残るものが彼女には存在した。鮮血のように鮮やかな色をした瞳である。
まさにその美しさは人間離れをしたものであった。それもそのはずだ。彼女は人間ではないのだから。
「今回は思っていたよりも早かったわね。もう少し待たされるものだとばかり思っていたわ」
「前回の時に散々文句を言われたからな。俺としても恩人を餓死させるわけにはいかないから」
「あらあら、今日は雨でも降るのかしら? 粗野なあなたからそんな優しいな言葉が聞けるなんて」
「最近は誰にでも優しくするように努力するようにし始めたのさ。ビアーティだけじゃなく、誰でも平等にね」
彼女の名前はベアトリクスだが、愛称であるビアーティと呼ぶようにと言われているため、二人でいるときはそう呼んでいる。
「それは良い事ね。素敵で殊勝な心がけだわ」
そう言ってビアーティは笑った。口元を抑えて上品に笑うが、一瞬の隙間から、人間の持つ犬歯とは大きくかけ離れた形状をしたものを見ることが出来た。
ビアーティは俗に吸血鬼と呼ばれる種族である。それも数多くの眷属がいる吸血鬼の中でも真祖と呼ばれる上位種の存在であった。
本来であれば吸血鬼は人間の天敵と呼べる存在で、人に害をなすことが宿命づけられた存在である。ビアーティも例外ではないはずなのだが、どうしたわけか彼女は本来憎むべき人間を愛おしく思っている。
過去に一度だけ理由を訊ねたことがあったが、人間は壊すよりも眺めていたほうが面白いからと本当なのか冗談なのよく分からない答えを返されてしまった。
「それで、今日の要件は何かしら?あなたの事だから何か別の要件があるから、早めに私を訪ねてきたのでしょう?」
「え!うん、まぁ、そのとおりなのだけど」
お願いがあってきたことがばれていて少し動揺する。それを見てビアーティは言った。
「付き合いの長いあなたの事だもの。何でも分かるわよ」
ビアーティが笑いながら言った。それにつられるようにして俺も苦笑する。確かにそうだ。この国に来て一番付き合いの古いのはビアーティなのである。お互いに大概のことはお見通しという関係なのだ。
「お願いというのは他でもない。預けて……」
「それよりも、先にこっちをお願いするわ」
そう言って、ビアーティは椅子の傍らに置いてあった木箱をテーブル机の上に置いた。
「ああ、わかっている。わかっていますよ」
いつもより早い時期にこの場所に着たのだが、だからと言って我慢できるわけではないようだ。彼女のお願いに子供の様に頷く。
俺は箱のふたを開けて中身を取り出す。箱の中にはくすんだ銀色をした大きな杯と短刀が納められている。派手な装飾はないものの、独特の雰囲気とほんのりと感じることのできる魔力から、素人であってもマジックアイテムの類だということはすぐにわかるといった外見をしていた。
杯を机の上に置いて、その上に右腕を掲げる。右腕の動脈に短刀を近づける。深く深呼吸し、覚悟を決め、勢いよくそれを手首に押し当てた。
肉を切り裂く鋭い痛みが走る。鮮血が舞うよりも先にその臭いが部屋に充満し、少しだけ遅れて、右手の動脈から勢いよく鮮血がほとばしった。普通であればその血液は周囲四方へ飛び散るのだが、目に見えない何かの力で押さえつけられているかのように、血は真下に垂れるだけであった。
これは銀杯に付与された魔法の効果で、その効果に従い血液は一滴もこぼれることなく杯の中へと納まっていく。
「この光景はいつも見てもいいわね。貴方の新鮮な血液が絞り出されるのを見ると、はしたないとは思うけど直接飲みたくなってしまうわ」
流れ出る血液を見ながらビアーティはうれしそうに言った。
彼女に血を与えるときは、傷口から直接飲ませるようなことはさせていない。その理由は吸血鬼が持つ能力。いや、特性というべきだろうか。噛み付かれたものを己の眷属へと変貌させる能力があるためである。
「褒められるのは満更でもないが、血の味に差異などあるのかね。俺からしてみれば誰のものでも然したる差はないと思うが」
「いいえ、違うわ!全然違う!年齢、性差、生活環境、魔力の有無。それらの要素がまったく同じ人間なんて一人もいないのだから、血の味だって一人一人に個性があるものよ」
その姿をみて彼女はうれしそうに、いとおしそうに微笑んだ。
「その中でも貴方のものは格別だわ。随分長い刻を生きているけれど、これほどのものを口に入れたのは数える程しかない」
昔を懐かしむようなうっとりとした口調でビアーティは言った。好物の話となると彼女は少しだけ、吸血鬼としての素顔を見せる。
この表情を見ると、やはり直接血を飲ませるわけにはいかないなと思った。




