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魔物がうなり声をあげて俺たちの進路を塞ぐようにして佇む。
魔物の種族は黒妖犬という種族の魔物である。巨大な犬のような見た目をしているが、普段は幽霊のように実体が存在しない。物理的な行動をとることが必要となった時に、魔力によって肉体を実体化する。
普段は霊体化して不可視の存在となっており、魔力を持たないものとっては実体化しなければ存在を確認することはできないため、気づかぬうちに攻撃されて殺されてしまうということがよくある。
また、実体化中は常に生命を停止させる魔力波を周囲に発信し続ける。そこまで効力は強くないものの、小型の生物や大型の生物であっても怪我などで弱っている状態であれば、その魔力波だけで即死してしまう。人間も例外ではなく生命力の弱いものなどは、近づかれただけで死に至る場合もある。
「え!なんで!こんなところに、こんな魔物が!」
突然の魔物の出現に、カリンは悲鳴に近い叫び声を上げた。冒険者時代の癖なのか、腰に手を伸ばして武器を取ろうとする。しかし、その武器は先日売り払ってしまったので、当然手は空を切ることになる。それを思い出したのか、カリンは青い表情を浮かべ、ますます慌てた。
「大丈夫ですよ。カリンさん」
シアンが静かで落ち着いた声で言った。それから、カリンを守るように前へと足を進め、黒妖犬に近づく。その行動にカリンが危ない、下がってと叫んだ。
しかし、シアンはカリンの声を無視してさらに魔物に近づく。シアンが魔物の間合いに踏み込んだ瞬間、魔物は飛びかかろうと口を大きく広げ、不気味に輝く鋭利な牙を見せた。
食べられる。そう思ったカリンは声にならない悲鳴を上げて目を閉じる。目の前で発生しようとしている凄惨な光景から目をそらした。
しかし、その凄惨な光景はいつまでたっても発生しない。しないどころか想像とはま反対の笑い声が発生した。
「くすぐったいよ。セタンタ」
シアンが微笑みながら言った。魔物は噛み付くのではなくシアンの頬を大きな下の先で控えめに舐めるために口を開けたのだ。
「……どういうこと?」
ほほえましい光景を見てカリンが訊ねた。
「この魔物はここの門番だ。魔物だけど人に良く馴れている」
「え、魔物が?」
カリンが驚きの声を上げる。確かに魔物は人間のいうことを聞かないというのが一般常識である。魔物は狂暴性が強く、知性と呼べるものを持つ種族が少ない。人間を襲わせないように訓練することはまず不可能だ。中には知性があり人語を理するような魔物も存在するが、そういった連中は自分のことを人間よりも上位に位置する生き物だと思っており、人間の指示に従うようなことはしない。
しかし、何事も例外は存在する。
「ほっほっほ。セタンタが急にいなくなったと思ったから、何事かと思ったが。雑貨屋の主だったか」
黒妖犬の脇から、杖を突いた初老の老人が姿を現す。顔には多くの傷跡と皺が刻み込まれ、禿げ上がった頭にわずかに白い髪の毛が残っている。失礼な言い方だが人相が悪く、暗闇から唐突に表れると幼い子供なら泣き出してしまうかもしれないような強面である。
サシャの時と同じようにカリンに老人を紹介する。
老人は裏口の門番と3階層にある牧場の経営者をやっている人物で、名前をラザール・ボロという。世にも珍しい魔物使いの技能を習得しており、魔物愛好家の中では高名な人物sである。
「魔物愛好家?そんな人いるの?」
「いるぞ。自慢できる趣味じゃないため、少数派ではあるが。主に権力者とか金持ちとか珍しいものを集めたがる人集だな」
カリンの質問に答える。そんな悪趣味を持つ者など両手で数えるほどしか知らないが、それでも確かに存在している。
「ほっほっほ。雑貨屋の。その言い方はやめてくれないかの?魔物愛好家のイメージが悪くなる。儂みたいに純粋に魔物が好きな奴とあれらを一緒にせんでくれ」
心底嫌そうな表情を浮かべる。心の底から魔物を愛しているラザールにとって、上っ面だけで魔物を飼おうとしている存在は唾棄すべきものであった。
「まったく、魔物とてその辺の動物と変わらん。愛情を持って接すれば心を許してくれるし、懐いてくれれば、動物以上に愛らしくなるとうのに」
「懐かせるのが難しいからな。その魅力がわかるのはごく少数だと思うぞ」
「ふん、少数で結構、わかるやつにだけわかればよい。あのお嬢ちゃんのようにな」
ラザールは手に持っている杖の先端でシアンと魔物を指示した。そこには巨大な黒い犬がゴロンと寝転がり腹を見せていた。シアンはよしよしと言いながら、自分の体以上に大きなお腹を撫でている。セタンタはくすぐったいようで体をよじらせるがまんざらでもなさそうに小さな鳴き声を上げた。
「……確かにあれを見ると、かわいいような気がするわね」
子犬のようにじゃれつく魔物を見てカリンが言った。自分も撫でてみようとセタンタに近づく。しかし、カリンが近づくとそれまで甲高い声を上げていたセタンタはカリンを睨み付け再び低いうなり声をあげる。
「え? え? ちょっとどういうこと?」
態度の急変にカリンが困惑した表情を浮かべ戸惑った声を上げる。
「敵だと認識しているみたいだな。初めて出会う人間だから」
「そうじゃな。商店街の住人だと判断できない存在にはああなる。儂やお嬢ちゃんがおるから攻撃こそしてこないが、一人だった間違いなく食い殺されているじゃろうて」
ラザールが顎鬚をなでながらカリンに言った。それから、懐から干し肉を一枚取り出してカリンに差し出す。
「だから、まずはお主を商店街の人間だと理解させなければならん。セタンタは賢いからの。儂特製のエサを手ずから食わしてやれば、仲間だと認識してくれる」
「そうなんだ」
カリンが受け取った干し肉を見ながら言った。しかし、その表情には浮かないものがあった。
「やっぱり不安か?」
カリンに訊ねた。無言でカリンは頷く。唸り声をあげる巨大な魔物にエサを与えるなど、今日に対象でしかない。エサを与えた瞬間に自分事食われるのではないかと想像してしまうのだ。
「仕方ないのう。儂が手本を見せてやろう」
カリンの不安を解消しようとラザールが、シアンと戯れるセタンタに近づく。エサを与えようとした主人に気が付き、体を起こして、大きな口を開けた。
「ねぇ? やっぱり私には無理だと思うのだけど」
「遊んでいる途中に邪魔したからなぁ」
俺とカリンは目の前で繰り広げられる惨劇にぽつりと感想を言い合った。
セタンタの口が噛み付いたのはラザールが持っている干し肉ではなく、ラザールの禿げ頭であった。本気で噛み付いているわけではないようだが、鋭利な牙はしっかりと肉に食い込んでおり、ラザールの頭からは鮮血が噴出している。
「ほっほっほ。違うぞ、セタンタ。遊びたい気持ちはわかるが、今はこっちじゃ、こっち」
右手の干し肉を上下に揺らしながらラザールが言った。しかし、セタンタはそれを見向きもしない。カリンが咬まれ続けるラザールと俺を交互に見る。目の前の惨状をどう受け止めればいいのかわからないという表情だ。
「助けなくていいの?」
「うーん、爺さんも満更でもなさそうだし、助けなくてもいいんじゃないかな? 爺さん咬まれてもそれをスキンシップだと喜ぶような人だし」
この迷宮に来た時に、大蛇に首を絞められて殺される寸前になったラザールを見たことがある。あの時も今回のように恍惚の表情を浮かべていたな。今回は咬まれているだし放っておいて大丈夫だろう。
「そっか」
カリンは納得したのか短く呟いた。その呟きの後に小さな声で、気持ち悪いという声が聞こえたような気がした。




