いじめられし者の、心の声
今、田中の目の前に――田中がいる。
周りには誰もいない。いるのは、もう一人の田中。
なぜだろうか。
首をひねりながら、その田中の体に視線を凝らす。
瞳は閉じられ、蒼白に染まる顔。
力なくだらりと下がった両腕。
さらに視線を落とすと、足は床を離れ宙に浮いていた。
視線を戻す。
見れば、白い首輪をつけていた。
だが、それは犬がつけるような可愛らしいものではなく、冷たく無機質なもの。少し首の肌に食い込んでいる。
その瞬間、気づいた。
それは首輪ではなく、ロープであることを。
一端は田中の首にくくられ、もう片方は、カーテンレールに硬く結ばれていた。
なぜ、田中はこのような状態にあるのだろうと疑問がよぎる。
そのときだった。
背後から部屋の扉を開く音が聞こえた。
振り向くと、母親だった。
そうだ、もう学校に行かなけらばならない時間だ。
窓の外はすでに昇った朝日が街を照らしている。
恥ずかしながら、高校二年生にもなって一人で起きれない田中は、いまだ母に起こしてもらっていた。
だが、今日はなぜか自ら目覚めていたようだ。
おはよ
そう、母に声をかける。
しかし。
母は田中を見た途端、顔を凍りつかせた。
一瞬の沈黙後、顔面を激しく歪め、口から悲鳴を迸らせる。
そんな母の姿に驚くと同時に、不審な気持ちを抱く。
母の響くような叫び声が聞こえたのか、父親がやってくる。
部屋に入ってくるや、父も田中を見ると、目を大きく見開いた。
なぜ、そんな反応をするのだろうか。
そこで、ようやく気づいた。
二人の視線は田中ではなく、その背後、もう一人の田中に向けられいた。
そうだ。
田中は自殺したのだった。
昨晩、両親が眠りについたのを確認した後に、以前購入したロープをくくりつけて。
日々、学校のやつらから受けるいじめに堪え切れられなくなって。
どこかのお偉いさんが偉そうに述べていたことを思い出す。
いじめに耐えられなくなって不登校になる者は、社会で生きていくことはできない、と。
この発言がさらに田中を自殺へと追い込んだのだ。
床に膝をついて、激しく泣き叫ぶ母。
絶命しているのは明らかなのに、それでも救急車に電話する父。
田中はこの家庭で不自由なく過ごしてきた。
両親には常々感謝している。
両親も田中のことを愛してくれた。
だが、田中は死んだ。
しばらくし、救急車に運ばれていく田中の体。
息子の名をいまだ呼びながら、ともに乗り込む両親。
遠ざかっていく救急車。
唐突に訪れる静寂。
ふと、学校に行ってみることにした。
今歩いていけば、ちょうど一時間目の数学の授業が行われているころだろう。
いつも田中は不安を胸に抱えながら歩いていた通学道。
顔を上げて歩いてみる。
風邪に揺らされる公園の木。
小さな小屋で眠る犬。
ゆるやかに流れる川。
普段歩く道はこのような景色だったのか。
学校に着き、田中は田中の教室に向かう。
この時間の校内はこんなに静かだったのか。
いつも騒々しいと思っていた。
廊下から窓越しに教室内を覗く。
知っている顔が静かに授業を受けている。
扉をすり抜けて教室に入る。
ふと、一人の生徒の前で田中は止まった。
加藤だ。
こいつは田中をいじめていた。
――なぜ、僕をいじめてきたのだ。
田中の心の声。
そして。
――殺してやる。
退屈そうな顔をして授業を受け続ける加藤に向けて、そう言い放つ。
次に体の向きを変え、違う生徒の前に立つ。
その生徒は――俺だった。
平然と授業を受ける俺に、田中は鋭い眼差しで睨む。
なんで、そんな憎悪に染まる目で俺を見るのか。
俺たち友達だったじゃん!
――僕がいじめられていたの知ってたくせに、なんで助けてくれなかったの?
俺も助けようと思ってたんだ! だけど……
――僕たち、友達じゃなかったの?
そうだ、友達だよ!
――それなのに、君は僕を見捨てた。
違う! 俺は止めようとしたけど、加藤のやつが……俺までもをいじめるって。
――自分の身を案じたんだね……友達がいじめられているのに。
…………
――知ってた? こういうとき、いじめるやつより、それを知ってて助けてくれない友達のほうが、卑劣であることを。
な、そんな……!
――もう、いいよ。
ま、まて!
――――殺してやる。
俺は飛び跳ねるように体を起こした。
ベッドの上。
急いで携帯を手にとり、田中に電話する。
何コール後かに、もしもし、という声。
田中は生きていた。
あれは夢だった。
そうとわかった瞬間、俺は言った。
ごめん、今まで知らん顔してきて、と。
え? という田中の驚き混じりの声。
そして、俺は瞳に決然とした光を浮かべた。
――俺が必ず、助けてやるから!