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西利代子が訪れた翌日、県内で連続通り魔事件が起こり、大神蒼甫はしばらく家を空ける日々が続いていた。その間に、常葉はリンに出生の秘密と麻衣子の事情を話して聞かせた。リンは受け取った通帳を抱きしめて言った。
「あたし、お母さんを苦しめてたんですね」
それは違うと常葉は諭す。
「あなたたちはちゃんと親子だったの。叔母と姪だったけれど、今までずっと親子だったのよ。ただ、麻衣子さんには新しい家族ができた。麻衣子さんはあなたが一人でも生活できるしっかりした子だと思ったから、こうしてお金の管理も任せたのよ」
リンはいろんなことがいっぺんに思い出される。幼いころの記憶。
『リンはお人形なの』と笑う女の人の顔。それが、本当の母の顔だった。常葉の話では幼い頃の記憶が曖昧なのは、年齢のせいもあるけれど、リンが麻衣子を困らせないために無意識に隠し通していたのだと言った。
「二人とも、傷つけあわないように、お互いに隠してきたのよ」
リンはときどき思いつめたような顔で『お母さんじゃない』と麻衣子がつぶやくのを思い出していた。それでも、何度も守ってくれたのを思いだす。麻衣子が付き合った男の中に、リンにいたずらをしようとした男がいた。そうつぶやくのは、そんな人をなじって別れた時だ。今、麻衣子がいっしょに生活している北条暁彦とは、三回くらいあっている。穏やかな人だったけれど、笑わないリンに戸惑っていたのを思い出す。今まで麻衣子が付き合ってきた男とは違う気がしていた。良太が生まれても、いっしょに暮らさなかったのは、自分と恋人の間に何か起こることを麻衣子は恐れたのだろうと思った。そう思うと胸が苦しくなった。自分さえいなければ、麻衣子はもっと早く幸せになったかもしれないと。
「あたしは……ただ、覚えてなかっただけで……」
「リンちゃん、無理しなくていいの。もう、無理しなくていいの」
常葉は無表情になるリンを抱きしめてそう言った。
「これからゆっくり変わっていけるから、もう、泣いても大丈夫よ」
リンはようやく声を殺して泣いた。お母さん、ごめんなさいと謝りながら。常葉にそっと抱かれて泣いた。それから、数日して利代子から連絡があった。直井麻衣子の夫である北条暁彦が正式にリンを大神家の下宿人として契約してほしいので、大神夫妻に会いたいをいう話だった。
蒼甫は捜査で時間がとれないので、常葉が会うことになった。
「厚かましいお願いで申し訳ありません」
三十代後半の長身の男性が玄関さきで、常葉に頭を下げる。
「まあま、とにかくあがってくださいな」
常葉はにっこりと笑い、北条暁彦を応接間に通した。
「利代子さんから聞きました。正式に下宿の契約をしたいと」
「はい、本当なら僕たち夫婦でリンちゃんの面倒を見るのが筋だとはわかっています。けれど、僕も麻衣子も自信がないんです。麻衣子はリンちゃんを捨ててしまったと自分を責めて……今はいつも通りにふるまっていますが、無理をしているのはわかるんです。でも、僕には何もできない。僕らには良太もいます。正直、僕は大神さんがリンちゃんを預かってくれることにほっとしました。ただ、僕のけじめとしてちゃんと下宿人の契約をしたいんです。お願いできますでしょうか」
常葉はにこりともちろんですと微笑む。
「ご事情がご事情なだけに、麻衣子さんはたいへんご苦労されたと思います。リンちゃんはとても素直でいい子です。ただ、感情が表に出にくいのと、とても世間ずれしている。一般的な家庭というものがどうなのかもわからないくらい、麻衣子さんと二人だけで必死に生きてきたんだと思います。私はそんなリンちゃんに少しでも人に頼ることが悪いことではないことを知ってほしいんです。もちろん、麻衣子さんにも。だから、北条さんの方法は間違っていませんよ」
北条はようやく緊張がとけたようにほっとした顔でありがとうございますと頭を下げた。
「契約書類は西さんに頼んでつくりますから、今晩は一目、リンちゃんに会ってあげてくれませんか?麻衣子さんのことをとても気にしているんです」
「はい、ちゃんと僕からも話がしたいです」
ちょっと待っていてくださいねと常葉はリンを呼びに行く。しばらくして、リンと二人でもどってくると二人で話しますかと言ったが、リンが常葉の腕をつかんでいたので、常葉は大丈夫よと言って同席した。
「やあ、ひさしぶりだね」
「はい。北条のおじさん……あの、母は……麻衣子おばさんは元気ですか……」
「今は、落ち着いているよ。君のことを捨ててしまったと後悔して自分を責めてた。たぶん、今もそうだと思う。だから、僕は麻衣子の代わりに伝えに来たよ。麻衣子は君を捨てたんじゃないんだ。ただ、時間がほしいんだと思う。僕の言ってることわかるかな」
「はい……」
リンは真剣な顔でうなずく。
「自分のお金の管理を任せてくれたんだって常葉さんに言われました。下宿代もそこから払おうっておもっています」
「そこは、僕に払わせてほしい。僕は君にそれくらいのことしかしてあげられないから。それに、麻衣子の心の負担を少しでも軽くしてあげたいんだ。君を捨てたんじゃなくて、ちゃんと下宿させてるんだって思ってほしいから」
リンはしばらく迷うように言った。
「……麻衣子おばさんは、それで元気になってくれますか?」
「すぐには無理でも、いつかきっといい方向に行くと思う」
リンは真っすぐに北条の目を見て言った。
「北条さん、お母さんを……麻衣子おばさんを幸せにしてください。あたし、もっとちゃんと大人になったら会いに行くから自分を責めないでって伝えてください」
北条は、伝えるよと泣きそうな顔で言った。
「じゃあ、下宿の件はどちらも同意ということで」
常葉が笑顔でそういうと、二人ははいとうなずいた。
リンは北条を門まで見送ると、しばらくして呼吸があらくなった。常葉はすぐさま離れにつれていき、布団を引いて横にした。そして、ゆっくり背中をさする。ナツがすぐさま飛んできて、リンに体を摺り寄せる。
「大丈夫よ、ナツ。ちょっと過呼吸になっちゃったの。リンちゃんゆっくり呼吸するの。苦しいかもしれないけど、ゆっくりね」
リンはうなずく。言われたとおり、ゆっくりと呼吸する。隣の部屋にいたらしい聡が襖を叩いたので、常葉は紙袋をもってきてと頼んだ。聡が紙袋をもってくると、常葉はリンの口に紙袋の口を当てた。
「過呼吸のときはね、紙袋で自分の呼吸を吸うの。そうすると酸素をとりすぎなくなって落ち着くから。聡さんも覚えておいてね」
そう言われて聡はわかったとうなずいた。そして、聡は紙袋がないときはどうしたらいいんだと聞く。
「そうね、ハンカチで口を押えて横になってゆっくり呼吸するようにすれば、大丈夫よ」
「わかった。他に必要なものとか、病院とかは?」
そういうと、リンが大丈夫、もう大丈夫とつぶやく。
「そうね……聡さん。ここに座って背中さすってあげて、リンちゃんはもう少し息を整えてね」
常葉は聡と交代する。するとナツがリンの背中にまわり、さするように体を擦り付けはじめた。
「あらあら、ナツったら」
常葉は面白そうにくすくすと笑った。聡は仕方がないので、ナツを挟んでリンの背中をさすった。
「病院に行くのは、様子をみてからにしましょうね」
常葉はそういうとそっと部屋を後にした。