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西利代子は必要な書類を大神蒼甫から受け取った。書類を確認すると、直井リンは直井麻衣子の実子として登録されていた。利代子は、てっきり亜沙子の籍に入っていると考えていたが、違っていた。
(この食い違いと違和感はなにかしら)
噂通り、高校生の麻衣子がリンを生んで家出したのだろうか。出生時期から逆算すると、亜沙子が施設に通わなくなり、近所にさえ姿を現さなくなった時期が符号していく。麻衣子が家出をした時期がリンが生まれて半年後である。そして二十歳で転籍している。
(戸籍だけみてると、まるで虐待やDVから逃れたような形ね)
とりあえず、転籍先から現在住所を調べてみると案外とあっさり麻衣子は見つかった。リンが住んでいたというアパートの住所から隣の市に移っている。利代子は、とにかく麻衣子と連絡をとり、なんとか会って話ができるよう算段をつけた。
そして、麻衣子の指定した日時と喫茶店に出向く。
(さて、来るだろうか)
そう思いながら十分ほど早めに来て、通りに面した窓際の席に座った。約束の時間は午後一時。その時間はゆるやかに過ぎはじめた。利代子は、コーヒーを一杯頼んで、窓の外を眺める。三十分ほどすぎると、一人の女性が喫茶店に入ってきた。彼女はきょろきょろと店内を見回し、利代子と目があった。利代子は軽く会釈すると、向こうもわかったのだろう、利代子の席へ近づいてきた。
「西利代子さんですか」
「ええ、直井麻衣子さんですね」
麻衣子はうなずいたので、利代子は席を進めて飲み物を注文するよう促した。ついでに、利代子は自分の分のコーヒーのおかわりを頼む。
「リンのことなんだけど……正直、関わりたくないんです」
「そうですか。けれど、彼女はあなたの子供ですよね。その場合、保護責任者遺棄ってことになるんですが」
利代子は法的なことを口にする。それを麻衣子は鼻で笑う。
「そんなもの。あたしには関係ないわ。あの子はあたしの子じゃないもの」
「どういうことです?」
「あれは姉の子よ。まったく、とんだもん残してくれたわよ」
麻衣子は窓の外を見ながら、淡々と話す。どうやら、利代子の勘は当たっていたようだ。
「あの子はね、姉がレイプされて産んだ子なの。そういうの隠すために出生届けをあたしの名前で勝手に書いて。勝手に三人で死んで……葬式の時、みんなしてあたしのことを白い目で見たわ。法的だろうがなんだろうが、あの子はあたしの姪よ。娘じゃないの」
そう麻衣子がため息交じりに吐き出したとき、ウェイターがコーヒーを二つ置いていった。麻衣子はコーヒーカップを両手で包み、じっと見つめて話を続ける。
「あたしは十七で家を出されたの。自分で出たんじゃないわ。バイト先の店長の家に追い出されたのよ。姉の出産で家の中めちゃくちゃで……あたしは、少しでも姉の支えになりたかったのに。あの人たちは、高校だけは出してやるから家を出てくれて頭下げるのよ。そんなことされて、嫌だなんて言えないでしょ」
ようやく顔をあげて利代子を見た麻衣子の眼には憎しみとも悲しみとも区別のつかない色が滲んでいた。利代子はただ、黙って聞く。麻衣子も一種の被害者なのだ。傷つきながら生きてきたのが、利代子にはわかった。
「そう、じゃあ、なぜ彼女はあなたの籍にはいったままなの?」
「母親が勝手にあたしの名前で出生届けをだしたせいだっていったでしょ。あたしは家族と縁を切るつもりで転籍届けを出すことにしたのよ。あたしを居候させてくれた人がいろいろ知ってて。そのとき、はじめて知ったわ。驚いたわ。だから、どういうことか、問い詰めたら……」
麻衣子はそこで大きくため息をついた。
「亜沙子には子育ては無理だからって……それでも、産んでもいない子を産んだなんてことにされたあたしはどうなのよ。文句いってやりたかった。だけど、出来なかったわ。姉はね。リンを人形だと思ってたのよ。動く人形だって、笑うの……だから、あたしはもう何も言えなかった。あの人たちはもうどうしようもないくら疲れ切っててまともな思考なんてできないんだってわかったから……リンの籍をそのままにして転籍したの。まさか、その一年後に三人で死んじゃうなんて思わなかったわ」
麻衣子は苦しげに唇を噛む。もう、これ以上は何もいいたくないのだと利代子にはわかった。
「一つ教えてほしいのだけど。突然、出ていったのはなぜ?」
「突然じゃないわ。良太産んでから、旦那の家で暮らしてるし、ときどき様子見に帰るだけだったもの。それでもあの子は文句ひとついわないし……もう、リンも高校二年だし、仕送りしてれば一人でやってけると思ってたわ。まさか、アパート追い出されてるとは思わなかったけど」
「大家さんはあなたが滞納して、出て言ったってリンさんにいったそうよ」
「滞納なんてしてないわ。ただ、電話でリン一人がアパートに残りますからよろしくってだけつたえといたのよ。なんで追い出されたのかわからないけど。とにかく、これ以上関わりたくないの。これ、リンに渡しておいて。あの子の全財産だから」
麻衣子はそういって通帳と印鑑をテーブルに置く。それからコーヒー代といって千円を置くと席をたちあがった。
「ちょっと待って」
利代子はやわらかい声で引き留める。麻衣子はきつい目で、けれどどこか戸惑うような表情で利代子をみた。
「いろいろ話してくれてありがとうございます。リンさんのことは、こちらに一任していただけるということでよろしいんですね」
「そうよ……」
麻衣子は少し小さな声で、あの子はあたしにはわらってくれないとつぶやき、真っすぐに利代子をみて言った。
「とにかく、これ以上関わりたくないわ」
「そうですか。わかりました。ただ、リンさんが二十歳になるまでは、あなたが保護者であることに変わりはないので、いろいろ手続きが必要な時に私と会っていただけませんか。そうしないと、逆にあなたのご家族にも迷惑になると思いますから」
麻衣子は何かをのみ込むように、わかったわと頷いた。利代子は自分の名刺とコーヒー代としてテーブルに置かれた千円札を麻衣子に握らせた。
「リンさんのことは心配しないでください。私が責任を持ちます」
利代子は真っすぐ麻衣子の瞳を覗き込んで言った。麻衣子は一瞬泣きそうな顔になりながら、名刺と千円札を鞄につっこみ、乱暴な口調でじゃあよろしくと言って、つかつかと喫茶店を出ていった。
(本気で捨てたいわけじゃないのね)
利代子は渡された通帳の中身を見ながら思った。かなりの大金が手つかずのまま。それどころか、途中から毎月一万円が振り込んである。本気で捨てる親は、子供の将来など気にしない。金銭的にさえ。彼女は関わりたくないといいながら、完全に縁を切れるほどひどい人間でないことを利代子は確信した。
翌日、結果の報告をしたいからと蒼甫に連絡をとると、家に来てほしいと言われた。利代子も責任を持つと言ったからには、リン本人にも会っておきたかったから了承し、三日後、土曜日の午後八時に大神家を訪問することになった。
「……というわけで、リンさんは彼女の姪だったわ」
客間で蒼甫と常葉に報告すると、ふたりはそうかという顔でうなずいた。
「麻衣子さんは、よくがんばったとおもうわ」
常葉は、いつもと違う透明なガラスのような表情でそう言った。
「感情の乏しい子供を育てるのは、それなりに苦労するの。私自身がそういう子どもだったから、親の苦労はよく知っているし、まあ、おかげで聡を育てるときに工夫できたけれど」
そこでようやくいつものふわりとした常葉の顔に戻る。利代子はこの人にもいろいろあったんだろうと思いながら、麻衣子から渡された通帳と印鑑をテーブルに置いた。
「かなりの額がはいってる。これなら、大学でも短大でもどこでも進学は可能よ。保護者の了解がいるようなことについては、連絡を取る約束もしてきたわ。その辺は、あたしが責任持つっていっちゃたんだけど」
相変わらずだなと蒼甫が苦笑する。
「じゃあ、連絡役を引き続きお願いするよ。リンちゃんには、どう伝えようか。かなり、複雑だし、重いとは思うが、隠すわけにはいかないだろうな」
蒼甫はちらりと常葉を見た。常葉はふわふわした笑顔で私が話しますと言う。
「大丈夫よ。リンちゃんは頭がいいし、優しい子だから。ちゃんと話せば、麻衣子さんの気持ちだって理解できると思うの。それに、何かあっても私がちゃんとケアします。利代子さんも安心して」
「じゃあ、常葉さんにおまかせします」
はいと常葉は微笑む。そのとなりで、俺もできるかぎりのことはするぞと蒼甫がいうので、二人はくすくすと笑った。
「まあ、確かに大した役にはたたんだろうがな……」
蒼甫は拗ねた子供のようにそう言った。