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西利代子は、ため息を深々とつく。久々に尋ねてきた大神蒼甫は、また面倒な仕事を持ち込んできた。
「あんたねぇ……ただでさえ、忙しいのよ。うちは!!」
知ってるよと笑う中年男。蒼甫は笑うと温和な紳士に見えるが、中見はかなりの策士である。普段は刑事部のお偉いさんのくせに、デスクワークが嫌いで広域捜査や特別捜査の指揮をとっている。
(というより、現場の刑事といっしょに歩き回るから周りは迷惑だろうに……)
利代子はそう思いつつも、蒼甫が息をするように人から信頼を得るカリスマ性は警察より政治家か宗教家むきじゃないのかなどと考えることがある。が、とりあえずは、今回は大学時代の悪友としてではなく、正式な依頼なので余計なことは考えない。そして、今回の依頼はある少女に関する調査だった。
利代子の仕事は平たく言えば【探偵】だ。主に行方不明者を探す。ただし、行方を探し出すだけが仕事ではない。行方をくらました人間をみつけ、交渉するのも仕事だった。なぜなら、行方をくらます方にはそれなりに理由がある。行方不明者の中にはDVや虐待被害者がいることも多い。そのため、簡単に所在を依頼人に知らせるわけにはいかない場合もある。また、犯罪がらみの場合も依頼人や警察との交渉が必要になる。
今回の少女直井リンについても、いろいろと問題がある。蒼甫の依頼は、リンの母親を探してほしいということだった。話によると聡がクラスメートのリンを連れ帰ったのだが、どうも虐待され、捨てられたらしいというのだ。リンの母親には、外に男がおり、その男との間に男の子を産んだのが三年前で、この春突然アパートを引き払い、息子と共に行方をくらませたのだった。リンが学校にいた間に、二人はいなくなり、アパートに戻ってみれば大家が家財道具一式を処分していたということだった。
「それこそ、警察か児相か社保の領域でしょ?」
「ああ、まあ、そうなんだけどさ。聡がね」
蒼甫は苦笑交じりに面倒をみたいらしいと言った。
「おやまぁ……珍しい。もう、そういうお年頃だったかしら?」
「本人が自覚ないのが面白くてな」
(まあ、あの家族だからなぁ……ご愁傷様、聡君)
そんなあれこれで利代子は直井リンについて調査をしていた。まずは、リンの実家のあった周辺から聞きこみを開始した。本来なら、直接、リンの祖父母である直井勝彦と真沙子に話を聞きたかったのだが、すでに彼らは他界していた。伯母の亜沙子もである。リンが四歳の時、彼らは交通事故で死亡している。祖父母の勝彦・真沙子、当時二十二歳の伯母・亜沙子の三名は峠のカーブを曲がり切れず、ガードレールを突き破って十メートルのがけ下へ転落。リンはたまたま隣人にあずけられていたので、事なきを得た。そして幸いなことに亜沙子が大事に持っていた人形のポケットから麻衣子の携帯番号が記された紙が見つかり、緊急時連絡先と記されていたという。
利代子はこの情報を伏せて、聞き込みをした。そこで得られたのは、知的障碍をもつ姉とヤサグレた妹の話だった。言葉は悪いがごくありきたりなと言ってしまえば、言えないこともない。障碍を持つ子どもを育てるのはどんな家庭環境であれ、兄弟・姉妹間の不和や親の対応に大きな差ができる。家族は障碍児を中心に生活を余儀なくされること自体は珍しいことじゃない。バラバラになる家族もあれば、結束をかたくしていく家族もある。事情はそれぞれ異なる。直井家の場合、まわりからは仲の良い家族だったという。ただ、高校生になった麻衣子は、服装を乱し、恰好だけは不良だったという。隣に住む老女の話では、妹は普通に思春期を迎えて親に反発していただけだろうということだった。
『あの子は、悪い子じゃないよ。そりゃ、格好はね。不良みたいな感じだったし、夜うろついてたこともあったみたいだけどさ。挨拶はちゃんとするし、この辺の年寄とはよくしゃべってたよ。姉妹仲だってよかったよ。ただ、高校のときいつの間にか子ども生んでてね。その子残して家でちゃったのさ』
(直井リンはその妹が未婚で産んだ子ということか)
利代子は最初はそう思った。だが、調べているうちに姉の方に何か異変があったという話をいくつか拾う。妹の麻衣子が家を出る一年前から、姉の亜沙子はぱたりと外出しなくなったらしい。それまでは障碍者支援施設に通っていた。
亜沙子の知能は十歳程度で止まっていたが、いつもにこにこしていた印象しか残っていないという人もいた。見た目は普通の女の子だが、首をかしげて『どうして?』と率直に聞いてくる面はあったらしい。大人なら、『どうして?』と聞かない場面で、そう言われてまわりは彼女が知的障碍を持った人間だという認識を新たにするということが多かったようだ。
つまり、子供の前でしてはいけないどろどろした話をうっかり彼女にしてしまうと、追及がはじまってしまうのである。要するに、彼女の障碍とは子供の持つ好奇心が大人の論理では融通をつけて、適当に流す話を、流せず追及するということだった。そして、他にも誰にでも愛想がよいということだった。他人に対して警戒心を持つ年頃になっても、まったく警戒心がない状態。これは、ある面において実は非常に危険な状態なのである。普通の子供でも、知らない人にはついていかないことが鉄則になりつつある世の中で、亜沙子はちょっとついてきて欲しいと言われればついていくのである。
(他人を見たら泥棒と思えなんて、一昔前にはめったに言わなかったけど)
児童略取、青少年に対するわいせつ行為。ニュースをにぎわす子どもたちへの悪意。警戒するなと言う方が無理な話で、実際、亜沙子は近所で見慣れぬ男に声をかけられついていきかけたと言う。それが、十五歳のときで、偶然畑仕事をしようと家から出てきた近所の男性が、亜沙子にその人は知り合いかと尋ねると知らないと答えた。その瞬間、男は道を聞いただけだと咄嗟にさけんで逃げたそうだ。
『知らない人についてっちゃだめだよ。亜沙子ちゃん』
『でも、迷子になったって。困った人のお手伝いはちゃんとしないとダメって先生がいってたよ』
『そうかい。確かにそうだね。ただね。ついていくのは駄目だよ。お母さんたちが心配するからね。また、知らない人がついてきてって言ったら、おじちゃんとこでもどこでもいいから、一言、その人についていくって言ってからにしなね』
『わかった。ありがとう。おじちゃん』
そんなやりとりがあり、亜沙子の母親は以前にもまして彼女と行動を共にするようになったと言う。そのせいで、十八歳の亜沙子が家から出ないようになったのは、母親の心配が行き過ぎたせいだろうと近所では心配していたという。それが、ふたを開けてみれば、妹が出産して家出という結果になっていた。そして、利代子は調べていくうちに彼女が通っていた支援センターが、障碍児への虐待で糾弾され、つぶれたことを知った。虐待は暴力や暴言だった。その中には性的な行為も含まれていた可能性がある。そこからある結論を推測するのは、誰にとっても容易なことだろう。
(おそらく、亜沙子は性的虐待を受けた可能性が高いな)
それを確かめるには、やはり麻衣子を探しだし、話をきかなければならない。利代子は蒼甫に連絡をとり、直井リンの戸籍がどうなっているのか確認してほしいこと、すでに亡くなっている祖父母と伯母の亜沙子についての*除籍謄本も必要であることを伝えた。麻衣子と話をするには、リンの戸籍がどこに属しているのか、確認しておかなければならない。
(なんだか、複雑になってきたわね)
利代子は事務所に戻り、経過報告書をまとめながら、ため息をついた。まとめた経過報告書は翌日にメールで蒼甫と常葉に送信した。宛先が蒼甫だけでないのは依頼の際、そうしてほしいと頼まれたからである。理由はリンの側にいるのが常葉だからだろう。彼女なら、何を知ってもその心を悟られることはない。今でこそ品のいいのんびりとした雰囲気の女性だが、結婚前はほとんど笑うことのない人形めいた人だったらしい。
(親子ってそういうところも、似ちゃうのかしら?)
利代子は数えるほどしかあったことのない聡を思い出す。挨拶の時でさえ、微笑むことがない子供だったと記憶している。最初はネグレクトかと疑ったが、あの蒼甫が選んだ相手だと思うと、虐待とは結び付きにくかった。だから、率直に蒼甫に聞いたら、答えは簡単なものだった。聡は常葉に似て表情が硬いんだよとと言った。常葉のほうは、おっとりと微笑むやさしい母親にしか見えないのだが、結婚前はそうじゃなかったのだと一枚の写真を見た覚えがある。短い髪に黒いパンツスーツ姿の無表情な常葉。まさに人形のめいた中性的な冷たい雰囲気をまとった写真だった。
利代子は自分が送信した経過報告書をプリントアウトして、ファイルに閉じる前にもう一度報告内容を眺める。添付されている写真を眺めた。写真は家族写真で、当時の亜沙子は十七歳。あどけない顔で両親に挟まれている。そしてまるで形だけこそにいる硬い表情の少女が一つ違いの妹である麻衣子。何の説明もなくこの写真をみたら、妹ばかりをかわいがる両親に拗ねている姉というような印象を受けただろう。実際、この写真を手に入れたとき、実は麻衣子が本当は姉なのではないかと思ったくらいである。
(確かに表情の硬さは、似ているけれど。目鼻立ちはあきらかに亜沙子にそっくりだわ)
利代子は一つの仮説を立てる。先入観をもって麻衣子に会うのはよくないだろうが、これはある意味これからの直井リンにとって重要なことになってくる。場合によっては、彼女の人生を狂わせることにもなりかねないのだ。
(さて、ここからは交渉が重要ね)
利代子はファイルを閉じて、棚にしまった。