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大神蒼甫はただいまっとリビングの引き戸をあけたが、いつもいるはずの家族のすがたはなく、テーブルの上に書置きが一枚のっていた。
『おかえりなさい。みんな離れにいます。常葉』
蒼甫は額を掻いた。
(聡が何かしでかしたな……また、猫でもひろってきたか?)
蒼甫はそう思いながら、息子の部屋であり、聡が拾ってきた猫たちのいる離れに出向いた。離れの玄関を開けて、ただいまと大声を出すと颯希が飛んできて黙れくそ親父と言った。
「ひどいなぁ……なんだよ」
「寝てんだよ」
「猫か?」
「ちげぇよ。可愛い女の子」
「女の子?」
「ああ、アッキーが拉致ってきた。家出少女なのか、なんなのかわからんけど。かなり弱ってるんだ。それより、親父はめしくったのか?」
「いや、それはあとでいい。聡はなんて言ってるんだ」
「友達だっていってるけど。あれはどう見ても、友達ってほど親しくない」
蒼甫は颯希の言葉に首をかしげつつ、息子が女の子を拉致してくるような不埒なやつではないがと思いつつ
(思春期だからなぁ……)
理由を聞くまでは余計なことを考えない方がよさそうだなという結論に達した。颯希に伴われて、そっと襖をあけると、囁くように常葉がおかえりなさいと微笑む。蒼甫は微笑み返して、そっと様子をうかがう。聡にさえ、滅多に近寄らない【ナツ】が眠る少女の顔にびったりとひっついて寝そべっていた。他の猫たちは、そわそわしながら布団や家族のそばにいた。
蒼甫は、聡と常葉を手招きして隣の部屋に移った。そこは、離れの六畳の居間だった。ちゃぶ台を囲んで三人が座る。
「で?あの子は誰だ。聡」
「友達……」
聡は少し目をそらす。
「うーん、違うんだな。ちゃんと説明しなさい」
蒼甫にじっと睨まれて、聡は小さくため息をはいた。
「友達になりたいクラスメイト。名前は直井リンさん」
「ほう、お前が自分から友達になりたいとは、珍しいな。何か縁でもあったか?」
「うん。受験の時、消しゴム忘れてこまってたら、半分くれた」
常葉はまあ素敵とうれしそうな声をあげる。
「まあ、その恰好じゃあ、向こうは近づいたらびっくりしたろうに」
「いつもはびっくりしない。直井はいつも一人でいるし、声をかけてもあんまり反応ないから……さすがに今日はびっくりしたみたいだったのは確かだ」
「それで、あの荷物の様子だと家出か?」
「違う。帰る家がなくなったんだ」
「あら、まあ、それはどういうことなの?聡さん」
聡は常葉の言葉に、何から話すか順番を考えたがうまくまとまらないので、思い出すまま言葉にした。
「今日、俺と直井は担任に呼ばれて職員室に行った。先生は直井に友達をつくらないといじめられるぞっていったけど、それ違うと思って口をだしたら、解放された。直井はいつもみたいに、うつむいて帰っていったから、担任の言うことは気にしてないと思ったんだけど、気になったからアパートに様子みにいったんだ。そしたら、荷物抱えて飛び出していくのが見えてアパートの方じゃあ、荷物が運び出されてて……何がどうなってるのかわからなかったから、近くにいた男の人に聞いたら、直井を残してお母さんと弟さんがでて行ったから、大家さんが荷物を家賃代わりに売りとばしたんだって聞いた」
聡はそこまで一気に吐き出すように話すと、息を整えるように深いため息をついた。
「家出じゃなく、捨て子か……」
蒼甫は苦い顔をする。
「こういう場合は、社会福祉課に連絡いれなきゃならないんだが、お前はどうしたいんだ?」
「俺が面倒みる」
聡はまっすぐ蒼甫を見据えて言った。
(決意は固いようだが……)
「聡さん。それはかまわないことだけど。リンちゃんは、とても繊細な子よ。たぶん、うちにいてもらうならちゃんと理由をあげないとダメだと思うわ」
常葉がそういうと聡は少し沈んだ顔になる。
「確かにな。常葉さんの言うとおりだな。お前、ただここにいろっていうつもりだったんだろう」
聡はうなずく。
「それは、相手に負担をかけるぞ。まだ、友達にもなれてない相手だしな」
「それはこれからなる」
「まあ、それはそれでいいが……さぁってどうしたもんかなぁ。本人から事情を聞きたいところだが、それ以前に、健康状態が心配だな」
「それなら、明日、乃木先生に来て見ていただきましょう」
「そうだね。それから、ちゃんと話し合って決めよう。こちらで、勝手に決めてはいけないよ。聡」
「わかってる。それでも……」
「ほっとけないわよね。リンちゃんはとても可愛いし、消しゴムの恩返しもしたいのよね。聡さん」
常葉はうれしそうに笑った。
「わたしも、できればうちであずかりたいわ。蒼甫さん、なんとかならないかしら」
「うーん、そうだな」
蒼甫はいろいろと知恵を巡らせた。
「本人が、ここで暮らすことを承諾してくれるなら、なんとかできるだろう」
「本当か!」
聡は思わず、声を上げた。常葉と蒼甫は、その姿にくすくすと笑い続けた。笑われて少しむっとする聡だが、自分一人では彼女を助けられないこともわかっていた。
「ねぇ、さっちゃん。どう思う?」
「何が?」
「アッキーが猫拾ってくることはよくあることだし、最近じゃけが人つれてきたこともあったじゃない?」
柚季は小声で妹にそういう。
「まあ、そりゃあ、思春期だからなぁ」
「あは、やっぱり」
「自覚なしだろうけどな」
聡のいないところで、二人の姉はニヤニヤ笑っていた。
翌日、リンが目を覚ますと頬に柔らかな毛が当たっていて飛び起きた。気が付けば、着ていたコートは部屋の片隅の簡易洋服かけにつるされ、自身は浴衣を着ていた。寝乱れてだらしなくはだけた胸元から、昨日と同じ下着がのぞく。リンは少しだけほっとした。それから、部屋をゆっくりと見回した。さっきから、リンの体に触れているのは黒猫だった。まるでリンを労わるように体をよせてくる。他にも、ブチやトラ模様、白に茶色と部屋には全部で五匹の猫がいた。リンは、昨日、大神聡についてきて食事をさせてもらったあと、気を失ってしまったことを思い出す。
(迷惑かけちゃった……どうしよう)
そう思うものの、体は上半身を起こすことが精一杯でそれ以上は拒否していた。むしろ、もう一度暖かい布団にもぐりこみたい衝動に駆られていた。すると、猫たちが襖の向こうに顔を向ける。入っていいかという声がきこえて、リンはあわてて浴衣を整えるとどうぞと言った。
「起きて大丈夫か?」
聡にそういわれてうなずこうとしたら、あ、間違えたと言われた。
「寝てろ。まだ、顔色が悪い。大丈夫じゃないのは見てわかるから。それにナツも起こすなって顔してる」
「ナツ?」
「直井の側にいる黒猫。懐かないからナツ」
リンはそのネーミングに少し笑った。そして黒猫の方をみて、ナツって呼んでみると猫はゴロゴロとのどをならしながら、体をこすりつける。
「人懐っこいよ、この子」
「直井にだけだ。俺にも他の家族にもすり寄ったりしないんだ。丁度いい、とりあえず、横になれ」
そういわれて、リンは素直に布団にゆっくりと横になると、聡はそっと布団をかけてくれた。そして、猫たちが聡によってきた。
「ブチがチビ、今は一番でかくなったけど、でこっちのトラ柄がハナで唯一のメス、白はそのままシロ、茶色のこいつはロビン……」
聡はそれぞれの猫の頭をなでながら、紹介してくれた。
(あ、笑ってる)
リンは聡が少しだけ笑っていることに気がついた。みんなが噂していたほど、無表情なんじゃないことに気が付いてリンはなぜか少しほっとした。猫たちは聡にすり寄っている。ナツだけがリンの側からはなれなかった。
「あ、そうだ。朝飯。常葉さんがお粥つくってるから少しまて。それと今日は学校休め。連絡は常葉さんがしてくれるから。あと、知り合いの乃木先生が診察にくる。ちゃんと見てもらえよ」
聡は立て板に水のごとくそれだけいうと、猫たちにエサをやり始めた。リンはうんともすんとも答えられないまま、布団の暖かさとナツの暖かさにまたうつらうつらし始めた。
もう一度、目を覚ました時は聡の姿はなく、常葉さんがにこりと笑っておなかすいたでしょって言ってくれた。
「あの……すみません、ご迷惑かけてしまって……」
リンが弱々しくそういうと常葉はくすりと笑った。
「あのね。リンちゃん、今はそういうこと考えなくていいの。もう少し元気になってから、これからのこと一緒に考えましょう。聡さんは、できたらリンちゃんにうちにいてほしいって言ってるんだけど」
「どうして……ですか?……」
「どうしてかしらね。あの子、昔から弱ってる人をほっとけないようなところがあるの。だから、せめてリンちゃんが元気になるまででいいから、ここにいてくれないかしら。ダメ?」
常葉はかわいらしく微笑む。リンはそう言われて戸惑うが強く拒絶することはできなかった。
「さあ、お粥たべましょ。起きられる?」
リンは、はいといってゆっくり起き上がる。するとナツが背中を支えるように引っ付いてきた。
「まあ、ナツ、おりこうさんね」
常葉はうれしそうにそういった。彼女の作ってくれたお粥は刻んだネギと卵が入っていて、薄い中華スープの味がした。
リンがゆっくりとそれを食べ終わると、常葉はふっと離れの入り口のほうに顔を向けていらっしゃったみたいねとつぶやいた。
(お客さんかな?)
リンはお粥を食べ終えて、ごちそうさまでしたと小声で言った。普段、いいなれないからなんだかこそばゆい感じがした。一人きりの冷たい食事。食事というものは、一人でぼんやりとただ食べるだけの行為だと思っていたけれど。
(なんて暖かいんだろう)
体だけでなく、何かが満たされる様な不思議な感じがした。
「私、ちょっと出迎えにいってくるわね。リンちゃんは寝てるのよ。いいわね」
リンは小さくはいと頷いた。常葉はにこりと笑ってどんぶりを持つと、一旦部屋を出て行った。
リンは言いつけ通り、横になった。天井を見上げていると、ここがどこかわからなくなる。そして、自分が何をしているのかも……。
現実感があるのは、頬にふれるやわらかい猫の毛。ナツだ。人になつかないからナツだと聡はいっていたが、こんなにリンに寄り添ってくることが彼女にとっては不思議なほど安心できた。
「あたし……猫だったらよかったのにね」
そしたら、聡に拾われてナツや他の子たちと死ぬまでここにいられたのにと思った。思いながら、否定する自分になぜだか涙が落ちていく。リンは浴衣の袖でごしごしと目をこすって、涙をこらえようとしたけれど、それはどうしようもなくあふれる泉のように枯れない。このまま、自分の涙に沈んでしんでしまうかもしれないと不意にリンは思ったけれど。ナツが涙を舐めた。ざらりとした舌の感触にリンは驚いたけれど、何度も何度も涙を掬い取るようにナツはなめ続ける。
(くすぐったい。……けど、いやじゃないな。なんかうれしい……)
体ごとナツのほうに向いて、大丈夫だよと微笑んだが、ナツは水でも飲むかのようにひたすらなめるのである。さすがのリンもいつの間にか涙が止まっていることに気がついた。そして、襖を軽くたたいて常葉ですと声がした。
リンはあわてて涙を拭い、どうぞと言う。
「やぁ、こんにちは」
にこやかに声をかけて、常葉といっしょに入ってきたのは綺麗な白髪のおじいさんと若い女性だった。
「リンちゃん、こちら乃木先生。うちの家庭医さんよ。あちらは看護師の佐藤さん」
リンはあわてて起き上がろうとして、乃木先生に止められた。
「昨日、食後に倒れたそうだね。他にめまいや吐き気はないかい?」
先生はおっとりとした優しい声でリンの様子を尋ねる。
「ありません」
「そうかい。じゃあ、ちょっと診察するからね。浴衣はそのままで大丈夫だよ」
そういうと佐藤さんという看護師さんがそっと抱き起してくれた。
リンはされるがまま、診察を受けた。