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春、桜が舞い、世の中は浮かれていた。新学期を迎えた九重高校の生徒たちも、クラス替えで一喜一憂しながらどこか浮かれている。
だが、直井リンは二年になってもぶかぶかの制服にうつむいた顔で図書館で借りた本を読む。みんなが新しい友達やグループを作り始めても、ひっそりと息をひそめていた。そして、厄介なことに今年の担任は妙な熱血だった。新しいクラスになって数日で、職員室に呼び出しを食らう。
「直井……もうちょっと愛想よくしてさぁ。周りになじめよ。このままだといじめにあうかもしれないだろう?」
リンは、ため息のような返事をする。そして、リンの隣に背の高いがっしりした男子が並んでいた。
「大神もなぁ……その恰好どうにかならないか?うちは一応制服ならおしゃれについては大目にみてるけどなぁ。そんなにじゃらじゃらつけてると、ヤンキーみたいだぞ」
大神は問題ありませんとはっきりという。
「それに、周りになじむ必要はないと思います。いじめという問題が発生すれば、対処しなければならないのは先生です。起きてもいないことに対処を求めても、単なる責任回避の言い訳にしか聞こえません」
担任は図星を指されたのか、苦い顔をしてもう二人ともかえりなさいと話を放り投げた。リンは、小さくお辞儀してうつむいたまま、教室に戻った。図書館に寄って本を返却し、新しい本を借りると夕暮れの迫る道をゆっくり時間をかけて帰った。
リンは、バス通学ができないから歩いて一時間の九重高校を受験した。九重高校はこの学区で一番レベルがたかく、自由度の高い高校だった。高校無料化が実施されたおかげで、志望者もあがり倍率も高かったがリンには、他の高校を選ぶことができなかった。家庭の事情。その一言で片付くなら、楽でいい。リンはすべて都合が悪いことは、家庭の事情と一言で片づけた。
家に帰りつくと、アパートの部屋から荷物を運びだしている人の姿が見えた。
引っ越しかと思ってよく見れば、そこはリンの住処だった。あわてて階段を駆け上がり、荷物を運んでいる人に声をかける。
「あの……なんで……うちの荷物……」
「え?ここの人、引っ越したって大家さんが……ちょっと待ってね」
荷物の持ち出しを支持していたおじさんが部屋の中の大家さんに声をかけた。
「あれ?なんであんたいるんだ?」
なんでも、なにも、それを知りたいのはリンの方だ。
「何かしらんが、あんたの母親な家賃踏み倒して逃げちまったんだよ。申し訳ありません、家具を処分してくださいって手紙残してな」
リンはあわてて部屋に飛び込む。ほとんどの荷物が運び出されていた。自分の荷物が置いてあった部屋の一角の段ボールを、無理やり開く。その中をあさって、こっそりとためていたお金を探したがなかった。
「何、探してんだ。お前さんの荷物なら、まあ、それは勘弁してやるろう」
大家の冷やかな声が聞こえて、お金は母親が持ち出したのだと悟った。リンは、一瞬にして頭が冷えた。段ボールから古びた黒い大きなコートと必要最低限の衣類をたった一つの大きなナイロンバックにつめこんだ。教科書の類は、学校のバッグに無理やり詰め込む。そして、その二つを持つと大家にお世話になりましたと言って部屋をでた。
「ちょっと、大家さん。あの子、どうするんですか」
「俺が知るかよ。ほら、さっさと荷物運び出してくれや」
リンは近くの公園のトイレで私服に着替える。制服を汚すわけにはいかない。私服といっても、色あせたジーンズとフードのついた黒いトレーナーだ。それからくるぶしまで隠れてしまうほど大きな黒いコートを羽織る。制服は赤ん坊用に設置されている簡易ベッドの上で丁寧に畳んで、できるかぎり小さく丸めてナイロンバッグに詰め込む。そして、リンは財布の中身を確認した。4千円と小銭が少し。
(ああ、宿無しになったな……バイト料は月末か……通帳くらい作っておくべきだったなぁ……)
それもまた後の祭りかとリンは、ため息をついた。それと同時に腹の虫がないた。トイレからでた彼女は自販機で『いまなら100円』と書かれた暖かいカフェオレを買い近くのベンチに腰かけた。
いつの間にかあたりは暗くなり、公園の街灯がぼんやりとした光を放っている。リンは、いつのころからか早く母から離れなければと思っていた。どうしてそう思ったのか、リンにもわからなかったけど、高校を出て就職さえすれば母も自分も幸せになれると思っていた。時に、その思いは『母親を捨ててしまえ』という声として心に響きわたることさえあった。どんな形にせよ、今、それは叶ったのだ。母と離れる。それがリンの望み……。リンはカフェオレを一気に飲み干した。
(……なんだ、叶ったじゃん。これでいいんだよ)
そう思いながら笑おうとしたとき、なぜか涙があふれて止まらなくなった。
(違う……違う!違う!)
涙はぬぐっても、ぬぐってもとめどなくあふれる。心の中にあふれる言葉。
『あんたなんかいらないのよ!』
泣きながらリンをひっぱたく母……。どんなに否定しても否定しきれない現実。弟が生まれるまで、母の【恋人】という男とあのアパートで暮らしたことがる。【恋人】は何度か変わった。そして機嫌のいい母にほっとする日々は、あまり長く続かなかった。最後の【恋人】には一度もあったことがないけれど、母が弟を生んだとき弟のためのベビーベッドや玩具が届いた。その届け物は、毎月何かしら送られてきた。そのたびに、母はうれしそうに電話で話をしていた。
あれから三年が経ち、気が付けばここ三か月、母と弟の姿を見なかった。弟が生まれてから、二人が家をあけることはしばしばあった。リンは【恋人】のところにいるのだとずっと思っていたし、長くても数日のことで二人がいないことに、彼女は違和感を感じないほどその状況に慣れていた。
リンは涙をぬぐうのをやめた。
(なんだ……捨てられたんじゃん……それだけじゃない……それだけなのに……)
うつむいたまま、泣いていたリンにおいと声がかかる。補導員かと思って顔をあげたら、どこからどうみても不良少年が一人立っていた。
「具合が悪いのか?」
リンはまたうつむいて別にと答えた。
「別にってことはないだろう。こんな時間にこんなところで泣いてたら、変奴にひっかかるぞ」
不良の癖に、妙に普通のことをいうとリンは思った。
「とにかく、家まで送る。ほら立てよ」
不意に腕をつかまれて、リンは反射的に振り払った。相手は驚いたような顔をしたが、罵倒は飛んでこない。どころか悪かったと謝った。
「触らないから、とりあえず、立てよ」
「……帰るって……そんな場所もうない……」
リンは不思議なほど、落ち着いた口調で淡々とそういう自分に少し驚いた。涙もいつのまにか止まっていた。不良少年は、少し考えて言う。
「なら、ついて来いよ」
そういってリンの荷物を勝手に手にして歩き始めた。リンは荷物を持っていかれたことに気が付かず、不良少年が振り返って顎をしゃくったときようやく、それがないと困るのだと思い至った。仕方なく、彼についていく。
公園の側に止めてあったバイクに手際よくリンの荷物を括り付け、彼は彼女にヘルメットを放りなげた。リンはとりあえず、メットをかぶると促されるままにバイクの後ろにまたがった。
「触るの嫌かもしれないけど、落ちると困るから服つかんどいて」
そういわれて、彼の派手な刺繍のされたジャンパーの両脇を握った。どこへいくのか、どうなのるのか、リンにはどうでもよかった。公園にいても行く当てなんてない。彼が悪い奴でも、そうじゃなくてもどうでもいい気がした。リンは考えるのがひどく億劫になってた。
バイクに乗ってたどり着いた場所は、『お屋敷』という言葉がぴったりな大きな日本家屋だった。リンは玄関先で下され、不良少年はバイクをどこかに納めに行った。
(ヤクザ……ではなさそうだな)
確かヤクザの家の門の前には<立ち番>というチンピラがいるというのを、本で読んだことがある。門は開きっぱなしだし、人もいなかった。リンがそんなことを考えていると、不良少年はリンの荷物をもって玄関の引き戸を開けた。
「ただいま!」
結構な大声で不良少年が言う。まあ、これだけでかい家なら大きな声でただいまくらい言うだろうが、外見にそぐわないのは気のせいかとリンはその背中を見ていた。
「あがれよ」
そういわれて、リンは躊躇しつつも「お邪魔します」と小声でつぶやき、靴を脱いだ。広い玄関から少し進むと不良少年はスリガラスの引き戸を開けた。
「おかえり~」
優しい穏やかな声が三人分響いた。
「友達連れてきた」
不良少年がそう言ったので、リンはぎょっとした。
「あら、かわいらしいお嬢さんね」
中年の可愛らしくて品のいい和服の女性が言うとオープンキッチンの向こうから、ボーイッシュな大人の女性が「うわぁ、ちょっとどこで拾ったのよ。友達とか嘘でしょ」といい、ソファーでお茶を飲みながら、お人形のようなロリータ服をきた少女が「……拾ったんじゃないな。拉致ったんだろ?」と言った。
(な、なに?この……キラキラな人たち……)
リンは挨拶もできず、うつむく。ここにいることが、ひどく場違いで今すぐ逃げ出したかった。不良少年は、さらりと説明する。
「和服の人が俺の母で常葉さん、キッチンにいるのが社会人で姉の柚季、ソファーにいるのが大学生でこれも姉。名前は颯希だ。彼女は直井リンさんだよ」
リンはフルネームを呼ばれて、思わず不良少年を見上げた。
「俺は大神聡。今日、一緒に職員室に呼び出されただろ」
リンは、あっと小さな声を上げた。確かに自分の隣にいた。俯いたままだったから、声しか聞いてなかった。
「アッキー、女の子いつまでたたせてんだ?」
颯希が可愛らしい姿とは真逆の乱暴な口調でそういうと、聡はごめんといってダイニングテーブルの椅子をひいてリンに座るように促した。
「あらあら、そんなに遠慮しないで、さ、座って座って」
にこやかに近づいてきた常葉を聡が静止する。
「触られるの嫌なんだって」
「あら、そうなの。ごめんなさいね」
リンは小さくすみませんとつぶやく。いたたまれない。どうしようもなく落ち着かなくて、けれど、今は行くところがなくてとリンの頭の中は混乱状態だった。そのタイミングで、リンのお腹の虫が鳴く。リンはいっきに顔が熱くなった。
「待ってて、すぐご飯持ってくからね~」
キッチンの方から柚季がばたばたと何かを準備しはじめる。
聡は黙って隣に座った。
「ねぇ、リンちゃんは、食べられないものある?嫌いな食べ物とかあったら言ってね~」
リンがどうこたえていいか迷っていると、聡がアレルギーとかあるかと聞いてきた。リンは首を横に振る。
「大丈夫らしい」
「了解」
柚季は鼻歌まじりにてきぱきと料理をよそって、お盆にのせると嬉しそうに言った。
「本日はスペシャルハンバーグです。あと、こっちは温野菜サラダね。それからオニオンスープ。あ、ドレッシングは何がいい?ゴマとシソとマヨネーズがあるよ」
リンは並べられた食事の多さにびっくりして、声がでない。
「とりあえず、全部」
「アッキーにきいてないのにぃ……まあ、そうね。持ってくるね」
(ごはんから湯気がでてる……ハンバーグってこんなに大きいの?サラダもなんか緑ばっかりじゃないし……オニオンスープって何?)
リンはごくりと生唾をのんでしまって、また、真っ赤になる。
「お箸でいいか?ナイフとフォークいるか?」
「え?ナイフ?フォーク……そういうの使ったことない……」
リンは思わずそう言って、さらにいたたまれなくなった。
「ほらほら、食べて食べて。冷めちゃうよ~」
リンは柚季の言葉に背中を押されるように、恐る恐るいただきますとつぶやいて料理に手をつけた。そして、気づけば夢中になって食べていた。美味しくて温かい料理。
リンは、はじめて食べる他人の手料理なのに、どこか懐かしいような気がした。料理はあっとゆうまに、彼女の胃におさまった。いつも食べる量の三倍ぐらいあるはずの料理に胃が驚いているように重くなった。
「直井……」
不意に隣から声がかかって、リンは反射的に顔をむけると口の周りをティッシュでやさしく拭われた。
リンは一瞬、何が起きたのかわからなかったけれど、いつの間にか向かいに座っていた柚季が
「アッキーずるい。それあたしがしてあげたかったのにぃ」
と言われて、リンはまた真っ赤になった。
ありがとうというべきなのか、ごめんなさいというべきなのか、彼女にはわからなくて言葉が出ない。
(子供みたいで恥ずかしい!)
「ご、ごちそうさまでした」
必死でしぼりだした言葉に、柚季はにっこりと笑う。
「デザートもあるからね。リンちゃんは紅茶とコーヒーどっちが好き?」
「あ、いえ……もう、おなかいっぱいだから……」
「うん、わかった。おなかすいたらいってね」
リンはこくこくと頷いて、ダメだと思った。ここにいたらダメだと。なんとか言い訳を考えて、どこかへいかなければ迷惑をかける。そう思うのに、体が動かなかった。それどころか、まぶたが重い。リンはどうにか立ちあがってお礼を言おうとしたら、めまいを感じて、もうその瞬間に意識が飛んでいた。