咲いたのは
この想いに蓋をしましょう。
彼の気持ちを知りながら、彼への想いを隠す私はどんな風に見えるでしょう?
酷い女?
悪女?
自己中?
ただのバカ?
…なんと言われても構いません。
私はこの想いの蓋を開けてはいけないのです。
今は、まだ。
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彼と出会ったのは一歳の頃だそうです。
小さすぎてその頃の記憶はありませんが、昔から一緒に居たという記憶は残っています。
私は女で、彼は男。
小さな時は気にすることもありませんでしたが、大きくなるにつれ周りが反応し始めます。
私は彼を護るために昔から鍛えられてきました。
柔道。剣道。合気道。テコンドー。空手に居合い。
物心ついたときからの習慣は未だに抜けておらず、彼の側を離れた今でさえ身体は覚えているようです。
その証拠に、先程ひったくり犯を背負い投げで撃退しました。
…と、まぁ。その話は置いておいて。
物心ついたときから彼を護るために続けてきたことは、小さな悪気の無い悪意によってズタズタに壊されてしまうのです。
今思えば、それは彼を独り占めされたくないという想いが小さな彼女にはあったのかもしれません。
彼を独り占めしているつもりは微塵もなかった私にとっては、その言葉は重く、苦しいモノでした。
『そんなにベタベタして!気持ち悪い!!』
…この一言。
この言葉は私の心に穴を開けたような気がします。
彼の側にはいてはいけないという、絶望という言葉で表すには大きく、苦しみという言葉で表すには小さな穴を。
この言葉を切っ掛けとして、私は彼を影ながら護ることに決めたのです。
表には立たず。影に潜み。
暗闇の中を彼のために走ると、決めたのです。
彼の前に立つことは出来なくとも。
彼の後ろになら立てるだろうか?
バカな私が一生懸命考え出した結論でした。
彼はそんなこと望んでいなかったというのに。
私はバカですから、彼の気持ちを勘違いしていたのです。
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私が表に立たなくなり、彼はひどく弱ることが多くなりました。
熱をだし、風邪を引き、腹を壊し、時には倒れる。
私は医学というものをこの頃学んでいなかったので、彼にしてあげれることが何もありませんでした。
しかし彼はこんな役立たずの私に向かって言ったのです。
『ここにいてくれ。』
と、倒れ、布団のなかで青白くなった腕を伸ばしながら、私の瞳の奥底を見透かすようなそんな笑みを浮かべて。
彼のこんな笑みを見たのは初めてでした。
16年間同じ屋敷で育って来たはずなのに。
私は彼から瞳を動かすことが出来ませんでした。
疲れが溜まっていたのか、彼はすぐに眠りにつきました。
その時から、私の彼に対する想いが変わりました。
いえ、もしかしたら、出会った頃から特別な想いを感じていたのかもしれません。
この想いを知られてはいけない。
何故かそんな風に思ってしまいました。
この想いを隠さなければ、彼の側に居ることは出来ないと。
彼はすぐに良くなりました。
私は安心と共に恐怖を知りました。
今まで気付かなかった、彼への想いを学校中から感じたからです。
彼が歩けば二人振り向き。
彼が喋れば五人が笑顔に。
彼が笑えば十人が愛しく目を細める。
あぁ。なんで今まで気が付かなかったのだろうか。
私は後悔しました。
この感情を私が知らなければ、この苦しみを味わうことはなかったのだろうか?
私の想いは彼女らに、敵うのだろうか?
彼は、こんな私を受け入れるだろうか?
苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて。
それでも、彼の側を離れることが出来なかったのはまだ、私が若かったからだと思います。
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18の歳になり、もうすぐ学校ともお別れの時期になりました。
そんなとき、私は彼に呼び出されたのです。
学校のシンボルでもある桜の木の下でした。
彼と会話を交わすのは本当に久し振りでした。
彼への想いを自覚したときから、学校でも、屋敷でも、私は彼を避けていたのです。
『お前は、……。俺の事が…嫌いか?』
遠慮がちに開かれた口から出てきた言葉は、私にとっては有り得ない言葉でした。
私が彼の事を嫌うなど、天地がひっくり返っても有り得ない事です。
…そう、言いたかったのですが、私は言葉を詰まらせました。
私がそう言えば、心優しき彼は頷いてくれるだろうとなんとも言えない確信じみたモノが心のなかにあったからです。
実際に私がそう言えば、彼は頷いたでしょう。
今なら、ハッキリと断言できます。
彼は、私を受け入れてくれたと。
何故、そんなことが解るのかと問われても言えることはただ一つ。
彼が言ったのです。
『好きだ…。』
一言だけ。
私だけに向けられた、愛の言葉を。
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あれから、数十年と時が流れました。
私は今、世間から見れば背筋が伸びているお婆さん…という具合でしょうか?
あ、そうですね、先程ひったくり犯を撃退した所を目撃した若者は尊敬の念を込めた目で見ているかも知れませんが。
まぁ、ようするに私は年老いたのです。
彼への返事はしませんでした。
例え彼を傷つけてしまったとしても、私はあの時の選択が間違いだとは思いません。
彼は私が何も言わないと分かったのか、何かを呟きました。
『………て…れ。……に………ら。』
とても小さな声でした。
普通ならば聞き取れないような声が聴こえたのは何故かは分かりません。
私は元々耳が悪かったので聞き間違いかと思いましたが、あの声は、あの声だけは聞き間違いではないと思いました。
何故なら、私の愛した人の声でしたから。
あの時から今日まで、いったいどれ程彼の事を考えたでしょうか?
こんな姿になった今でも彼への想いを思いへと変えることの出来ない私は子供のようです。
今、目の前を歩く若者よりも確実に数倍の年月を生きているというのに。
たった一人にこの想いを告げることもできず、何年も何年も。
逃げていました。
隠れていました。
怯えていました。
彼から。
私は怖かっただけなのです。
今になってようやく気づくなんて。
彼に笑われてしまいます。
いえ、これから笑われに行くのです。
彼の元へ足を運びに行くのです。
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おはようございます。
今日は、絶好の花見日和ですね。
ここは桜が綺麗に咲きますから、いいでしょうね。
…どうして来たのか知りたいですか?
そうですね。
…分かりました。お教えします。
今日は貴方に笑ってもらいに来たのです。
お前はバカな女だと罵って貰いにきたのです。
今さらなにをと、思うかも知れませんが。
私は貴方を愛しています。
私は貴方に恋をしています。
…現在進行形ですよ?
今も、これからも。
愛しています。
恋しています。
この気持ちには蓋をしなければと幾度となく思いました。
けれど、私の未熟な心では不可能でした。
貴方への想いを内側へとし舞い込んでおくには、あまりにも。
あまりにも重く、苦しく、むなしかったのです。
貴方への想いに蓋をしなければいけないあの時はとても辛かった。
今はもう、あの時の蓋を緩めて、開けることができる。
…あの時、私が貴方の想いを受け止めていたらどうなっていたと思いますか?
…分かりませんよね。
私もです。
分かりませんが…一つだけ。
一つだけ確信していることがあります。
あの時、貴方の想いを受け止めていたらならば、私は今、ここには居なかったでしょう。
貴方と共に進む道を選んだならば、私がここに立っているのは不自然でしょう?
貴方と共にいると決めたのに。
貴方と共に居ないのは可笑しいでしょう?
ですから、貴方の想いを受け止めていなかったからこそここに立つことが出来たのだと。
そう…思ってください。
そう思って、これから、私が貴方への想いを忘れないよう見ていてください。
まぁ、私が忘れるなんて、あり得ませんけど。
…それでは、そろそろ時間です。
…あ、言い忘れていました。
ほんとなら、始めに言わなければいけなかったのですが。
『お久し振りです。』
…さようなら。
また、時間と都合があえば来たいと思います。
それよりも、貴方が迎えに来てくれた方が早いかもしれませんね?
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カツカツカツカツカツカツ…。
今日は祖父の命日。
祖父には小さな頃から大切にしてもらっていたという自覚がある。
祖母は私が生まれる前にはもう亡くなっており、祖父は私を祖母の生き写しだと喜んでくれた。
私が欲しいものはなんでも買ってもらった。
祖父は結構な資産家でお金持ちだったようだ。
その資産を受け継いだ私の父はそのお金を使い、今や日本きっての資産家とまで自負している。
そんな父は母と共に新商品開発のため海外へと渡っている。
祖父の命日なのだから、今日くらい仕事を休み親孝行すればいいのにと私は一人溜め息をついた。
『若い人がそんな大きな溜め息をついて。いけませんよ。幸せが逃げてしまいます。』
「え?」
ふと、前から聴こえたのは柔らかな声。
なんだか、聞いたことのあるような声のような気がしたんだけど…。
目の前に立っている女性は、8、90歳くらいだろうか、いや、しかし、それにしては背筋が伸びている。
けれど、顔の皺や、服から覗く手の皺は深く、年老いている事を簡単に想像させる。
女性の優しい声が響く。
『あぁ。すみません。いきなり。若い人から溜め息が聴こえたものですから。そんな溜め息はもう少し歳をとってからするものですよ。例えば、こんなババァになってからとかね?』
女性はニコリと微笑むとスタスタスタと足取り軽く去っていった。
女性が去っていった後、少しだけ祖父との思い出が頭をよぎった。
昔、祖父が本気で愛した女性の話。
近すぎて、遠くて。
手を伸ばしてもスルリとかわされるのだと言っていた。
いつも、彼女からは桜の匂いがすると目を細目ながら微笑む祖父はとてもかっこ良かった。
仄かに、桜の匂いがした気がした。
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「お祖父ちゃん。来たよ。」
墓の前で手を合わせようとしゃがんだとき、桜の匂いがした。
ふと、下を見てみると。
そこには。
小さな枝が桜の花を咲かせ、私はここにいるとでも言いたげに誇らしく風に揺れていた。
「綺麗。」
そう、呟くしかなかった。
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『待っててくれ。…迎えに行くから。』
不可思議な点や矛盾点があればご指摘下さい。