お爺さんのうどん
その仔が目を覚ましたのは、箱をがさごそと開ける音のせいでした。
暗い箱の中から一転して明るいお外に、ひょいっとつまみ上げられてパチリと開いた目に、皺深く浅黒い老人の顔が映ります。
「ここはどこだい?」
「おう、生きちょるのか」
きょとりと周囲を見回す仔を、お爺さんはびっくりしながら床に下ろしてやると、仔の白いお腹が『ぐぅ』と鳴りました。
「腹が減っておるんか。ちぃと待っちょれ」
お爺さんは呆れた顔で台所にむかうと、大きな木の板に白いかたまりをポンと乗せて捏ね始めました。
「何だい、それは?」
「うざんさぁ」
捏ねて、伸ばして、細く切ったらぐつぐつ煮たったお湯で茹でられ、熱々のおつゆをかけられて、とってもいい匂い。
その上にぱらぱらと刻んだお葱を散らして、白とピンクの可愛いカマボコを二枚。
「熱いきぃ、気をつけて食えよ」
熱、ふぅふぅ、仔は丼に顔を突っ込むようにしてちゅるちゅると緬をすすりはじめました。
熱、ふぅふぅ、美味しい、ふんわり、いい匂い。
そこにお客さんがやってきました。
「爺さん、手紙だよ」
郵便屋さんは手紙を渡しながらテーブルを見て『ぎゃ』と驚きました。
「何だい、こりゃぁ?」
「さぁなぁ。さっき届いた荷物に入っておったんじゃが、何じゃろうなぁ」
ちゅるりとうどんを飲みこみながら、仔が顔を上げました。
「あたしはペンギンの仔だよ」
お爺さんと郵便屋さんは顔を見合わせて首をかしげます。
「そりゃぁ、珍しい仔ぉが届いたもんじゃ」
お爺さんが笑います。
「ペンギンっちゅうたらうどんを食うもんなんか」
郵便屋さんも笑いました。
そして郵便屋さんはペンギンの仔の隣で同じうどんを注文しました。
帰りにお金を払う姿を見て、ペンギンの仔が「あ」と小さく声を上げます。
「どうした?」
「お爺さん、あたしお金を持っていないよ」と、しょんぼりしました。
あんまりにもがっくりと肩を落として、ぷるぷると震え始める仔の姿を見て、お爺さんは何だか胸の中がほんわかぽわーんとしてきて、嬉しくなってしまいました。
「かまわんよ、子供が金の心配なんぞせんでえぃ」
その日から、ペンギンの仔はお山のてっぺんのうどん屋さんの仔になったのです。
近くの村では、郵便屋さんから話を聞いて、皆がペンギンの仔に会いにやってきました。
ご隠居お婆さんはお菓子を持って、畑のおじさんはトマトを持って。
ちゅるりとうどんを食べる仔を『可愛いねぇ』と撫でてゆきます。
お爺さんのお店に来る人は村人だけではありません。通りすがりの人もやってくるのです。
皆、長い山道を車はバイクに乗ってやってきて、疲れた体に温かいうどんを流し込みほっと一息つけてまた長い山道を走ってゆくのです。
「ここは県境の峠のてっぺんやき、あっちからこっちへ、こっちからあっちへ行く人らぁがようけ通らい」
お爺さんはお店の窓から見える遠くの山々の緑に目をやって、にっこりと笑いました。
広い空の下に、薄い緑、濃い緑、枯れた緑、それらの合間を縫って散らばる季節の花の色。
ペンギンの仔も釣られて外を眺めたら、見ているだけで何だかお腹がいっぱいになるようなしあわせな気持ちです。
「お前にも分るか?
えぃ景色とえぃ空気。これが最高のご馳走じゃ。
わしのうどんは普通のうどんじゃが、この景色の中じゃけん、美味しくなるんじゃ」
特別高価な具も無い、質素なうどん。けれどお外を見つめながらちゅるりと食べると、広い空と山も一緒に食べている気分です。
「わしゃぁな、この景色を孫やひ孫や、わしが死んだ後にも残してやりとうてな」
「お爺さんには孫やひ孫が居るのかい?」
「おう。息子が都会で嫁を貰うてな。ふたりの孫がおる。
「ここで一緒に住まないのかい?」
「さぁな、いつかは会いにやって来るやろうがなぁ」
そう言ったきりお爺さんが黙ってしまったので、ペンギンの仔は困ってしまいました。
お爺さん、もっと何かを話しておくれよ。
そんな顔で黙ってしまわないでおくれよ。
「そうだ、あたしにうどんを教えておくれよ」
ペンギンの仔がたくさんたくさん、頭の中をぐるぐるさせて、はっと思いついた事を口にすると、お爺さんは急にぷっと笑いを吹きだして
「よしよし」
と、粉を混ぜる事から教えてくれ始めました。
ぺちぺちと粉を叩く小さな手は頼りないけれど一生懸命です。
「お前はうどんの才能があるやらしれん。
大事なのは一生懸命になる事じゃけんな」
ペンギンの仔がうどんをぺちぺち叩くとお爺さんが笑います。
その笑顔を見て、ペンギンの仔もはにかんだように笑います。
二人の笑い声に釣られて、お客さんも笑いました。
けれど、そんな笑い声を消してしまう手紙が届いたのは、翌日の事でした。
一枚の便箋を読みながら、お爺さんが言いました。
「ちょいと留守を頼まれてくれんか。食いもんはここにあるんを何食うてもえぃ」
「どこに行くんだい?」
「都会の息子が用事があるやらでなぁ、切符まで寄こしてきちょる。
なぁに、すぐ戻るき、うどんの練習をしっかりして待っちょれよ」
その夜からペンギンの仔はひとりになってしまいました。
お爺さんの言ったとおりに、毎日うどんをたたいて練習して、それを食べました。
心配した村の人が、入れ替わり立ち代わり様子を見に来ます。
けれどお爺さんは帰ってきません。
「しまったよ、こんな事ならお店の開け方も教えてもらっておけば良かったよ」
峠には、通りすがりの人が訪れては去ってゆきます。
お店が閉まっているのを見て、残念そうな顔で通り過ぎてゆきます。
それを眺めながら、「ごめんなさい、ごめんなさい」と、しくしくと泣いてしまいました。
皆ここまでお腹を空かせてやってくるのに。
楽しみにしていたうどんを食べさせてあげられなくて、ごめんなさい。
そしてひと月が過ぎた頃です。
お店の扉の鍵ががちゃりと外から開けられ、ガラガラと開きました。
「お爺さんかい!?」
ペンギンの仔が奥の部屋から飛び出そうとして、足を止めてしまったのは、鍵を開けた人が見知らぬ人だったからでした。
仔は、突然の見知らぬお客さんに戸惑って、思わず台所の隅っこに隠れてしまいました。
『お義父さんたら、独りぼっちでいつまでこんな山奥に住んでいるつもりだったのかしら』
『うちに来て転んで怪我をさせてしまったのは可哀そうだったけど、怪我の功名というやつだね。
もうあの足じゃ店は出来ないだろうし、これで一緒に住んでもらうきっかけになったよ』
『お義母さんが亡くなってずっと独りぼっちにさせてしまった分、これからは親孝行させてもらいましょうね』
どうやら都会に住んでいるお爺さんの息子夫婦のようでした。
二人はこのお店を、明日には片付けてしまう話しをしています。
ペンギンの仔は、頭の中でぐるぐるの渦が巻いているようで、膝を抱えて床に丸まってしまいました。
お爺さんは独りぼっちだったのかい?
村からは毎日誰かが来ていたし、郵便屋さんも村の皆も、お爺さんが大好きなのに?
独りぼっちはいけない事なのかい?
山のてっぺんで独りで住んでいるのは、いけない事なのかい?
お店を離れたくないのはいけない気持ちだったのかい?
それはみんな、大好きなお山を遠く離れてしまわなければいけないような、悪い事だったのかい?
もう、自分が何を考えているのかも、分らなくなってしまいました。
けれど、ひとつだけ分った事があります。
お爺さんはもうここへは帰ってきません。
明日になればお爺さんの思い出の詰まった何もかもが、片付けられてしまうのです。
空っぽになってしまうお店を想像して、急にお腹が『きゅう』と鳴きました。お腹が減って動けなくなってしまう直前の音と同じでしたが、まだお腹の減る時間じゃありません。
お腹は減っていないのに、何でこんな音がお腹の底から出るんだろう……
夕暮れになって息子夫婦が麓の村の宿屋に帰るのを見届けて、ペンギンの仔はやっとで立ち上がりました。
お爺さんが買い物に行く時に使っていたリュックを引っ張り出して、台所に戻ります。
ちょっぴりの小麦粉、ちょっぴりのお塩。お爺さん特製のおつゆの瓶。お店の前に引いている山水をペットボトルに汲んで、リュックにみんなちょっぴりずつ詰めて。
今ならまだ、お爺さんの思い出はこのお店のあちこちに残っているままです。
だけど明日になって思い出が無くなってしまってからでは、遅いような気がしたのです。
きっと、『きゅう』と鳴くお腹はもっともっと大きな声で泣き出して、本当に動けなくなってしまうでしょう。
今ならまだ、たくさんの思い出をリュックに詰めて、お爺さんの教えてくれたうどんを背負って……
「元気に歩いて行ける気がするよ。
お爺さん、うどんを教えてくれてありがとう。
ちょっぴりずつ材料を貰ってゆくけれど、許しておくれ」
ペンギンの仔はヨチヨチと小さな足で、県境を越えて、暗くなり始めた山道を独り歩き出しました。
◇◆◇ 続く……? ◇◆◇