冬華清流
よくある話で御座います。
華月はいつも四つ年嵩の兄、光輝の姿ばかりを目で逐いつつ育って参りました。「眉目秀麗」とは兄の為にある言葉。そうと信じる程に美しく聡明な兄に華月は畏敬の念を、そして淡い恋心を抱いて居りました。
其れ程秀麗な男子なら周囲の娘が放っておく筈も御座いません。けれど幾度となく付文恋文を其の手にしながらも、浮いた噂等一切なく。逆に其の様な付文をする娘を眼鏡の奥から蔑みの眼で一瞥する様な厳しい一面もあったので御座います。
「華月、僕は家柄や容姿だけで人を推し量る事を良とは思わない。其れ程人を愚弄していると思う事は無い」
そう云いつつ、この美しく聡明な兄は悲愴な表情を其の顔ばせに浮かべるのだけれど、其れが尚更に秀麗さに磨きをかけている事に気付いてはいないのだろう……華月は其の美しい表情を見る事を許されている者のひとりとして、悦びを感じずにはいられないので御座います。
「……相変わらず君は潔癖な男だなぁ、中務」
華月の煎れた茶を口に含みながら、光輝の無二の親友だと云う東城優一郎は苦笑を洩らすので御座いました。
「僕は潔癖だ等とは思わないが?もしそうだとしても僕は自分を曲げるつもりは毛頭無い」
「そういう処が潔癖なのだろう?いや、頑固なのかな……まぁいい、どんな奴でも君は君だ。出来ればずっとそのままでいてくれよ」
「……どうかしたのか」
苦笑しつつそう云う優一郎の様子にいつもの其れとは違うものを感じ取った光輝は、その柳眉をついと寄せたので御座います。華月には兄が感じた其れが何なのか、さっぱり解らず仕舞い。何とは無しに疎外された感じに口を噤んでしまいます。
兄と、この兄の友人は時折この様な雰囲気を醸し出す事があるので御座います。そんな時、いつも華月はその場を離れるのではなく、口を噤んでただ静かに二人の話に耳を傾けるのみ。
……だって、疎外感に其の場を離れるなんて悔しいではありませんか。
「どうかって何だ?」
「馬鹿にするなよ。君の様子がいつもと違う事位、解らない様な付き合いではない筈だ。何かあったのだろう?」
光輝の其の真摯な目に、優一郎もふっと表情を改めたので御座います。そして軽く息をつくと、優一郎は静かな声でこう告げたので御座いました。
「……戦地へ赴く事になったよ」
其の言葉に光輝は目を見開き、さぁっと顔色を変えたので御座いますが、ゆっくりと目を伏せ「そうか……」と呟き右手を差し出したので御座います。
「武運を祈っている。必ず、無事に帰ってこい。君には目に入れても痛くない程可愛がっている妹御もいるのだしな」
其の言葉に優一郎は「勿論だ」と破顔致し、差し出された手を堅く握り締めたので御座いました。
「――お兄様は、本当に東城様とお仲がよろしいのね。あの様なお顔をなさるお兄様を、華月は見た事もありませんでしたわ」
「東城は僕にとって好敵手、ずっと競いあって来た好敵手であり、親友だからな……奴にだけは負けたくはない。けれど奴が堕ちるのは尚更に見たくはない。歩むべき途は分かつとも、其れは変わる事は無いだろう」
涼し気に目を細める兄に見取れつつも、兄にそこまで言わせる事の出来る優一郎に淡い嫉妬を感じている華月に光輝は微笑みかけるので御座います。
「お前にだって、そういう友がいるだろう?」
「え?」
「大ノ宮家の……名は蝶子嬢と云ったかな」
「……あの方とは、そんなに仲が良い訳ではありませんわ」
そうか?と一層笑みを深くする兄から目を逸らす華月の脳裏には艶やかな蝶子の、その気高い立ち姿が浮かんでいたので居りましたが。それはまた、別のお話。
其の日から二年も経った或る日。華月は女学校からの途すがら兄が親友と呼ぶ男と擦れ違った気がして立ち止まり、後ろを振り返ってみたので御座います。けれど其の姿は雑踏に塗れてしまったのか、華月には見つける事が出来ず。そこで首を傾げ、気の所為だったのだろうと再び帰路についたので御座いますが……それはある意味気の所為ではなかったのではないかと、その後思い返したので御座います。
帰宅した華月は部屋へ向かう途中の応接間から聞きなれない声と兄の声を聞き、扉の前で足を止めたので御座います。そして華月は聞こえてきた話に先程の途すがらでの出来事を思いつつ、呟いたので御座いました。
「……東城様が亡くなられた?」
声の主は東城家からの使いの者。遺品の中に光輝への文があり、其れを届に馳せ参じたので御座います。
用を終え帰路の途につく使いの者の深々と頭を下げ、帰って行く姿を見送る兄の背はいつもの様に凛としていたので御座いますが……
いつもの様に気に入りの舶来の椅子に座り華月の煎れた茶を口にした光輝は、ゆっくりと詰めていた息を吐き出し、「中務 光輝 殿」と書かれ封をされた封筒を開きながら先程の使いの者が告げた言葉を口にしたので御座いました。
「華月……東城が鬼籍に入ったそうだ。妹御も病で逝かれたという……」
「……東城様のお妹様も?」
「何でも、逝かれた直後に知らせが入ったそうだよ。此の文は先程届いた遺品の中にあったそうだ」
「……あの、お兄様……おかしな事を云うと思われるかもしれませんが……私、帰路の途中に東城様らしき方をお見掛け致しました」
「……え?」
そんな馬鹿な……と呟きつつも、総てを否定する事も出来ぬと云う様な目をしながら手にしている封筒の封を開いて文に目を通し始めたので御座います。するとどうでしょう。見る見る顔色が変わって行ったので御座います。
「お兄様……?」
「華月……東城を見たと云ったが……何処でだ?」
「え?」
文をテーブルに置き、震える手で額を押さえながら問い掛けてくる兄に訝しく思いながら其の場所を告げたので御座います。
「……そうか…」
光輝はゆっくりと立ち上がり何時もの様に優雅に歩を進め、何人も口出しの出来ぬ様な雰囲気を醸し出しながら、其の部屋を後にしたので御座います。
「幽鬼でも構わない……」
そう呟きながら。
兄、光輝はもう二度と帰って来る事は御座いません。
光輝に宛てた優一郎からの文にはこう書かれておりました。
――もしもの時の為に文をしたためておく様に云われたので仕方なく此れを書いている。
もしもの時等、僕には全く考えられないのだが。此れは多分僕自身の手で君に渡す事になるだろう。
そうしたらまた学生の頃の様に文学論等を戦わせようじゃないか。良く立ち寄ったカフェーや夕暮れ迄話し込んだあの河原で――
華月にとって東城優一郎は忌むべき存在で御座います。最愛の兄が最も信頼し親友とまで云った其の存在なのですが、死した其の後、その兄迄も連れて行ってしまったのですから。
夕暮れ迄話し込んだという河原の其の先にある晩冬の川へと――
終