堕落の極め方
とあるアパートの一室で、足を組んでベッドに腰をかけている女は目の前の気の弱そうな男に言った。
「分かんないかなぁ、うん、まぁあんたに言っても分かんないやね、とにかくね、堕落なのよ、テーマは堕落」
窓の外でツクツクホーシの鳴き声が聞こえる。その合間に近所の子供達の笑い声。永らくフィルターの掃除を怠っていたせいで効きの悪くなったクーラーから流れ出る、申し訳程度の冷風を背に受けてフローリングの床に正座をしている男は、額に汗を浮かべて言った。
「すいません」
「謝ってんじゃないわよ馬鹿、そうじゃないでしょう、全くそうじゃない、ほんと何も分かってないんだからあんた馬鹿」
男は眉を伝って流れ落ちる汗を拭うことも忘れ、一糸纏わぬ姿で正座をし、バスタオルを巻いてベッドに腰掛けている女の言葉にただただ頷いているだけだった。
「……っていうか今でしょう、ほら、今謝りなさいよ馬鹿、謝るとこじゃないのに謝ってあたしの気を悪くしたんだから今こそ謝りなさいよ馬鹿」
男は相変わらず俯いたまま、しばしの沈黙の後、言った。
「すいません」
「遅いわよ馬鹿、大体あんた『言われて気付いた感』丸出しじゃないの。ほんとぐず。ぐず、って単語の響きがぴったりなのよあんたは」
「すいません」
「はっ、滑稽な男だねあんたは。そうやっていつも謝って謝って謝り倒しているのかい?ほんとにどうしようもない男だよ」
「すいません」
「あんたはねぇ、人間の屑、人間の屑の屑なのよ」
と、そこで再び二人の間に沈黙が訪れる。男はそこで小首を傾げて女を見上げた。
女は幾分決まりの悪そうな顔をしてから、男を見返して言った。
「……どう?」
男は正座を崩さず大げさに溜息を一つ吐いてから、腕を組んで言った。
「うーん、いや、何か全然気持ち良くないよ、そっちはどうなん?」
「あたしも」
原動機付き自転車が軽快に走り去る音が聞こえた後、子供の笑い声が一層強くなった。
それは暑い、朝からとても暑いある夏の一日のことで、真夏の強烈な日差しが小さく揺れる部屋のカーテンを貫通して室内を明るく照らしていたのだった。
「まあでもな、まだ始めたばかりだしな、そうそう都合良くは行かないと思うんだよね、もうちょい続けてみようぜ、何事も続けてみないと分からんよ」
「うーん、そうね、もうちょっと続けてみようか」
と、答えてから女は大きく一つ深呼吸をした後、言った。
「大体何よあんたは、いくら暑いからって何にも着ないでそんなとこ座って、え? 何だいあんたは、ほんとにどうしようもないやつだよ馬鹿」
「すいません」
「はっ、馬鹿が。馬鹿のくせに一丁前に言葉を発してるんじゃないよ、あんたは家畜でしょうが馬鹿者、ほら、家畜なら家畜らしく鳴いてごらんなさい」
男はそこで両手を一杯に広げて言った。
「ぱ、ぱおん、ぱおぉーん、ぱおぉーんぱおぉーん」
しばしの間、女は次に続く言葉が何も出てこなかった。
「……ちょっと止め、止め」
「ぱおぉーん」
女は妙な声を出し続けている裸の男を、ベッドから見下ろして言った。
「ちょっと一旦止めて、止め止め、あんた何よそれ?」
「何それって……象だけど」
「象?」
「そう、象。あれ?分かんなかった?」
「いや、そうじゃなくてさぁ、象ってどうなの?こういう場合って普通、犬とか豚とか、そういうあれじゃないの?」
「うーん、いや、そう言われてもなぁ」
「おかしいわよ絶対、大体あたし『家畜』って言ってんだからさ、『家畜』って言われて普通象は出てこないでしょう?」
顎にうっすら浮かんだ青ヒゲを手でさすり、男はしばし思案にくれた後、言った。
「象、駄目なの?」
「いや、別に駄目って訳じゃないけど……いや、駄目でしょやっぱ。『家畜』言われたら相場はやっぱ犬とか豚とかそういうあれでしょ」
「象って家畜じゃないの?」
「いや、そんなん知らないわよ、まぁ言われて見ればなんかインド人とかが足に使ってるかもしんないけどさ、って、そうじゃなくてさ、うーん……何て言うのかな、ほら、あれよ、イメージ、そう、イメージの問題なのよ」
男の身体がそこで微かに震えた。イメージ、という単語に反応したのだ。
「イメージ?」
「イメージが沸かないでしょう、象だと。なんかほら、あたしが『家畜』って言ったのはさ、一種の象徴、そう、象徴な訳よ、分かる?」
近所のガキ大将が語る武勇伝に聞き入る子供のように、男は女の話にただただ聞き入っていた。
「だからさ、象徴なの。あたしがあんたのこと『家畜』って言ったのはさ、あんたが『家畜』そのものだ、ってことを言いたかった訳じゃないのよ、厳密にはね」
象徴、という単語に反応して幾分顔を上気させた男は、女の方に身を乗り出して叫んだ。
「えぇ!?そうなの?えぇ?じゃあどういうこと、どういうことな訳?」
その時、女を見上げる男の両の瞳には、泥だらけになって水田の中の蛙を捕まえようとする農村の子供のそれのような輝きが宿っていた。
一方の女は努めて平静を保ちながら、
「ちょっと近い、近いよあんた、そんな興奮しないでよ、とりあえずそこ座り直して。そうそう、そう。いい?よく聞いて。あのね、あたしが『家畜』って言ったのはね」と言い、そこで勿体ぶったように一拍おいてから続けた。
「あたしが『家畜』って言ったのはね、『家畜』が象徴するものって意味なのよ」
男は大きく目を見開いて言った。
「か、『家畜』が象徴するもの、だって!?」
「そう、そうなのよ。あのね、『家畜』が象徴するものなのよ。そうね、それはもはや人間とか動物とか、目に見える形状を持ったものですらないの。言わば『概念』なのよ」
「かっ、が、『概念』?」
「そうよ。何かこう、抽象的な『概念』を指して、『家畜』が象徴するもの、としてるだけなのよあたしは。分かるかな」
「……なんか凄ぇなお前」
ふふ、と微かな笑みを浮かべながら女は話し続ける。
「だからさ、じゃあ聞くけどあんたは『家畜』って言われてどんなイメージが沸く?『家畜』のイメージとはなんぞや?その命題の答えがそのまま『家畜』が象徴するものになるんだから」
男は再び叫んだ。
「えぇ!?そうなの?俺そんなん知らなかったよ畜生、お前ほんと凄ぇな」
「いいからほら、あんたが持つ『家畜』のイメージってなんなの?聞かせてよ」
よし来た、とばかりに男はしばしの熟考の後、窓の外のツクツクホーシが一旦鳴き止むのを待って、言った。
「……虐げられる者達、かな」
女は一瞬面食らったような顔をした後、真っ直ぐに男の目を見据えて、言った。
「ああ、ああ……いいわ……いいじゃない、上出来よあんた。『虐げられる者達』ですって?いいじゃない。ドストエフスキーね。やれば出来る子なのよあんたは。そう、そうなのよ、あんたはさっき、まさに虐げられていたのよ!虐げられ、の真っ直中にあったのよ!」
男の勢いに釣られたのか、それとも自ら興奮を演出したのか、それは定かではない。定かではないがともかく、女も自らの展開する論に熱を介入させていた。二人は揃って顔を上気させていた。
「えぇ!?そうなの!?いや、そうか、そうっだったのか!じゃあ俺はさっき、お前に虐げられていたのか!」
「そうなのよ!あたしはあんたを虐げていたのよ。そう、だから象じゃ駄目なの。象じゃあんたの言う『虐げられた者達』っていう概念に似つかわしくないでしょう?」
「そうか、確かに。象ってあれ、強そうだもんな。でかいし」
「でしょ?だからほら、ここはオーソドックスに攻めるべきなのよ、例えば」
「例えば?」
「豚、とかね」
もはや男はいてもたってもいられない、と言う風情で女に食ってかからんばかりの勢いで、言った。
「豚!そうか、豚かぁ!」
「ちょっと近い、だから近いってば、あんたの気持ちも分かるけどこの段階でそんなに興奮してどうすんのよ、とりあえずそこ座り直して、そう、そうそう」
と、そこで、おほん、と一つ咳払いをした女は、今一度頭を冷やす必要を感じたのか、声のトーンを落として続けた。
「やっぱここは豚で行くべきなのよ。あんた知ってる?豚ってのはね、元はイノシシなの」
「え?そうなの?」
「そうよ、これがまたびっくりするような話なんだけどね、イノシシをね、人間の食用に品種改良したものがね、豚、なのよ……」
「す、凄ぇ……」
「そうよ、凄いのよ豚は。人間に食べられるために生まれてきた動物なのよ。人間に食べられる運命を背負ってこの世に生を受けた動物なのよ。そう……これは、これはまさに、」
女はそこで喉を鳴らして唾を飲み込んだ。男も同様だった。たっぷりと間を置いてから、果たして女は静かに、静かにこう言った。
「これはまさに、悲劇、ね……」
アパートの外の子供の声はいつしか止んでいた。ポンコツクーラーの作動音が室内に響いていた。再びツクツクホーシがけたたましい鳴き声を上げ始めた時、男がようやく口を開いた。
「うっ、ううっ、凄ぇよ、ほんと凄ぇよ、何だよそりゃ畜生、まさに虐げられてるじゃねぇかよ、悲し過ぎるよ」
女はそれには答えず、中空のただ一点のみを見据えたまま瞳を濡らしていた。男は決意を新たにして、言った。
「凄ぇよ、お前がそこまで考えてたなんて俺知らなかったよ。分かった。俺、やってみる。豚になりきってみるよ」
こくっ、と、静かに、極めて静かに頷いた女は、ベッドの脇に置いてある革製の鞭を手に取って立ち上がった。
「へへ、へへへ、何だか湿っぽくなっちゃったわね、さぁ、始めるわよ!この調子であたし達は堕落を極めるのよ!」
「はい!」
言われるまでもなく、そして誰に教えられた訳でもなく、男は自然に、極めて自然にその場に四つん這いになって、言った。
「ぶひぃ、ぶひぶひぃ!」
「あははは!恥ずかしい奴め、恥ずかしい奴め!あんたはほんとにどうしようもない奴だよ!この豚、豚豚豚、豚の中の豚」
「はい、私は豚です」
女はそこで四つん這いになった素っ裸の男の背中を右足で踏み付け、高らかに笑い声を上げながら、言った。
「はっ、生意気にしゃべってんじゃないよ屑、あんたは豚なんだからね、豚なら豚らしく鳴き声を上げてごらん!」
「ぶひぶひ、ぶひぶひぶひーん!」
「あははは!そうよ、あんたの行く末なんてねぇ、あんたの行く末なんてねぇ!食卓のテーブルの上なんだよ!」
と、女はそこで、男の尻に勢い良く鞭を振り下ろした。皮膚を叩く乾いた音が室内に響き渡る。
それが不味かった。
「いって、いってぇ!馬鹿!何だそれお前馬鹿!凄ぇ痛ぇよ馬鹿野郎!」
男の突然の剣幕に幾分たじろぎながらも、引くに引けない風情の女は今一度鞭を振り下ろした。
「いって!いっていってぇ!止めろコラ馬鹿野郎!思いっ切りやってんじゃねぇよボケ!凄ぇ痛ぇよ畜生!未だかつねぇほど痛ぇよ!」
我に返った男は女をベッドに突き飛ばしてから、再び四つん這いになって赤く腫れ上がった尻を手でさすっている。普通に座ると尻に障るためである。男に突き飛ばされてようやく我に返った女は肩で息をしながら、言った。
「ちょっと、ちょっと何なのよ、もう少しだったのに」
「うるせぇな、それどころじゃねんだよ、仕方ねぇだろうが、凄ぇ痛ぇんだもんよ」
一つ、大きく溜息を吐いてから女が言った。
「はぁ、あんたねぇ、身も蓋もないこと言ってんじゃないわよ」
男はしきりに尻をさすっている。さすっていれば痛みが引くと思っているのだ。
「……痛いんだからしょうがないだろ」
「そこは我慢しなさいよ」
「我慢たってよぉ……そもそも気持ち良くねぇし」
小首を傾げて女が言った。
「え?そうなの?」
「当たり前だろうが。痛いだけだよ」
再び窓の外から、焼けたアスファルトの地面にボールが弾む音に混じって、子供達のはしゃぐ声が聞こえてきた。遠くで犬が吠えている。外の気温はその夏の最高気温を記録していた。
男は尻をさするのを止めてから立ち上がり、言った。
「とりあえず服、着よっか」
「うん、そうだね」
それは暑い、朝からとても暑い或る夏の一日のことで、それから数時間後、二人は極々平凡なアパートの一室で、極々平凡な成り行きを経て、極々平凡な性交に及んだ。
二人が堕落を極めるのはまだまだ先のことになりそうである。