05 魔王の娘、初めての接客
朝の光が廃屋カフェ・マーヤの窓を照らす。
焼きたてのパンの香りが、まだ冷えた石床の上をゆるやかに漂っていく。
「よし、今日もいい焼き色だ」
相川真はオーブンの扉を開け、木べらでパンをすくい上げた。
湯気とともに広がる小麦の香ばしさに、思わず深呼吸する。
この世界に来て一週間。異世界転生して最初にしたことが「カフェの開店準備」になるとは、過去の自分でも予想できなかっただろう。
「……うん。こっちでもちゃんと発酵するんだな」
真は自作のノートにメモを書き加える。『グルメリンク』というスキルの効果なのか、この世界の素材でも現代のレシピが再現できた。
それが嬉しくて、眠れぬ夜が続いている。
「……おはようございます」
小さな声が背後からした。
扉の向こうに立っていたのは、昨日からここに住み込みで働くことになった少女――リリィだ。
白いエプロンの紐がうまく結べず、彼女は背中で結び目をいじっている。
「おはよう、リリィ。ちゃんと眠れたか?」
「……はい。ベッド、やわらかかったです」
「そっか。じゃあ今日は接客の練習をしようか」
その言葉に、リリィの肩がぴくりと揺れた。
彼女の黒い瞳には、ほんのわずかな怯えが混じっていた。
無理もない。
リリィは魔王の血を引く少女。村の外では、彼女の存在が知られれば命を狙われる。
けれど、ここではただの見習い少女として扱う――それが真の決めたルールだった。
「大丈夫。接客って言っても、最初は挨拶だけでいい」
「……あ、挨拶」
「そう、いらっしゃいませって言うんだ。難しくないだろ?」
「……り、りらっしゃいま……?」
「噛んだな」
思わず笑いがこぼれ、リリィが頬をふくらませる。
その表情がなんだか可笑しくて、真は久しぶりに仕事の笑いじゃない笑顔を浮かべた。
午前の営業が始まる。
カウンターの前には、いつもの常連――守衛の戦士レオグが座っていた。
彼は屈強な腕を組み、無愛想にカップを見つめている。
「今日のおすすめは香草スープです。胃にも優しいですよ」
「……昨日のと同じか」
「味は少し変えました。今日は森で採れたローグラスを使ってます」
レオグが一口すすり、静かに目を閉じる。
「……悪くねぇ」
「ありがとうございます」
そのやり取りを、リリィは厨房の奥で見ていた。
真は彼女の様子をちらりと見て、小声で言った。
「リリィ、次の客が来たら、君が声をかけてみよう」
「……えっ、もう?」
「うん。練習しなきゃ、いつまでもできないだろ?」
リリィは唇を噛みしめ、小さくうなずいた。
そのとき、扉の鈴が鳴った。
「……失礼するぞ」
入ってきたのは、初老の魔族商人。深い皺を刻んだ顔に、長い黒外套。見るからに気難しそうだ。
リリィは震える手でお盆を持ち、ゆっくりと歩み出た。
真の心臓も、少しだけ速く打つ。
「い、いらっしゃいま……せ……」
声はか細く、途切れがちだった。だが、確かに言葉になっていた。
魔族商人は一瞬、赤い瞳を細め、彼女を値踏みするように見た。
「ふむ……人間の店だと聞いたが、案外、可愛げのある小娘を置いているではないか」
リリィがぴくりと肩を震わせる。
真は一歩前に出て、笑顔で言った。
「ええ、うちの看板娘です。おすすめは香草スープと焼きパンのセットです」
商人は鼻を鳴らした。
「ほう、ではそれを頼もう」
数分後。
リリィが震える手でスープを運ぶ。
テーブルの上にそっと置こうとした瞬間、スプーンがカランと音を立てて落ちた。
「……っ!」
顔が真っ青になる。
客の表情が険しくなるのが、リリィにも分かった。
「も、申し訳……」
「いいよ、落ち着いて」
真が駆け寄り、頭を下げる。
「すぐお持ちしますね」
彼はそのまま厨房に戻り、手早く新しいスプーンを洗って温めた。
戻ってくると、商人はスープを口にしていた。
その目が、ほんの少しだけ和らいでいる。
「……悪くない味だ」
「ありがとうございます」
「だが、人間にしては珍しいな。味付けに遠慮がない」
「ええ、料理は正直者ですから」
その言葉に、商人は目を細めた。
「……なるほど。おぬし、ただの料理人ではないな」
リリィはその会話をそっと聞きながら、胸の奥で何かが温かく灯るのを感じていた。
自分の失敗を庇ってくれたこと。怒られなかったこと。
それが、彼女にとっては初めての経験だった。
昼を過ぎ、客足が一段落した頃。
リリィは椅子に座り、膝の上で手を握りしめていた。
「……わたし、ダメですね」
「どうして?」
「お客様にスプーンを落として……みっともないです」
真は笑って首を振った。
「そんなの誰だってやるさ。問題は、次にどうするか、だ」
「次……」
「そう。次にもう一度、笑って『いらっしゃいませ』って言えたら、それで十分だ」
リリィは顔を上げた。
真の瞳には、叱責でも憐れみでもない、信頼があった。
「……はい。次は、ちゃんと笑って言います」
「うん、それでいい」
人も魔族も、同じ空の下で暮らしている。
その境界を、料理が少しずつ溶かしていく――。
夜。
片付けを終えたあと、リリィは厨房の隅で小さく呟いた。
「……いらっしゃいませ」
少し噛んだ。でも、昨日よりはましだった。
真はその声を聞きながら、片隅で焙煎豆をかき混ぜる。
その香ばしい香りが、ふたりの間の静寂をゆるやかに満たしていった。
彼は思う。
この小さなカフェから、何かが変わる気がする。
魔王の娘と人間の料理人――不思議な組み合わせが、世界を少し温かくしていくような気がして。
その夜、色褪せた村には一つ、新しい光が灯った。
ご覧頂きありがとうございます!
また感想・評価・ブックマークで応援いただけると幸いです。




