表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

05 魔王の娘、初めての接客

 朝の光が廃屋カフェ・マーヤの窓を照らす。

 焼きたてのパンの香りが、まだ冷えた石床の上をゆるやかに漂っていく。


「よし、今日もいい焼き色だ」


 相川真はオーブンの扉を開け、木べらでパンをすくい上げた。

 湯気とともに広がる小麦の香ばしさに、思わず深呼吸する。

 この世界に来て一週間。異世界転生して最初にしたことが「カフェの開店準備」になるとは、過去の自分でも予想できなかっただろう。


「……うん。こっちでもちゃんと発酵するんだな」


 真は自作のノートにメモを書き加える。『グルメリンク』というスキルの効果なのか、この世界の素材でも現代のレシピが再現できた。

 それが嬉しくて、眠れぬ夜が続いている。


「……おはようございます」


 小さな声が背後からした。

 扉の向こうに立っていたのは、昨日からここに住み込みで働くことになった少女――リリィだ。

 白いエプロンの紐がうまく結べず、彼女は背中で結び目をいじっている。


「おはよう、リリィ。ちゃんと眠れたか?」


「……はい。ベッド、やわらかかったです」


「そっか。じゃあ今日は接客の練習をしようか」


 その言葉に、リリィの肩がぴくりと揺れた。

 彼女の黒い瞳には、ほんのわずかな怯えが混じっていた。


 無理もない。

 リリィは魔王の血を引く少女。村の外では、彼女の存在が知られれば命を狙われる。

 けれど、ここではただの見習い少女として扱う――それが真の決めたルールだった。


「大丈夫。接客って言っても、最初は挨拶だけでいい」


「……あ、挨拶」


「そう、いらっしゃいませって言うんだ。難しくないだろ?」


「……り、りらっしゃいま……?」


「噛んだな」


 思わず笑いがこぼれ、リリィが頬をふくらませる。

 その表情がなんだか可笑しくて、真は久しぶりに仕事の笑いじゃない笑顔を浮かべた。




 午前の営業が始まる。

 カウンターの前には、いつもの常連――守衛の戦士レオグが座っていた。

 彼は屈強な腕を組み、無愛想にカップを見つめている。


「今日のおすすめは香草スープです。胃にも優しいですよ」


「……昨日のと同じか」


「味は少し変えました。今日は森で採れたローグラスを使ってます」


 レオグが一口すすり、静かに目を閉じる。


「……悪くねぇ」


「ありがとうございます」


 そのやり取りを、リリィは厨房の奥で見ていた。

 真は彼女の様子をちらりと見て、小声で言った。


「リリィ、次の客が来たら、君が声をかけてみよう」


「……えっ、もう?」


「うん。練習しなきゃ、いつまでもできないだろ?」


 リリィは唇を噛みしめ、小さくうなずいた。




 そのとき、扉の鈴が鳴った。


「……失礼するぞ」


 入ってきたのは、初老の魔族商人。深い(しわ)を刻んだ顔に、長い黒外套(くろがいとう)。見るからに気難しそうだ。


 リリィは震える手でお盆を持ち、ゆっくりと歩み出た。

 真の心臓も、少しだけ速く打つ。


「い、いらっしゃいま……せ……」


 声はか細く、途切れがちだった。だが、確かに言葉になっていた。

 魔族商人は一瞬、赤い瞳を細め、彼女を値踏みするように見た。


「ふむ……人間の店だと聞いたが、案外、可愛げのある小娘を置いているではないか」


 リリィがぴくりと肩を震わせる。

 真は一歩前に出て、笑顔で言った。


「ええ、うちの看板娘です。おすすめは香草スープと焼きパンのセットです」


 商人は鼻を鳴らした。


「ほう、ではそれを頼もう」




 数分後。

 リリィが震える手でスープを運ぶ。

 テーブルの上にそっと置こうとした瞬間、スプーンがカランと音を立てて落ちた。


「……っ!」


 顔が真っ青になる。

 客の表情が険しくなるのが、リリィにも分かった。


「も、申し訳……」


「いいよ、落ち着いて」


 真が駆け寄り、頭を下げる。


「すぐお持ちしますね」


 彼はそのまま厨房に戻り、手早く新しいスプーンを洗って温めた。

 戻ってくると、商人はスープを口にしていた。

 その目が、ほんの少しだけ和らいでいる。


「……悪くない味だ」


「ありがとうございます」


「だが、人間にしては珍しいな。味付けに遠慮がない」


「ええ、料理は正直者ですから」


 その言葉に、商人は目を細めた。


「……なるほど。おぬし、ただの料理人ではないな」


 リリィはその会話をそっと聞きながら、胸の奥で何かが温かく灯るのを感じていた。

 自分の失敗を庇ってくれたこと。怒られなかったこと。

 それが、彼女にとっては初めての経験だった。




 昼を過ぎ、客足が一段落した頃。

 リリィは椅子に座り、膝の上で手を握りしめていた。


「……わたし、ダメですね」


「どうして?」


「お客様にスプーンを落として……みっともないです」


 真は笑って首を振った。


「そんなの誰だってやるさ。問題は、次にどうするか、だ」


「次……」


「そう。次にもう一度、笑って『いらっしゃいませ』って言えたら、それで十分だ」


 リリィは顔を上げた。

 真の瞳には、叱責でも憐れみでもない、信頼があった。


「……はい。次は、ちゃんと笑って言います」


「うん、それでいい」


 人も魔族も、同じ空の下で暮らしている。

 その境界を、料理が少しずつ溶かしていく――。




 夜。

 片付けを終えたあと、リリィは厨房の隅で小さく呟いた。


「……いらっしゃいませ」


 少し噛んだ。でも、昨日よりはましだった。


 真はその声を聞きながら、片隅で焙煎豆をかき混ぜる。

 その香ばしい香りが、ふたりの間の静寂をゆるやかに満たしていった。


 彼は思う。

 この小さなカフェから、何かが変わる気がする。

 魔王の娘と人間の料理人――不思議な組み合わせが、世界を少し温かくしていくような気がして。


 その夜、色褪せた村には一つ、新しい光が灯った。

ご覧頂きありがとうございます!

また感想・評価・ブックマークで応援いただけると幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ