04 スープを盗みに来た、少女
夜のカフェ・マーヤは、昼とは違う顔をしていた。
竈の火が小さく揺れ、外では風が岩山を抜けて唸っている。
客のいない静寂が、耳に痛いほど心地よい。
相川真は一人、木のテーブルを拭いていた。
スープ鍋の残り香が漂い、今日もなんとか一日が終わる。
「……まぁ、思ったより順調だな」
そう呟きながら、彼は帳簿を開く。
売上はほんのわずか。それでも、子供たちの笑顔が利益だと考えれば、悪くない。
村の復興はまだ遠い。だが、確かに人が戻りつつあった。
それだけで十分だ。
真がため息をつき、竈の火を落とそうとしたとき──
背後で、カラン、と音がした。
扉の鍵は閉めたはずだ。
気配を探ると、暗がりの奥で、小さな影が動く。
「……誰だ?」
返事はない。
代わりに、スープ鍋の蓋がゆっくりと持ち上がる音がした。
真は静かに足音を消し、背後へ回る。
そして、そっと灯を掲げた。
そこにいたのは、痩せた少女だった。
年の頃は十二、三。
ボロ布をまとい、髪は煤で汚れ、瞳は夜空のように深い黒。
彼女の手には、木のさじ。
鍋の中身をすくい、必死に口へ運ぼうとしていた。
「……盗み食いか」
真が言うと、少女の体がびくりと震えた。
スプーンを落とし、まるで野兎のような動きで逃げようとする。
「待て、逃げなくていい!」
思わず声を上げると、少女はぴたりと止まり、振り向いた。
その瞳が、怯えではなく、警戒で光っているのを見て、真は気づいた。
この子は……生きるために盗ってるんだ──
彼はため息をつき、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「腹が減ってたんだろ。スプーンくらいなら、使っていい。ただし、火を落とす前に言ってくれ。冷めると美味しくないからな」
少女の目が見開かれた。
信じられない、という表情。
「……怒らないの?」
「腹が減ってる奴を怒っても、腹は膨れないさ」
その言葉に、少女の肩が少しだけ緩む。
真はスープをよそい、目の前に差し出した。
「食べな。まだ温かい」
少女は一瞬ためらった後、両手で皿を受け取り、慎重に口をつけた。
舌に触れた瞬間、目が見開かれる。
そして次の瞬間、夢中でスープを飲み干した。
「……おいしい」
「そりゃよかった」
彼女の頬がわずかに赤くなる。
その様子を見て、真は思わず笑った。
だが、次の瞬間、少女の腹が「ぐぅ」と鳴り、顔が真っ赤になった。
「まだあるから、遠慮すんな」
「……ありがとう。でも、もう行かないと」
そう言って立ち上がる少女。
真はとっさに腕を伸ばした。
「待て。名前、くらい教えてくれ」
「……リリィ」
それだけ言い残して、彼女は闇の中へ走り去った。
***
翌朝。
村の入口で、レオグが険しい顔をしていた。
「人間。昨夜、村の外で盗賊が出た」
「盗賊?」
「いや、正確に言えば元貴族の残党だ。魔王の血を引く少女を狙っているらしい」
真の手が止まる。
「魔王の血……?」
「ああ。魔王の直系はほぼ滅んだが、最後に一人、行方不明の娘がいる。──名は、リリィ・ルーフェン」
心臓が跳ねた。
昨夜の少女の名と、同じだ。
「まさか……」
レオグはうなずいた。
「そのまさかだ。奴らは『証』を求めて村を探っている。お前も気をつけろ」
真は店へ戻りながら、胸の奥がざわつくのを感じた。
あの少女の瞳には、確かに『力』があった。
ただの孤児の目じゃない。
「まさか、あの子が……」
彼は竈に火を入れ、スープをかき混ぜた。
湯気の向こうで、心が決まる。
「……もしまた来たら、今度は『客』として迎えよう」
そう呟く彼の背に、夕陽が差し込む。
その光は、まるで約束のように温かかった。
***
その夜。
再びカフェ・マーヤの扉が、静かに開く音がした。
入ってきたのは──昨日の少女。
だが今日は、怯えの代わりに決意を宿した瞳で立っていた。
「……あの、お願いがあるの」
「なんだ?」
「ここで、働かせてほしい」
真は少し驚き、すぐに笑った。
「いいぞ。ただし給料はスープ一杯だ」
「……安い」
「うちはまだ赤字だからな」
少女の唇に、わずかな笑みが浮かぶ。
その瞬間、店の空気がふっと温かくなった。
真は心の中で小さく呟く。
リリィ・ルーフェン……か。この子が魔王の血だろうが関係ない。俺にとっては、ただの、腹を空かせた子だ。
その夜、竈の火がもう一度灯る。
新しい仲間が増えたことで、カフェ・マーヤはようやく店として息づき始めた。
──だが同時に、外の世界も動き出していた。
魔王領の北方で、軍が再編されつつある。
そして、少女リリィの存在を知る者たちが、静かに動き始めていた。
スープの香りの向こうで、世界が変わり始める。
それを、この時の真はまだ知らなかった。
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