孤独なマルタ
公園のベンチに座る老女の膝の上には、手作りの革の鞄が置かれていた。
マルタは白髪を丁寧に結い上げ、額の食神の印を隠すことなく晒していた。もう隠す必要はなかった。この平和な世界では。
目の前では子供たちが遊んでいる。母親たちが笑い合っている。食神の民も、そうでない者も、同じベンチに座り、同じ空気を吸っている。
三十年前には考えられなかった光景だった。
マルタは小さく息をついた。
手元の鞄を撫でる。自分の店「マーサ工房」で作ったものだ。丁寧な縫製と働く女性が使いやすいデザイン。従業員たちの技術が詰まっている。
製造から販売まで、全て食神の民の女性で運営している店。政府の被差別民雇用促進補助を受けて始めた小さな工房は、女性向けに特化した鞄が、女性雇用促進の波に乗って、安定した売り上げを出していた。
老後の心配はない。従業員たちも、まっとうな仕事で給料をもらい、まっとうな生活を送っている。
マルタは成功した。生き延びた。平和を手に入れた。
それなのにマルタの胸には、いつも空虚な穴が開いていた。
◇◇◇
内戦が終わってから二十年。
マルタは一度も、息子たちに会っていない。
ロベルト、カルロ、マルコ。三人とも、あの混乱の中で消息を絶った。
最後に会ったのは、亡命の前日だった。
「母さんには、生きていて欲しい」
長男のロベルトが、マルタの手を強く握って言った。
次男のカルロも、三男のマルコも、同じことを言った。
マルタは抵抗した。
だが息子たちは譲らなかった。
マルタは女性で年齢的にも戦えるという体力はなかった。
きっと息子たちの足手纏いになる。それは分かっていた。
だが、三人の可愛い息子たちが生まれた時の、あのしわくちゃで弱くて、マルタに離れないでと泣いていた様子が頭から離れなかった。
貧しい中病院にも受け入れてもらえず、夫と二人で出産し命懸けで育ててきた長男。
組織に闇医者を抱えて取り上げたのに、産声がなくて焦った次男。
組織の安定を求めた協業相手に裏切られた抗争で夫が亡くなった翌日に生まれた三男。
息子たちさえ生きていてくれれば、マルタはどうなっても良かった。
息子たちにこそ逃げて、生きていてほしかった。
けれど、マルタは息子たちの願いを聞き入れた。
息子たちを無理矢理に海外へ逃しても、それが彼らの幸せにならないことも分かっていた。
息子たちは、ただ生まれただけで虐げられる、食神の民の未来を変えようとしていた。
マルタは最後に可愛い息子たちを、もう大きくなってマルタの背をとうに越している子どもたちを抱きしめて、一人ひとり頬を撫でた。
マルタは胸が張り裂けそうになるのをグッと堪えて、必ず迎えにきてねと言った。
息子たちは必ず迎えに行くと言った。
それが最後だった。
二十年間、一度も連絡はなかった。
恐らくは三人とも亡くなっているのだろう。マルタを置いて。
だが確証はなかった。
もしかしたら、どこかで生きているかもしれない。マルタを恨んで、連絡を絶っているのかもしれない。
何か連絡が取れない理由があるのかもしれない。
けれど組織を息子に預けて、一人のうのうと亡命し、平和の中で生き残っているマルタが、あの街に戻って人探しをすることは出来なかった。
きっとマルタの決断のせいで助けられなかった人が大勢いて、マルタを恨んでいる人も大勢いる。
あの国も内戦の後、多くの混乱を経て今ではかなり平和になったと新聞やニュースは言うけれど、実態は分からない。
マルタが姿を見せることで、怒りや悲しみが湧き上がる人はいる筈で、これ以上自分のために人を不幸にしたくなかった。
しかし、マルタは孤独だった。
頭では分かっても、感情はどうにもならない。
ただもう一度、一目でいいから息子たちに会いたかった。
息子たちが望んだマルタの余生は、マルタにはあまりにも長かった。




