第5話:さようなら
エバは家に帰ると座り込んだ。身体が震えて止まらなかった。
子供がトタトタと駆け寄ってきた。
「ママ、どうしたの?お腹痛い?」
エバは優しい子供の顔を見た。
可愛い。白い滑らかな肌、くりくりした人懐っこい目、小さなお鼻。すべてが大好きだった。
エバは子供を抱き寄せた。久しぶりに声をあげて泣いた。
子供は困惑した表情をしていた。
エバは子供をぎゅっと抱きしめると急いで用意をした。
「今日は遠くにお出かけするからね、好きなおもちゃ持っておいで」
子供にもそう言って準備をしてもらった。
子供は「うん!」と返事をして、熊のぬいぐるみを持ってきた。遠くへのお出かけに喜んでいた。
エバは男性相手の仕事の時のドレスを着て、ヘアオイルで髪を固め、きつく結い上げた。
カバンに入れられるだけ金目のものを詰め込んだ。
身の安全を考えて車が拾える場所に出るとすぐ捕まえて、高級な街へ向かった。
質屋で金目のものを全て換金した。エバはともかく、子供の身なりを見て不審な目を向ける店員に、エバは堂々と言った。
「この子のことは気にせず。こちらの換金はマルタ様のご命令です」
マルタの組織の一員であるバッジを見せると店員は縮み上がって予想以上の金に変えてくれた。
その金で子供に美しい服を買った。高級なシャツに、上質なズボン。靴も革製の立派なものを選んだ。子供は鏡に映る自分の姿を見て、嬉しそうに笑った。
「ママ、僕、王子様みたい!」
「そうね、ルイはママの王子様よ」
エバは微笑んだ。本当にエバにとっては自分を救ってくれる王子様だった。
エバも品の良い上等な服を買って着替えた。
家を出る前から、男性相手の仕事で習った、印を隠すのではなくヘアアレンジだと思われるような重めの前髪にしていたが、鏡の前で念入りに整えた。
二人は少し高級なレストランに向かった。煌びやかな装飾、美しい食器、上品な音楽。大きな窓から見える湖。
戦場や貧しさといったものとは遠く、すべてが別世界のようだった。
子供はきょろきょろとあちこち興味津々に見ていたが、日頃からマルタの世話になる時などに、声を小さくするよう教えていたおかげか、はしゃいで大声を出して注意されてしまうことはなかった。
エバもマルタ仕込みの堂々とした立ち振る舞いのおかげで、怪しまれずに済んだ。心の中で胸を撫で下ろした。
「ママ、これ美味しい!」
子供は目をきらきらと輝かせて、「ママも食べて」と自分のスプーンでエバの口に料理を運ぼうとしてくれた。
ここではマナー違反だからと断ると、ムッとした。
「ママがいつも僕にばっかりご飯くれるから、僕だってあげたかったのに」
ここが高級レストランでなければ、エバは優しい子供を抱きしめて頬擦りしていただろう。
「有難う」と言うと、「ママ大好きだもん」と屈託なく返ってきた。
その一言で、五年間、この子と過ごした日々が走馬灯のように蘇った。
初めて抱いた時の温もり、初めて笑いかけてくれた時の感動、「ママ」と呼んでくれた時の喜び。
立つのが遅くて心配したこと、エバに向かってまだおぼつかない足で一生懸命歩いてきてくれたこと。
風邪をひいて高熱を出し、この世の終わりのように心配したこと。エバと子供が並んで手を繋いでいる絵を描いてくれたこと。
すべてが宝物のような思い出だった。
「こんなに美味しいのは初めて」と言って、ほっぺを押さえ、たくさん食べた子供は、満足そうにレストランの椅子でぬいぐるみを抱えて眠ってしまった。
エバは子供の寝顔をそっと撫でながら、この小さな手が自分を必要としてくれた日々を噛み締めた。
「大好きだよ」
エバは少し誰かに連絡しに行くようなふりをして、堂々とレストランから出た。
湖の隣は大きな公園になっていて、そこのトイレで服を着替えると、公衆電話から警察を呼んだ。
「レストランに子供が置き去りにされています」
エバは、子供が富裕層の子供と思われて警察に保護されるのを、公園にあるカフェから見守った。
食神の民なら蹴飛ばされているところを、大切に抱きかかえられていく姿を。
子供は大きく口を開けて何かを叫んでいた。
その動きが「ママ!ママ!」だと気付いたエバは、涙で前が見えなくなっていた。
◇◇◇
それからエバにできる仕事は非常に限られていた。
食い荒らしの街には戻れず、マルタの組織の競合である証拠隠滅組織にも入れなかった。
マルタを真っ向から敵に回すことはできなかった。新しい所属組織にも迷惑がかかるし、何よりマルタは子供の命の恩人であることに変わりはなかったからだった。
あの時マルタがいなければ、子供とエバは、きっとあの場で死んでいただろう。
生きる希望はどこにもなかった。泥水を啜る方がマシだと思うような日々が続いた。ただ生きているだけだった。
しかし都会の灯りを見るたび、あの子はどうしているだろうと思った。
子供にはマルタの名前や街のことを言ってはいけないと何度も何度も伝えていたけれど、まさか食神の民の子だと思われていないだろうか。
お腹を空かせていないだろうか。大切な人はできただろうか。友人や家族はいるだろうか。子供はいるのだろうか。
エバは確かに愛した。愛されもした。食神の民として生まれ、誰からも蔑まれて生きてきたが、あの五年間だけは違った。
自分はあの子の母親だった。それだけで十分だった。
◇◇◇
「もう良い」
裁判官が処刑人を呼んだ。
「女はこうやって作り話で同情を買おうとする」




